2ー10 いただきます
ロワメールの朝は早い。
早朝から起きだし、刀の稽古だ。シノンでは、セツ家の裏手にある泉のほとりが格好の修行場となっている。
そこでしっかりと体を動かし、家に戻って汗を流し、台所に顔を出すと朝食ができあがっている。
「セツ、おはよう」
「おう、おはよう。ちゃんと起きれたんだな」
昨夜の夜更かしで寝坊するかと思った、と笑う。
「うーん、今日は眠いよ……」
食卓につけば、いい匂いが漂ってきて、途端に胃袋が空腹を訴えた。
「いただきます」
毎朝、二人揃って朝食をとる。玉子焼きに漬物、常備菜の金平や佃煮、干物など、朝は簡単なものばかりだが、どれも美味しいのでロワメールは毎朝幸せである。
「セツ、あのさ、花ちゃんなんだけど」
玉子焼きを飲み込み、ロワメールが口を開いた。今朝の玉子焼きは、ロワメールの好きな海苔を巻いたやつだ。
「んー?」
豆腐とネギと薄揚げの味噌汁を飲みながら、セツが返事をする。
「こんなこと言いたくないけど、その、信用させて裏切る、とかないよね……?」
それは考えうる中で最悪の想定だが、ロワメールは王子として、セツはマスターとして、その可能性は視野に入れておかねばならないはずだ。
「それはな、たぶん全マスターが警戒した」
胡瓜の浅漬が、ポリポリと小気味よい音を立てる。
「こいつの目的はなんだ、ってな。警戒しつつ様子を見て、かれこれ約千年……」
「千年!?」
セツは先代から、先代も先々代から、先々代もそのまた先代からと、伝え聞く限り、花緑青に悪意はない。花緑青が人間に敵対したこともないし、もっと言えばこのユフ自体、魔族の被害が極端に少なかった。
「もうなぁ、あいつは単に遊びに来てるとしか思えんよ」
信用を得て裏切るなど、もはや今更である。それが目的なら、とっくの昔にしているはずだ。
「花ちゃんってそんな昔から……」
「あいつはあんなナリをしているが、中身は紛れもないじーさんだ。俺と違ってな」
「………………プッ」
辛うじて横を向いたが、それでもしっかり吹き出してしまったロワメールを、セツは軽く睨みつけた。
「ごめっ……我慢しようと思ったんだけど、だって……セツが『俺と違って』って、妙に力説するから……」
小刻みに震えながら、必死に笑いを抑えているらしいが、あまり意味はない。
「まったく、なにがそんなにおかしいんだ。俺は正真正銘二十代だって言うのに……」
ブツブツと文句を言うセツがおかしくて、ロワメールの笑いが後を引く。
「花は、なんであんな子どもの姿だと思う?」
ようやく笑いやんだロワメールに、セツが問いかけた。
「なんでって……。ああいう姿なんじゃないの?」
「魔主だからな。見た目は自由自在だ」
姿形だけでなく、人間に化けることもできる。だからこそギルドのお膝元で、大手を振って夏祭りを楽しめたのである。
「『この姿が、わしの可愛さを体現するのに最も適しておる』って、いけしゃあしゃあとほざいてたよ」
ロワメールが可笑しそうに笑った。
「花ちゃん、美少年だもんねー」
可愛さなら、ロワメールの少年時代も負けてなかったと思うが、セツは黙っていることにした。
「そういうふざけた奴なんだよ。だから、ロワメールもあんまり気にするな。それに、万が一花が人間に危害を加えるなら、俺が責任を持って止める」
「……うん」
それは、花緑青に関わった全てのマスターの覚悟だ。
「ねえ、セツ。そもそもなんだけど。このギルドって、結界張ってるんじゃなかったの?」
王宮に匹敵する強固な結界がギルドを覆っているはずだが、何故魔主がその結界内に入れるのか。ことと次第によっては、由々しき事態である。
「ああ、この家には出入りできるようにしてるんだ。じゃないと、結界に介入しようとして、大騒ぎになるからな」
魔主が結界に干渉しただけで、魔族の侵攻と勘違いされるだろう。
「あいつは結局、好きにさせておくのが一番無害なんだ」
それが、千年かけてマスターが辿り着いた結論である。
「まあ、悪いことばかりじゃない。花からの情報は貴重だ」
「まさか、ぼくたちの知ってる魔族の知識って……」
「全部、ではないがな」
魔族の被害を減らすよう、対魔族の攻略に役立つよう、歴代マスターが知り得た情報を流出させているのだ。それは貴重で、得難い知識である。その一事だけでも、魔主との交流は価値があった。
「……ぼく、知ってよかったのかな。今更だけどさ」
食べた食器を洗いながら、ロワメールが不安げに零した。家事のほとんどをセツに任せきりなので、できることは率先して手伝うように心掛けている。食後の片付けは、ロワメールの担当だった。
成り行きで知ってしまった魔主の存在だが、長い年月、マスターだけの胸の内に秘する存在であったのに。
「花ちゃんのこと、司は?」
洗い終わった食器を拭きながら、セツが首を横に振った。
ギルドの最高責任者である司にすら、極秘にされているーー。
それはそれだけ、この事態をマスターが重く見ているということだ。
この事実が漏洩すれば、これまで築き上げてきた魔法使いへの信頼など、簡単に吹き飛ぶ。人間への裏切り行為と取られかねなかった。
「すまない。ロワメールにまで、重い秘密を背負わせてしまった」
セツは手を止め、ロワメールに深く謝罪する。
食器を洗い終えたロワメールは、目の前にあるアイスブルーの瞳を見つめた。
かつては見上げたその目が、今では同じ高さにある。
「背負うよ」
考えるより早く、言葉が口をついて出た。
「セツと一緒に、ぼくも背負う」
迷いなく、そして力強く答える。
セツの手が上がりかけ、途中で止まった。銀の髪を撫でようとした手は、代わりに青年の肩に置かれる。
「ありがとう」
これまでのように、ただ守られてばかりでなく。その背をひたすら見上げるのではなく。
色違いの瞳がわずかの間彷徨い、視線を下げ、口元が震えるように笑みを作った。
この時、込み上げてきた感情の名前を、ロワメールは知らない。
ただ嬉しくて、そしてなにより、誇らしい気持ちでいっぱいだった。




