6 異能者セシルの結婚
どのくらいの時間が経ったのだろう。突然、寝室の扉を激しく叩く音が聞こえ、セシルは目を覚ました。
「え? 何事?」
ここは新婚初夜の夫婦の寝室だ。誰がこんな無粋なことを? それとも何か緊急事態の発生だろうか? はっ、まさか火事!?
セシルは慌てて、隣で眠り込んでいるアイロスの大きな身体を揺さぶった。
「アイロス様! 起きてください! 火事かも知れません!」
「へ? 火事?」
寝ぼけ眼のアイロス。案外可愛い……じゃなくて!
扉を叩く音はますます激しくなり、更に悲鳴のような女性の声まで扉の向こうから聞こえて来るではないか。女性はとても興奮しているようで、何を言っているのか、部屋の中にいるセシルには聞き取れない。だが、セシルは気付いた。これってベルティーユの声では?
今夜、ベルティーユとパトリス夫婦は披露パーティーに出席後そのまま此処ゴベール侯爵邸のゲストルームに泊まっているはずだ。やはり、この屋敷で何か非常事態が!? 焦るセシル。
細い裸身にガウンだけを纏ったセシルは、急いで扉に向かおうとした。ところが、いきなりアイロスに腕を掴まれ、ぐぃっと彼に引き寄せられてしまったのである。
「開けてはダメだ。セシル嬢」
「セシル嬢」……その物言いに、セシルは再び違和感を覚えた。寝台に運ばれる直前に感じた彼への僅かな違和感と同じものだ。
「アイロス様……ですよね?」
「……俺はパトリスだ」
やがて、扉の外から聞こえるベルティーユの悲鳴のような喚き声に男性の怒鳴り声が加わった。こちらも怒り過ぎていて何を言っているのかよく分からないが、パトリスの声だと思われる。ただし、アイロスとパトリスは声もソックリだ。
「今、扉の外で怒鳴っているのがパトリス様ではないのですか?」
「すまない。俺がパトリスだ。怒っているのは兄上だ」
「もしかして、またベルティーユ様の提案で入れ替わりを?」
「セシル嬢。本当にすまない。ベルティーユが『これで必ず最後にする。初夜に悪戯を仕掛けるのを最後に、これからは絶対にセシルさんに意地悪をしないから』と言って。兄上はベルティーユに弱いから『これで絶対最後にしろよ。約束だぞ』と了承してしまったんだ。俺は二人に言われて断れなくて……」
アイロスもパトリスもバカなのだろうか? バカなのだろうね! ベルティーユも、まさかここまで粘着質なオンナだったとは。
「初夜に新郎が入れ替わるなんて『悪戯』では済まされないと思いますが」
そう言ってセシルが睨みつけると、アイロスもといパトリスは泣き出しそうな顔になった。
「君と二人でワインを1、2杯飲み、少し寛いだタイミングで、こちらから鍵を開けてベルティーユと兄上を中に入れ、皆で君に種明かしをする予定だったんだ。でも、俺、何故だか急に君のことが大好きになってしまって……セシル嬢、本当に愛してる! 君を兄上に渡したくないんだ!」
そりゃそうだろう。何せ【唯一魅了】を掛けたのだから。そして、この魅了を解く術は無い。セシルが死ぬまで、パトリスはセシルの虜である。
想定外の状況に、すっかり酔いが醒めたセシル。どうしたものかと頭を抱える。
⦅どうする? どうする? どうするセシル?⦆
こうしている間も寝室の扉の向こうでは、ベルティーユと本物のアイロスが騒いでいる。そのうち使用人達が駆け付けるだろう。下手をすれば侯爵夫妻までもが。
⦅侯爵夫妻にアイロス様とパトリス様の”入れ替わり”が知れれば、大変な事になってしまうわ⦆
セシルが死なない限り、パトリスに掛けられた【唯一魅了】は解けない。「悪戯」がバレて、セシルと引き離されることになれば、パトリスは間違いなく”無理心中”を企てるだろう。【唯一魅了】は【生涯呪縛】と表裏一体の恐ろしい魅了なのである。このままでは、セシルは例の150年前のクロエ嬢と同じ結末を迎えることになってしまう。最悪だ。
⦅”無理心中”なんて絶対に御免だわ⦆
セシルはパトリスに尋ねた。
「パトリス様。パトリス様は私のことを愛して下さっているのですよね?」
「ああ。本当に愛してるんだ。セシル嬢」
パトリスはそう答え、縋るような眼差しでセシルを見つめる。
「『セシル』と呼んで下さい」
「え?」
「私たちは、もう夫婦なのですから」
「俺の妻になってくれるのか?」
目を瞬くパトリス。
セシルは妖しい笑みを浮かべ、こう言った。
「何を仰っているのですか? 私たちは正真正銘の夫婦ではありませんか」
「うっ……」
言葉に詰まったパトリスを、セシルがか細い腕でそっと抱きしめる。
そして彼女はパトリスの耳元で囁いた。
「二人で幸せになりましょう」
「……その為に、俺は、俺はどうすればいい? 教えてくれ”セシル”」
扉の外には、騒ぎに気付いた何人もの使用人が駆け付けたようだ。
「パトリス様。一体、何をなさっておいでなのです? ここは新婚の御夫婦の寝室ですぞ。無粋にも程がございましょう」
と本物のアイロスを諫める、侯爵家の執事の声が聞こえる。
「俺はパトリスじゃない! アイロスだ! 中にいるのは俺じゃなくてパトリスなんだ! あいつが裏切ってセシルを寝取ろうとしてるんだ! 早くセシルを助けないと!」
耳が慣れてきたのか、怒鳴るアイロスの言葉がほぼ聞き取れたセシル。
「パトリス様――――阿婆擦れ――――イヤー!!――――キィー!!」
こちらは所々しか聞き取れない。ベルティーユはもはや錯乱状態に近いようだ。
愚かな「悪戯」など仕掛けなければ、子供の頃から好きだったパトリスと、ずっと一緒に居ることが出来たものを……。
その時、逞しい裸身にガウンだけを羽織ったパトリスが、内鍵を解錠し扉を開けて部屋の外に出た。
そして、そこで喚いているアイロスとベルティーユに向かって、こう言い放ったのだ。
「一体、何の騒ぎだ? パトリス、お前は何をしている? 今夜は俺とセシルの大事な初夜なんだぞ。邪魔立てするな!」
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セシルとパトリスは仲睦まじい夫婦になった。
セシルは夫のことを、人前では「旦那様」と呼び、二人きりの時だけ「パトリス様」と呼んだ。
もともと、アイロスとパトリスを明確に見分けられるのは、彼らの幼馴染ベルティーユただ一人だった。そのベルティーユが心を病んで王都を去った今、パトリスの【秘密】に気付く者などいるはずもない。
本物のアイロスはと言うと、自ら行方を晦ましてしまった。周囲にどんなに訴えても、誰も彼をアイロスだと認めなかったのだ。彼の絶望は如何ばかりだったろう。
あの夜「俺はどうすればいい?」と尋ねたパトリスに、セシルはこう助言した。
「【嘘を吐くときは隙を見せずに堂々と吐く】これは貴族心得の基本です。パトリス様、奮起なさいませ。貴方と私の幸せの為に」
結婚後、何年経っても何十年経っても、パトリスは変わらずセシルを溺愛し、大切にしてくれた。
セシルは4人の男子を産み育て、やや思慮の浅い夫をいつも笑顔で助けながら、終生ゴベール侯爵家を盛り立てた。
終わり