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僕ラーメン、535ちゃい

作者: ゅべ

食事をテーマとする際に迷わず浮かんだテーマがラーメンでした。ラーメン大好き日本人としてその歴史と爆弾の道のりを描いたものです。


最後までお付き合い頂けると嬉しいですm(_ _)m

 国民食ラーメン。


 その定義はかん水によりコシが備わった中華麺を使用した麺料理とされる。


 言わずと知れた中国の麺料理と日本の食文化が融合した至高の逸品。しかし融合を果たした二つの文化には大きな違いが存在した。


 それはスープの立ち位置である。


 ラーメン専門店が提供するそれはスープに対する拘りが垣間見える。中国の麺料理と比較すると費やす食材の種類も時間も桁が違う。


 具材も脂分も全てはラーメン様のために。スープを含めたそれらはラーメンなくして輝くことは無いのだ。


 一方で中国の麺料理のスープは他の料理に使用されるスープと同じもの。


 中華料理から切り取られた形のラーメンが徹底して味を追求されれば当然の変化と言える。日本人の探究心と相まってラーメンだけが日々進歩と変化を繰り返して中華料理のカテゴリーとは全く別のものへと昇華した訳だ。


 ラーメンは日本に伝来を果たしたその日から様々な出来事を経験して国民に愛される現代の様な旨味が凝縮された形へと進化を果たしたのである。


 だがその進化も元がなくして起こり得ない。


 ラーメンの伝来はいつ頃だろうか?


 多くの人はラーメンを初めて食べた人は水戸黄門、つまり水戸光圀と言うだろう。厳密には光圀公が家臣に振る舞ったとされるエピソードだ。


 ラーメン爆誕の地は水戸藩だ!

 ラーメン維新は水戸藩が中心!


 とラーメン水戸学過激派の茨城県民は言うだろう。


 残念ながらそれは違う。

 近年の調査では日本で初めてラーメンが食べられたのは1488年、足利将軍が世を治めた室町の時代である。


 当時の呼び名は『経帯麺けいたいめん』。


 ここにラーメン幕府たる存在は産声をあげて爆誕する。


 中国に渡った日本人が現代のラーメンの元祖となるレシピを持ち帰り、それを京都のお寺で来客に振る舞ったと記述された近年文献が発見された。


 まさにラーメンの歴史が書き換えられた瞬間である。


 同時に茨城県民のプライドがズタズタに引き裂かれたであろう瞬間でもあった。


 しかしそこは大きな問題ではないのだ。肝心なことは起源の時期に関係なくラーメンが日本人の文化に溶け込まなかったこと。


 何れの時もラーメンが流行ることはなかったのだ。


 当然、現代よりも気軽な料理とは言えなかったラーメンであるが流行らなかった理由は別にあるとされる。レシピも現代のラーメンと大差無く、再現者は「現代でも十分に通用する」とコメントを残している。


 味や好みの問題でもなかった訳だ。


 兎に角、室町時代であれ江戸時代であれ理由は定かではないが日本人がラーメンに心を奪われることはなかったことだけが真実である。


 そうなると肝心なことはいつ頃日本人がラーメンを受け入れたのか、である。


 その契機となったのは1854年、鎖国が終わりを告げた時代だった。その頃から日本では多くの外国人が居住を開始していた。


 これを皮切りに中国の麺料理が本格的に日本へ伝わっていくのだ。経帯麺の伝来から数百年が経過してようやく時代は動き出す。


 1870年には横浜に中華料理屋が爆弾。


 1884年にも函館で南京そばと呼ばれる塩ラーメンの元祖が洋食屋で爆誕した。


 この立て続けの爆弾から26年後、ラーメンは本格的に日本侵略を開始する。1910年に東京の浅草で来来軒が歴史的な爆弾を果たしたのだ。


 来来軒のラーメンこそ全ての醤油ラーメンの元祖と呼ばれる存在となる。


 侍の世が終わりを告げた時代にラーメン征夷大将軍が登場した。


 チャーシュー、メンマに刻みネギがトッピングされたラーメン。経帯麺の伝来から400年以上をかけてようやくラーメンが日本人に認められた瞬間だった。


 更に1923年、札幌で来来軒と同様に醤油ラーメンを提供する竹屋食堂が爆誕。ここでラーメン界を揺るがす一大ムーブメントが巻起こった。


 これまで支那そばと呼ばれていたラーメンが正式にラーメンと呼ばれる様になったのだ。支那そばから中華そば、ラーメンへと名称が変わりかの有名なチキンラーメンがこの後に登場することでその名称は日本全土へと広がった訳だ。


 それとは別に時代のうねりは意外な形で大きく広がっていくのだ。



 関東大震災である。



 震災で当時の華々しい繁栄が見る影もなくなった首都・東京。誰もが肩を落とし悲しみに暮れた大災害。そんな中で悲しむ暇すら奪われた人々の前に屋台と言う形でラーメンは再度爆誕を果たす。


 これで何度目の爆誕だろうか?


 日本人は生来の逞しさを誇りとしてラーメン文化を絶やすことを許さず不屈の魂で何度でも爆誕を繰り返す。


 被災した人々はラーメンをすすって復旧への道を邁進するのだ。


 大和魂はラーメンによって支えられ、ラーメンもまた大和魂に支えられていると言っても過言ではあるまい。


 しかしである。


 そんな逞しい日本人も人間の愚かさには抗えない。震災を乗り越えた先に待ち構えていたものはラーメンの全てを灰と化していく。



 第二次世界大戦の開戦だ。



 日本全土からラーメンが姿を消した1939年、そこから6年後の1945年に終戦と共に誕生した闇市で再びラーメンは復活の爆誕を果たすのだ。


 幾度となく絶滅に憂き目に会おうともラーメンは何処からともなく音を立ててやって来る。


 ゾンビかはたまたは不死鳥か。


 ラーメンはいつの時代であろうと必ず日本人の隣にいてくれる存在だった。


 愛いやつなのだ。

 もはや日本国民全ての愛玩動物と認定しても差し支えあるまい。


 兎にも角にもここからがラーメン戦国時代の真なる幕開けだったのだ。


 醤油ラーメンの登場から37年も遅れて1947年に博多の三九で豚骨ラーメンが爆誕を果たした。


 博多の大名と言えば黒田家。


 ここに黒田官兵衛の生まれ変わりとして豚骨ラーメンの天下統一への道のりが始まった訳だ。


 このラーメン界の天才軍師たる豚骨ラーメンの誕生は思いもよらぬやらかしからだった。


 仕込みの最中にあろうことか外出した店主、火をかけたまま鍋から離れて店に帰ってみればスープは煮えたぎり白く濁っていた。


 そのスープがあまりにも美味しくてそのままラーメンとして提供したのが始まりだ。


 労働者目線で素早く提供するために細麺を使い、麺がのびないようにと大盛りではなく替え玉システムを採用したことで豚骨ラーメンは瞬く間に大ヒット。


 まさに荒木村重の謀反に決死の覚悟で説得に向かった有岡城で幽閉された官兵衛が一介のノーマル軍師からSSR天才軍師に限界突破した様なエピソードである。


 だが敢えて火をつけたまま外出をするなと心の底から叫びたい。運が悪ければスープどころか店舗すらも消失しかけたであろうこの事件は現代の飲食業界では確実に保健所から怒られるだろう。


 別にいいんだけどさ……。


 そして次は番外編だ。


 1952〜1955年頃に油そばはひっそりと爆弾した。ルーツは諸説あるものの発祥の地は共に東京の武蔵野市、丼のそこに入った醤油ベースのタレとごま油を麺と絡めて食す所謂汁なしラーメンである。


 油そば以外にもまぜそばや手抜きそばなど様々な呼び名がついたこのラーメン。具材はチャーシューや温泉卵に刻みネギ、時にはマヨネーズや背脂から天かすなどラーメンの常識を覆すものばかり。


 安価でボリュームがあったため学生たちの支持を得たこれは誕生から40年後の1996年頃からヒットすることなる。


 世間に注目を受けぬまま地下アイドルの如く油そばは地道なレッスンを繰り返す日々を送ったのだ。


 そして番外編を経てここから終に北の大地でも爆誕を果たしたとあるラーメンが存在した。


 それが札幌味噌ラーメンである。


 南京そばから遅れて70年、1954年に味の三平でそれは生まれた。


 中華鍋に味噌とスープを合わせて具材を炒め、独特モチモチ食感のたまご中太麺を使用した文字通り身も心も温まる逸品。


 北の大地で心温まるラーメンは着実に道民の心を掴んでいく。


 その不屈の精神は松前藩に最後まで誇り高く抗ったアイヌの英雄シャクシャインの如し。


 兎にも角にも。


 こうしてラーメン四天王は勢揃いした訳だ。征夷大将軍の醤油ラーメン、天才軍師の豚骨ラーメン、北の大地を独自路線で開拓し続ける屯田兵の塩ラーメンと部族の英雄味噌ラーメン。


 世はまさに群雄割拠。


 それそれが天下統一への道を着実に歩み出したのである。四者四様の進化、その進化を求め、受け入れた地域性。


 それはひとえに人間の営みそのものだった。


 だが何時の時代も事件は起こる。



 それはチキンラーメンの登場である。



 前述の通りラーメンの名称定着に貢献したもはや説明不要の伝説のインスタントラーメンである。


 お湯をかければラーメンに、そのまま齧ればスナック菓子に早変わり。


 日清食品から発売されたそれは開発者の労働基準が完全に無視された一年間を費やした努力の賜物として生を授かった。


 開発者は一日四時間しか睡眠を取らなかったと言う。


 何時の時代もコンプライアンスだけは忘れずに……。


 こうして様々な苦労の末に生み出されたチキンラーメンは当時の袋麺よりも高価で売り込んだ先々で「今までの乾麺と違いが分からない」だの「これまでの袋麺よりも10円高い」と塩ラーメンではないにも関わらず散々な塩対応を受けることとなる。


 あくまでチキンですよ。


 それでも蓋を開けてみれば大ヒット、気が付けば多くの取引先が我先にとチキンラーメンを求めて工場に押し掛けることとなる。


 これが現代に至ったチキンラーメンのシンデレラストーリー。


 卵を乗せる窪みを作ったり様々な試行錯誤を繰り返しては逞しく生き残ってきたチキンラーメン。


 大阪で誕生し、そこから大企業にまで成長を遂げた日清食品。彼らの弛まぬ努力に支えられたチキンラーメンは宛ら百姓から天下人まで上り詰めた天下の出世頭。


 ラーメン界きっての苦労人。

 家から追い出されて一介の針売りから公家の最高位・関白にまでのし上がった話題性。


 ラーメン界の太閤と呼ばれるに相応しい存在である。


 露と落ち露と消えにしわが身にならないのが猿とは一味違うところである。


 心より敬意を払います。


 それでは本題のラーメンへ話を戻そう。


 1961年に今度は東京は池袋に店を構えた大勝軒でつけ麺が爆弾の産声を上げた。


 こちらはまかない飯から一躍人気となった変わり種だ。


 大勝軒は大学に囲まれた恵まれた立地の人気ラーメン店だった。つけ麺の原案は店主の修行時代にまで遡り従業員へ賄として提供を開始。それを偶然目にしたお客へ提供したところ反応は上々。


 冷し中華を参考に砂糖と素を追加、麺はラーメンの三割増。味と見栄えを整えたつけ麺は瞬く間に店の人気メニューへとのし上がったのだ。


 暖簾分け代を一切取らず持ち得るノウハウの全てを包み隠すこと無く全ての弟子へ伝えた店主はお客からも弟子からも『豚ガラ、鶏ガラに人柄』と愛される人物だった。


 長野で爆誕したこの店主はラーメンの神様と呼ばれた人物。つけ麺の一大ブームの火付け役となりラーメンの地位を脅かした事件はラーメン界の征夷大将軍醤油ラーメンからも『日の本一のツケメン』と称される日もそう遠くはないだろう。


 この後、つけ麺は更に進化を続けて魚介や豚骨かベースの濃厚なつけ汁を売りにしたジャンルが一大ブームを巻き起こすことになるのは遠くない未来の話。


 店主の発案は後のラーメン界を活発化させる素晴らしいものだった。


 つけ麺の快進撃はまだまだ続くのである。


 そして1968年にはラーメン二郎が東京の港区で爆誕。


 こちらの店主は料亭の元和食料理人。当初はラーメンくらいなんとかなると何とも緩いスモールスタートを切って店をオープンした。


 しかし蓋を開ければ深夜まで営業してもお客は多くて一日に20人前後。


 それを見かねは近所の中華料理屋にその店で修行をするようにすすめられた。更には近隣の客からの助言も受けて独自の味を作り上げることに成功する。


 スープはチャーシュー用の豚肉と豚骨に香味野菜と背脂を煮込んだ強烈な逸品。注文時のカスタマイズも可能で注文時に店員からヤサイ、ニンニク、アブラにカラメの変更を聞かれるのが通常だ。麺は独特な食感の平打ち太麺で麺も小サイズが一般的なラーメンの特盛かそれ以上とラーメン界の魔王的存在。


 店主は既に生前葬を済ませ二郎院野菜辛目大蒜増脂増居士(じろういんやさいからめにんにくましあぶらましこじ)を生前戒名としたことは有名な話である。


 魔王と仏の合体した姿は天下布武を思わせる。


 ここまでラーメン界の四天王とそれを脅かす新勢力を語ってきた。


 しかしこれらの影に埋もれながらあの巨星が黙っていなかった。二度目となる爆弾を虎視眈々と狙っていたのだ。


 1971年、あのカップヌードルが終に爆弾した。


 生みの親はまたしても日清食品である。この頃になるとインスタントラーメンの食中毒が相次ぎ国内での売上が伸び悩んでしまったのだ。


 すると発想の転換とばかりに国外へ目を向けた日清食品、国内の天下統一を果たしても野望が絶えない辺りが太閤らしい行動力だった。


 舞台はアメリカへ。


 ラーメン初の世界進出計画である。


 だがそこで国外の異文化を目の当たりにしてしまった日清食品。売り込みの席でバイヤーたちは紙コップでチキンラーメンを調理、そのまま紙コップからフォークを使って試食する光景を目の当たりにする。


 箸も丼も存在しないアメリカは衝撃を受けた日清食品。


 だがタダでは転ばないのが太閤。

 彼らはこれらの経験を新たな成功の糧として日本の地へ舞い戻るのだ。


 そこで出した答えこそがカップヌードルだった。


 日清食品は二度目となる世紀の大発明を成し遂げた。


 会心の力作に日清食品は当然国内での販路拡大を目論む。意気揚々とカップヌードルの売り込みを進めるも価格がインスタントラーメンの約四倍と言うこともあり予想外の苦戦を強いられることとなる。


 苦境に立たされたカップヌードル。


 全く見向きもされず工場で在庫の山となった我が子の姿は生みの親としては涙が枯れる想いしかない。


 だが如何なる時代もラーメンを見放さないのが日本人である。この時、救いの手を差し伸べたのは自衛隊だった。


 演習中の携帯食として自衛隊によって重宝されたカップヌードルは次第に病院や警察など夜勤がある職場で強く支持されていく。歩行者天国で売り出せば売り切れになるほどの人気となって僅かだが着実に普及は進んでいった。


 それでも一般の流通では一向に取り扱われない。


 そんなモヤモヤとした状況が続く中で一つの事件が契機となってカップヌードルは爆発的な人気を獲得した。



 1972年に起きたあさま山荘事件である。



 連合赤軍の残党が人質を取って河合楽器の保養所に立て籠もった歴史的な大事件はテレビで生中継され注目を浴びた。その中継で極寒の現場でお湯を沸かして熱々のラーメンを食す機動隊の姿が放送されると瞬く間に大反響となっていった。


 視聴者たちもあれば何だと興味を示したことでカップヌードルは全国から脚光を浴びることとなったのだ。


 最終的には宇宙食にまで認定されたのだからこの上ない大出世と言えよう。大阪生まれの太閤は宇宙規模で天下統一を果たしてしまった訳だ。


 日本のラーメンが宇宙へ進出しようとはその当時の誰も思い描けなかっただろう未来の偉業である。


 このカップヌードルの大ヒットを挟んだ1974年の横浜で大爆誕を果たしたのか家系ラーメンの吉村家。


 豚骨醤油スープに太いストレート麺が特徴のこのラーメンは吉村家の店主の「九州の豚骨と東京の醤油を混ぜたら美味いんじゃないか?」と言う思い立ちで爆誕した新ジャンル。


 具材はチャーシューにノリとほうれん草。


 豚骨ラーメンと同様に味や麺の硬さの好みを選べながら常備されたみじん切りの生タマネギやゴマ、ニンニク、お酢などを自由に使えるのが特徴。麺も通常の中華麺よりも短くコシが強い。


 戦国の世を多彩な才能で走り抜けた後北條氏の面影が感じられる逸品である。城を四方から取り囲まれても粘り強く戦い抜く姿勢を見せながら家臣の裏切りにあった後北条氏宛らのお家騒動があったことは触れるだけに留まろう。


 ここまで様々なラーメンが登場したが1980年頃からご当地ラーメンも全国各地で爆誕を繰り返すこととなる。


 福島の喜多方ラーメン。

 栃木の佐野ラーメン。

 広島の尾道ラーメン。

 北海道の室蘭カレーラーメン。

 青森の味噌カレー牛乳ラーメン。

 後の煮干し系ラーメンへと進化を果たす青森の津軽ラーメン。


 上げればキリがない一方でそれぞれがそれぞれの地域にシッカリと根を張り地元民たちの心を鷲掴みにしていくのだ。


 気が付けばこれまでに登場したラーメンたちにも勇敢に立ち向かい下剋上を繰り広げる光景は雌雄を決する関ヶ原の戦いだ。


 日本全土で毎日のようにラーメン一揆が勃発を繰り返す状況にまでなっていた。


 そんな殺伐とした時代。


 スープでスープを洗う時代を必死に乗り越えて2000年代に突入すると今度は斬新でいて何処か懐かしさを覚える優しい味が特徴のラーメンが台頭していくのだ。


 その名は鳥白湯ラーメン。


 鶏ガラなどを白濁するまで煮込んだスープをベースとしたラーメンである。


 コラーゲンを豊富に含んだそれは女性を中心に人気に火が点いた。後味は豚骨ラーメンと比べてあっさりと軽く老若男女に好まれる味でもあった。


 他のラーメンと比べて人間が本能的に求める甘味と旨味が強い。


 1971年の時点で屋台として爆誕した天下一品なども白湯ラーメンを提供する店として有名ではあるが実はブームは全く別のものから端を発していた。


 ブームの火付け役となったのはまさかの博多の鳥水炊き鍋だった。


 白湯ラーメンを提供する多くのラーメン店がそれをヒントにしたと語っており水炊き鍋のブームから続いたものとされている。


 この白湯ラーメンはスープを撹拌して白さを演出する場合もあり、撹拌することでスープと返しが均一化され口当たりがまろやかなものとなる。それは戦国一の意識高い系である今川義元公を連想させる真っ白さなのだ。


 それらは「カプチーノ系ラーメン」や「エスプーマ系ラーメン」と呼称されることがある。


 最もそれは豚骨ラーメンにも使用される用語のため一概には言い切れないので注意が必要だ。


 2010年代になると台湾ラーメンが後発のご当地ラーメンとして爆誕を遂げる。


 台湾料理に起源を持つこのラーメンは名古屋が発祥の地とされ、俗に言う名古屋めしの一種である。


 名古屋の中華料理屋で台湾ラーメンが評判を呼ぶと他店でも続々とメニューに載るまでになった至極の逸品。


 きしめんと味噌煮込みうどんにあんかけスパゲティ、この麺類三英傑は台湾ラーメンの爆誕に夜も眠れない日々が続くだろう。


 そして現代はコッテリ系から一転して透き通ったスープが特徴の端麗系ラーメンが爆誕を果たしている。


 ラーメンは味覚だけではなく視覚でも楽しめる時代となったのだ。


 日本にラーメンが伝来して今年で535年が経過した。


 その長さは江戸幕府が成立した時間の二倍。


 その間にラーメンは多くの進化を遂げては日本人の胃袋を掴んで離さすことはなかった。日本人が本当に苦しい時も悲しい時も、楽しいときでさえラーメンは我々の隣りにあり続けてくれた。


 この長い年月の中でラーメンは日本になくてはならない存在となり、それどころか「Japanese Soba Noodle」として世界へ進出を果たす店舗も散見されるまでになった。


 それでもラーメンが我々のそばを離れることはない。

 これからもラーメンは身近な存在として進化を遂げていくはずだ。


 ラーメンが今後どの様な成長を遂げるかは我々日本人にとって見逃せない楽しみの一つとなるだろう。


 そんな国民食に今日も感謝と誇りを抱きながら笑顔で両手を合わせよう。


 元気な声でいただきます。

お読み頂いてありがとうございますm(_ _)m


また続きを読んでみたいと思って頂けたら嬉しいです。ブクマや評価ポイントなどを頂けたら執筆の糧となりますので、もし宜しければお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最初から最後までずっと「ほえぇ~、はえぇ~」とうなりながら読ませていただきました。 当たり前のように、実に何げなく食べているラーメンに、こんなにも歴史があったなんて。 そして地元の台湾ラー…
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