鄭和とそのスポンサーの話
「三保太監殿、ありがとうございます。これで日本経由で南海の国々と自由に交易できます」
小さな宴会の席でそう言ったのは、鄭和のスポンサーの一人である。
「ええ、日本への渡航が自由となったので、日本を経由して南海の国々と交易できるようになる。それはあなた方にとって大きな利益となるでしょう」
鄭和はそう言って、酒の杯を飲み干した。
さて鄭和は成祖の命令で南海の国々へ航海していたが、明の使者が日本の征夷大将軍、足利義持に殺害されたことから、成祖は立腹、日本遠征を考えた。しかし、臣下の多くが反対し、断念しようとしたところに鄭和が、
「日本を征服するのは無理ですが、冊封体制に引き戻すことはできます」
と言ったのである。成祖が、
「どういうことだ」
と聞くと、鄭和は、
「以前、元の世祖が日本を攻めた時、日本の武士たちは懸命に戦い、元を防ぎましたが、恩賞が十分にもらえず、不満を持ったとのこと、武士たちもそのことを覚えているでしょう。交易の利を持って誘えば、降る者も出てきましょう。即ち、冊封体制に引き戻すことは十分に可能だということです。ただ完全に併合しようとすれば、拒むと思いますので、征服は無理だということです」
と言った。それを聞いた成祖は、
「よしやってみよ」
と鄭和に日本遠征を命じた。そして、鄭和は亦失哈に北から日本へ向かわせ、以前訪日した鄭和の世話になった足利満兼に工作して、明へ秘かに寝返らせ、自分は侯顕と共に三万の兵を率いて日本へ向かった。鄭和の軍が侵攻してくるのを知った足利義持は、迎撃軍を自ら率いて堺に直行して上陸した鄭和率いる明軍と戦ったが、明軍の火器と鄭和が従えていた女真族の騎兵の前に大敗して、京都へ逃げ帰った。そこにちょうど援軍という名目で京都に到着した満兼に囚われ、満兼が明軍を京都へ引き入れて、戦争は明の勝利に終わった。囚われた義持は、息子の義量と共に明へ送られ、一旦は誅殺されることになったが、成祖の「特別な慈悲」により、直前に許されて、西域のハミへ流された。後に許されて、日本への帰国を許されるも、義量は帰国の船中で、義持は赤間関(下関)に着いた直後に死去することになる。一方、鄭和は日本の諸大名に対し、倭寇の徹底的な取り締まりに尽力すること、明の商船を受け入れることを義務付ける代わりに朝貢一回につき、銅十貫の貢納と引換(但し回賜は銅の実額と同程度に限られた)に、三年一貢の間隔で明と交易することを認めた。さらに明の商船の日本への渡航を自由とした。これにより、明の商船が日本経由で南海の国々へ渡航するようになり、明と南海の国々との交易が盛んになったのだった。こうして以前から南海諸国と交易していた鄭和のスポンサーたちは大きな利益を得たのだった。