4ー6 ヒショー・アン・ラギ
馬車から一歩外に出ると、茹だるような暑さが押し寄せてきた。
「うっわ、やっぱりキヨウは暑いなー」
セツに温度調整をされた車内とは正反対の、むせるような熱気と湿度が肌を刺す。キヨウは四方を山に囲まれた天然の要塞だが、代わりに暑さと寒さは身に沁みた。
初秋の陽光には夏が色濃く、照りつける日差しと影のコントラストは鮮やかだ。
「おかえり、ロワ」
その声に視線を転じれば、側近とは別に、意外な人物がロワメールを出迎えてくれていた。
月光を纏った銀の髪に涼しさを湛えた海色の瞳、人目を引く凛々しい立ち姿に、目の覚めるような美貌はロワメールと血の繋がりを感じさせる。
皇八島第一王子、王太子ヒショー・アン・ラギ、その人である。
「兄上、来てくださったんですか!?」
「愛しい弟に、おかえりを言いたくてね」
「ただいま帰りました、兄上」
ヒショーは誰もが見惚れるような輝く笑顔で、両腕を広げた。
飛び込んでおいでとばかりに王太子がにじり寄れば、ロワメールはジリジリと後退る。
緊張感をはらんだ無言の攻防から一転、ガバリ! とヒショーが弟に抱きついた。しかしロワメールはその動きを見越し、ひょいと横にズレて兄の抱擁を華麗に躱す。
「お兄ちゃん、ロワが留守の間、ロワの仕事も片付けておいたよ」
それでもめげないヒショーのその一言に、勝敗が決まった。ロワメールはくっと悔しそうに兄から目を逸らす。
ロワメールもシノンで仕事はしていたが、キヨウでなければ決裁できないものもある。執務机に山積みの未決裁書類を覚悟していた身にとっては、有り難いことだった。
「ん〜、会いたかったよ〜」
ヒショーにぎゅう〜と抱きしめられ、銀の髪にスリスリと頬ずりされるのを、ロワメールはげんなりしながら耐えている。兄はなにかというと、弟を抱きしめたがる。いつものことだった。
しかも悔しいことに、ヒショーは弟より上背があり、着痩せするロワメールと違って肩幅も広い。剣術と馬術で鍛えられた引き締まった体躯は、見事に均整が取れていた。
「あー、仕事大変だったー。疲れたなー」
これみよがしな独り言だが、二人分の仕事をこなしたとなると、尋常ならざる量である。ロワメールはなにも反論できなかった。
「あ、ありがとうございます、兄上」
「ありがとう、お兄ちゃん! でしょう?」
ニコニコと、間違いを指摘する。
「あ、ありがとう、お兄ちゃん」
敗北感を滲ませロワメールが復唱すれば、兄は満足そうだった。
「兄上ー、そろそろ離してー、暑いしミエルが潰れるー」
ミエルはロワメールの手の中である。
熱烈な抱擁から解放されると、ミエルがキョロキョロと王子兄弟を見比べた。
「やあ、君がミエルか。はじめまして」
ミエルを飼うことは、カイが事前に知らせている。
ヒショーが指を差し出すと、ミエルはフンフンと匂いを嗅ぎ、嬉しそうに頬ずりした。
人懐っこい子ネコに目を細め、ヒショーはミエルの頭を撫でると、そこでようやく、その場に佇む魔法使いに目を向けた。
「そしてあなたが、弟が愛してやまない名付け親殿か」
スッと表情が改まる。
ヒショーの態度には弟の命の恩人への敬意が、しかし『海の眼』には、冷酷無慈悲と噂される魔法使い殺しへの警戒心が含まれていた。
「紹介します、兄上。こちらがぼくの命の恩人で名付け親であるマスター・セツです。セツ、ぼくの兄ヒショー王太子殿下だよ」
だが、セツの白い髪を視界に収めた途端、ヒショーの目が驚愕に見開かれる。
「貴方は……」
信じられないとばかりに、言葉を失った。
「兄上?」
ロワメールは兄の異変に気付くが、ヒショーは微動だにせず、呆然と呟く。
「……ああ、なんだ、貴方だったのか」
セツに覚えはないのか、ロワメールと目が合うと小さく首を振った。
「そうか、なんだ。そうだったのか。白い髪の魔法使い、確かに」
独りごちると、一転、ヒショーは声を漏らして笑いだす。
「セツをご存知なんですか?」
「良い人に助けてもらったね、兄弟揃って」
「兄上も、セツに助けてもらったことがあるんですか!?」
意味深な発言に、ロワメールは辛抱たまらなくなった。
焦れる弟に、ヒショーはクスリと笑う。
「私が昔、家出をした話はしたね? その時助けてくれた魔法使いが、彼だよ」
「空を飛んで、兄上にこの国を見せてくれたっていう、あの魔法使いですか!?」
その魔法使いの話は、兄から幾度となく聞いている。
あの時見た景色が忘れられず、今の兄を形作る原風景となっているのだと言っていた。
「貴方が忘れているのも無理はない。十八年も前の話です。まだ六歳だった私は母の死が受け入れられず、ダイトの祖父母の屋敷から逃げ出した。途中人攫いに遭った私を助けてくれたのが、貴方です」
空高く舞い上がり、青い海に囲まれた美しい島々を眼下に眺めた時、守るべきものを知ったと、兄は言う。母の死を乗り越えられたのも、この日のおかげだったと。
ようやく当時の状況を、セツは思い出した。
「あの時の生意気な子どもか!」
「あれ、待って。じゃあ、セツが見た銀の髪の子どもって、兄上だったの!?」
ロワメールにも話が繋がる。コウサに行く時、馬車の中でセツに聞いた話だ。
「貴方に名前も聞かなかったことをずっと後悔していたけれど、また会えてよかった。あの時は、ありがとうございました」
「いや、ロワメールの兄だったとは、俺も思いもしなかった」
まさかの再会は、不思議な縁を感じさせる。
(世間は意外に狭いって言うより……)
あまりに出来すぎた偶然は、作為的ですらあった。
(ひょっとして、『月光銀糸』が引き合わせてくれた?)
ロワメールは下ろされた銀の髪に、そっと触れる。
――月神が、マスターと結婚して、始祖王ジンが生まれたのかもしれないぞ。
セツは冗談めかしていたけれど。
(月神のお導きだったりして。なーんてね)
奇想天外な夢物語に心躍らせながら、ロワメールは多忙な兄が帰っていくのを見送った。
❖ お知らせ ❖
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4ー7 新緑宮の側近たち は、5/14(水)の夜、22:30頃に投稿を予定しています。




