大明大日本国史年表
紀元前106年:前漢が韓郡と倭郡を置く。韓郡は、朝鮮半島南岸一帯を、倭郡は対馬、壱岐、五島、筑紫北部一帯を支配。
紀元前100年:韓郡一帯の不安定に耐えかね、韓郡、倭郡は廃止され、現地人の自治に委ねられる。北九州にこれらの国々の行政を監察するという名目で倭三韓御史という役職が置かれ、現地の政権と共存する。倭郡が置かれた数年の間に漢から倭に様々な文化が伝わる。
100年頃:南九州から来た傭兵のイワレヒコという人物が近畿地方を統一し、ヤマト王権を創始したといわれる。倭三韓御史もこれを後援。後、山陽地方や四国、北九州にも進出。ヤマト王権は、中国へ朝貢していた関係から、倭三韓御史とも共存。
154年頃:後漢の永興年間(153~154年)に倭三韓御史が倭王へ勧めて、足羽川上流部と九頭竜川上流部を結ぶようにして、後に三野(美濃)の土壁と呼ばれる長城が築かれたという記録がある。長城の遺跡も残っている。当時倭国が不安定化したため、東方からの蝦夷の侵入が活発化したために建設されたと言われる。
247年:曹魏の時、倭三韓御史として任命された張政が、邪馬台国(ヤマト王権)の狗奴国との戦いを支援するため、三千の兵を率いて、邪馬台国(ヤマト王権)に来援。倭三韓御史として、以降倭に影響力を及ぼす。張政の後任者も任命される。三野の土壁に倭三韓御史指揮下の軍の分遣隊が置かれる。倭三韓御史は、後の260年に新設の東夷長史府(倭、馬韓、辰韓、弁韓、州胡、濊貊、東沃沮、北沃沮、挹婁、高句麗を管轄する。他の地域に置けなかったため、倭へ置かれた。実質的な勢力は倭、馬韓、辰韓、弁韓、州胡一帯に限られた)の管轄下に入る。この間、中国の技術がかなり倭へ伝わる。
301年:西晋の不安定化の影響で、筑紫沿岸(博多湾沿岸一帯)に石塁が作られる。
315年:楽浪郡が高句麗に滅ぼされ、西晋も弱体化し、ヤマト王権も徐々に強大化して東夷長史と倭王との関係も微妙となって、東夷の支配が難しくなり、西晋からの命令により、最後の東夷長史が、倭三韓御史を引き連れ、倭の筑紫にあった東夷長史府を出て、肥国から耽羅に渡り、そこから海を渡って江南へ帰還。三野の土壁に千名ほど駐屯していた部隊も、江南へ引き揚げ、400年に及ぶ中国の政権による倭の間接統治が終わる。東夷長史府は廃止され、一部の駐留晋兵は倭に帰化する。東夷長史が倭から去った直後、三野の土壁に外敵が襲来、倭に残った晋兵と倭人の連合軍により撃退される。これ以降、ヤマト王権の東方への進出が進む。
405年:好太王碑によれば、倭の保務田分王(応神天皇と思われる)に率いられた倭・新羅・百済・伽耶の連合軍が、高句麗の好太王と戦うも敗れ、倭の太子の氏之脇(菟道稚郎子と思われる)などを人質に出すと共に、高句麗への貢納を受け入れることを条件に帰国を許されたという。また、好太王碑によれば、これによって、高句麗の勢力は、遼水から白河剗にまで及んだという。このことにより、好太王は、後にアーサー王と比較されるようになる。五国史記(朝鮮の史書。新羅、高句麗、百済、渤海、伽耶の歴史を収録。史実の三国史記に当たる)によれば、保務田分王と好太王の死後、新たに即位した大紗座木王(仁徳天皇と思われる)は貢納の約束を反故にし、それに怒った長寿王が、氏之脇を殺し、伽耶を攻めたが、勝てずに帰ったという。
407年:高句麗に伴われて、倭が東晋へ朝貢。
467年:雄略大王、任那に渡り、新羅を討って勝利する。実際には小競り合い程度だったとも。
513年:百済が伽耶西部を占拠、倭にそれを承認するよう要求するも、それを承認する宣勅使となった物部麁鹿火が、百済側の態度に驕るところがあったと称し、この無礼を責めると主張して、金官伽耶、大伽耶など伽耶諸国の兵を率いて百済軍を攻めて、これを破り、百済軍を伽耶西部から追い出す。これにより伽耶西部は伽耶諸国に留まる。これ以降、倭と百済の関係が微妙なものとなる。
532年:新羅に攻められた金官伽耶を、九州で磐井の乱を鎮圧した物部麁鹿火が救援し、逆に新羅に攻め込む。その際攻めた新羅の首都、金城の抵抗が激しかった際、仏教僧が声明を歌って、新羅兵を励ましているのを聞いて、仏教に興味を抱き、新羅と講和した後に帰依し、新羅僧を連れて帰国したことにより、日本へ仏教が伝来する。これに対し、物部氏一族の多くは、麁鹿火を批判(蛇足ながら麁鹿火の子孫は、後に仏教を伝えたことを評価され、奈良・平安時代以降も下位ながら長く、公家として公卿を出し続けた)。なおこれ以降伽耶諸国は名実共に倭の領土となり、任那大宰が置かれる。
554年:金官伽耶の軍が戦場で百済の王を救う。
582年:物部守屋が仏教弾圧のため、任那に渡る。棄教を拒否した大伽耶王を処刑。これに対して、伽耶は金官伽耶を中心に団結、倭に対して蜂起。守屋の軍を破って、守屋を戦死させ、倭から独立。任那大宰は沙都島に逃れ、沙都島(巨済島)と小伽耶(久嵯)のみが日本領として残る(なお沙都島には佐戸国、小伽耶には久賀国が置かれ、対馬国、壱岐国、後に設置された値嘉国、それに十世紀に一時的に獲得した安羅国と共に任那大宰府の管轄下に置かれた)。敏達大王がこの責任を問われて、翌年、穴穂部皇子のクーデターで廃位されて、幽閉先で死去。穴穂部皇子が武徳大王として即位するも584年謎の急病で死去し、用明大王が即位した。武徳大王の時、大臣の蘇我馬子が地位を免ぜられそうになるも、天皇の急死で窮地を免れる。伽耶が独立した時、百済は伽耶の独立を認めたので、以降倭との関係が悪化。倭と新羅の関係が深まる。
595年:聖徳太子が、新羅商人を招く。後に金城商会(世界最古の現存商社)となる。
614年:遣隋使、船二隻に分乗し、初めて南路経由で入隋。それ以前の遣隋使は、伽耶、百済との関係が悪いため、出雲から隠岐、于山国を経て、海路新羅東岸に上陸して金城に至り、そこから新羅の使者に伴われて新羅中央部を陸路横断して、新羅西岸の新州に至ってから、海路入隋していた。往路、五島列島を出港後、嵐に遭い、第一船遭難、大使矢田部御嬬帰らず。第二船で、小使(副使)の犬上御田鍬も難航し、辛うじて楚州に到着。帰路は南島を経由して肥後に帰着したが、このルートもかなりの難航だったという。
617年:隋、六万の兵で百済と諮って(なお百済は四万の兵を出した)、海路新羅の新州を攻めるが、嵐で軍が壊滅して失敗する。新羅が逆に百済へ攻め込み、百済を併合する。倭は新羅による百済併合を承認する。
627年:蘇我境部摩理勢を遣唐使として、唐へ遣わす。629年帰国。
642年:高句麗で淵蓋蘇文のクーデター失敗。蘇文は新羅に亡命する。
643年:蘇文の案内で新羅が高句麗を攻め、朝鮮半島北東部と間島を制圧する。追い詰められた高句麗は唐の属国となり、遼東を唐へ割譲し、朝鮮半島北西部のみを辛うじて保つ。唐は新羅を脅威と感じ始める。山背大兄王が蘇我入鹿に攻められて自害するが、その際にこれを非難した父の蘇我蝦夷と口論になり、殺害するが、蝦夷が山背大兄王とクーデターを企てていたと主張して、皇極大王にこれを受け入れさせる。
645年:軽皇子、中大兄皇子、蘇我境部摩理勢等が、皇極大王列席の宴席で、兵に宮殿を囲ませた後、山背大兄王と蘇我蝦夷の冤罪を訴え、蘇我入鹿を殺人罪と誣告罪で自殺させるべきことを皇極天皇へ訴える。入鹿は、自分の子等を連座させないことを条件に罪を認め、自ら自裁する。入鹿の子孫は連座を免れ、翌年に死去した摩理勢の子孫と共に貴族として長く続く。なお摩理勢には、中臣鎌足(藤原鎌足)も頭が上がらなかったという。
664年:唐が伽耶と図って、伽耶との偽りの対立を演出して新羅を欺き、伽耶を討つという理由で新羅国内へ唐兵を入れることを認めさせ、その後、新羅を急襲して滅ぼす。多数の遺民が倭へ逃れる。唐軍はさらに壱岐、対馬、沙都、小伽耶を占領する。
666年:大海人皇子指揮の元、隠岐、于山国経由で洛東江に達した倭軍、唐軍に敗れるが、多数の新羅遺民を脱出させることに成功する。大海人皇子等が帰国した後、新羅救援に熱心ではなかった中大兄皇子は、大海人皇子を詰ったという。于山国が倭に服属する。朝廷は律令国として于山国を置くが、于山王家は于山守の世襲を認められる。後、于山国は于山を隠岐と共に管轄していた隠岐于山按察使に任命されることになり、隠岐と松島の管轄権を獲得。婚姻による継承で隠岐と松島を獲得する。
668年:唐が倭を攻めるが、旧新羅人の活躍もあり失敗。伽耶が唐に蜂起する。耽羅が倭に服属する。唐に占領されていた壱岐、対馬、沙都、小伽耶を奪還するが、その際に大友皇子が戦死する。この戦いで活躍した大海人皇子を皇太弟とする。五島列島と平戸島を値嘉国とし、同国はその後も耽羅との連絡拠点として存続する。
670年:倭が北征し、渡島半島の一角に交易所を置く。一部の軍は千島を経て勘察加半島の南端に達する。唐から王玄策が講和使節の副使として渡来。王玄策の経歴を知った天智大王、北征への随行を依頼し、受け入れられ、王玄策も北征に随行。渡島から千島へ渡り、勘察加半島に達し、さらに北行し、戌絲と接触、新大陸の存在を知り、同行の倭人や蝦夷、粛慎(流鬼)、夜叉の反対を押し切り、新大陸に向かい、同地に上陸して675年日本へ帰還(記録上では、旧大陸人による初の新大陸到達)。翌年、送唐客使により唐へ帰還。その翌々年に長安で没した。王玄策の到達した土地は、王玄策の報告を聞いた高宗により、「新唐」と名付けられた。
676年:伽耶が臨津江以南の朝鮮半島を統一する。
725年:渤海が高句麗を滅ぼし、高句麗王家の多くは唐へ、一部は日本へ亡命する。旧新羅北部で、唐に支配されていた新羅の遺民が渤海に合流する。
802年:桓武天皇、坂上田村麻呂の嘆願を聞き入れ、阿弖流為・母禮等を渡島へ流罪とする。二人の子孫は渡島で勢力を伸ばし、有力者となる。阿弖流為の子孫は、後、日高見国の王となる。
840年:小野篁、遣唐使として唐に渡る。張保皐と知り合い、後、張保皐の日本への亡命を支援する。
901年:菅原道真、任那奪還を命ぜられて朝鮮半島に遠征、安羅を占領する。伽耶との戦闘の末、平高望等の活躍もあり、903年にどうにか安羅を日本領として、任那国へ編入することを伽耶に認めさせた後、日本に帰国するも太宰府で死去。
926年:渤海、遼に攻められ、首都を龍泉から平壌に遷す。
929年:日本、後百済を救援するため、二万四千の軍を送るも、後百済と日本の連合軍は高敞で高麗に大敗。逆に高麗と伽耶の連合軍に攻められ、安羅、小伽耶と沙都島から成る任那を失う。これにより、任那大宰府管轄下にあって、日本の統治下に残った対馬、壱岐、値嘉は、筑紫大宰府の管轄下に移される。
935年:伽耶、国を挙げて高麗に降る。
937年:渤海、国を挙げて高麗に降る。
938年:高麗、後百済を滅ぼし、朝鮮半島を統一。
1021年:バイキングが北米北東部に入植。ネイティブ・アメリカンとの宥和政策と粘り強い外交もあり、入植に成功。欧州に玉蜀黍が伝わり、北米東部一帯には鉄が伝わる。後になってバイキングの入植地域は、ヴィンランドと称され、独立したヴィンランド共和国となるが、国内の紛争のため、後、協議の末、ノルウェー領となる。さらに後には、デンマーク領となる。ヴィンランドの西にも、ヴィンランドの成立に刺激されたこともあり、ヴィンランドからの布教を受けて、キリスト教に改宗した先住民の共和国が幾つか建国される。これらの国々の幾つかは、現代(21世紀)に至るまで存続している。
1015年:藤原隆家、筑紫の石塁を修理する。1019年の刀伊の入寇時の防御に役立つ。
1071年:朝廷、延久蝦夷合戦へ協力したことにより、日高見(北海道)の有力者、大墓是川(阿弖流為の子孫)を諸侯王として、日高見王に冊封する。当時の日高見王国は渡島半島から石狩地方にかけての地域を支配していた。
1275年:文永の役後、長年放置され、半壊状態にあった石塁を修理する。
1280年:幕府、軍船で元を襲撃し、建造中だった元の軍船を少なからず焼き払う。
1377年:懐良親王、明に朝貢したことが長慶天皇に漏れ、その不興を買い、源高良と改名させられた上で、臣籍降下させられ、九州に篭居させられる。後、南朝に嫌気がさし、北朝に降伏して博多に居住。
1381年:足利義満が博多の源高良を秘かに訪れ、八条院領三十四箇所と引換に高良の「日本国王」の地位を譲り受け、明に朝貢する権利を得る。明の太祖も高良から義満に王位を譲ったという上奏文を見て、義満の朝貢を認め、冊封使を送って義満を冊封する。その功により、また義満は高良の子孫を大切にするようにという遺書を残したこともあって、高良の子孫は羽林家の八条院家として長く存続。
1402年:東ローマ帝国がコンスタンティノープルをオスマン帝国へ明け渡し、モレア(ペロポネソス半島)へ移る。時の皇帝のマヌエル2世不在の際に摂政だったヨハネス7世が独断で行ったものだった。これ以降、東ローマ帝国はモレア帝国と通称される。
1404年:鄭和、明使として来日。滞日中に足利満兼の要請に応じて随行の医師を送り、その病の治療に成功する。
1415年:明、使節が日本側に殺害されたことから、鄭和、侯顕、亦失哈に命じて日本を攻めさせる。亦失哈は奴児干より北方を経由し、内通させた関東公方と合流し、鄭和、侯顕は琉球、四国太平洋岸を経由し、堺に上陸して日本を攻める。予め内通者(関東公方の足利満兼が北方から秘かに来日した亦失哈の説得を聞き入れ、日本の将軍位を引換に明へ寝返った)を用意していたこともあり、侵攻は成功。足利義持から将軍の地位を譲られた足利義量を廃して、足利満兼を将軍とするも満兼は翌年死去する。義持と義量は西域のハミへ一時配流される。後、許されて日本への帰国を許されるも、義量は帰国中に、義持は帰国直後に死去。以降日本は明の名目上ながら、室町将軍が兼任する日本都統使司が置かれ(天皇も日本国王須明樂美御德として冊封を受けた)、明朝の羈縻支配を受ける。大名たちも明の官職に任命され、交易権を与えられると共に、明の商船の受け入れ義務を負った。また明の商船が、渡航は自由とされた日本を経由し、東南アジアへ赴くようになった。以降も倭寇討伐のため、嘉靖年間まで明軍が度々日本へ遠征してきた。武宗に至っては一度九州へ親征している。永楽大典と鄭和の航海記録が日本で保存される。日本の朝廷でも礼服、束帯は残ったが、衣冠は廃止されて、明朝に倣った官服に改められた(烏紗帽、団領、補子、革帯、木靴というセットの服装が取り入れられ、朝廷、幕府、大名家問わず使われるようになった。朝廷では常勤服、幕府では準礼装、大名領では礼装として使われた。色は四位以上が緋色、五位から七位が青色、八位以下は緑色となっている)。また大統暦が採用された。国毎に国司の他に巡察使が置かれ、幕府の役職だった守護が朝廷の官職ともなった。幾つかの国を纏めて統括する役職として按察使も、陸奥出羽以外にも置かれた。鄭和、侯顕、亦失哈は様々な技術を伝え、日本の発展に役立ったこともあり、後になって、日本国内に三太監廟が造られ、祀られた。亦失哈は晩年に再び来日、日本で死去した。
1416年:鄭和、新唐の地を目指して北へ進み、千島、勘察加半島を経て新須加、悠紺、特林州(史実のブリティッシュコロンビア一帯。この地に居住していたトリンギット族の漢字表記、特林吉特を略称したものを地名とした)に達する。以降、千島、勘察加半島、新須加、悠紺、特林州、オホーツク海沿岸地域を入貢させる。以降も日本船がこれらの地域を巡回して貢納を集め、明へ献上するようになる。傅安が来日する。オホーツク海沿岸地域や勘察加半島から少しずつ西進し、最終的にはサハ地方まで得る。17世紀頃に、同地域の西でロシア帝国と接することになる。この時起こった紛争で、日本へ降伏したり、捕虜になったり、あるいは自ら移住してきたコサックをはじめとするロシア人を後に北米西部へ移したので、正教徒が北米西部で一定の地歩を占めるようになる。また、東方正教も日本へ伝わる。なお、日本側が諸紛争を通してロシア領を侵食し、エニセイ川以東が日本領となる。
1417年:鄭和の船団の一部が大洋州大陸(史実のオーストラリア大陸。大洋の只中にあるように思われたことからそう命名された)北部に上陸・探検。大洋州大陸からに明へ帰国しようとした鄭和艦隊の船の内、一隻が嵐で東方へ漂流し、タウンティン・スーユ帝国(インカ帝国)に達する。タウンティン・スーユに鉄器と山羊、漢字、紙が伝わる。漂着船が帰国したことにより、明に馬鈴薯、リャマ、アルパカが伝わる(玉蜀黍は西方から明へ既に伝わっていた)。帰路、漂着船が碧州(史実のニュージーランド。そのマオリ名、アオテアロアの名前を省略したもの)に偶然到達、モアの一種を連れ帰る。明、足利義持に随行していた義持の弟、義円を足利義教(当初は義宣と名乗る予定だったが、義円の希望で変更された)と名を改めさせた上で将軍とする(満兼死後から義教就任までは、鄭和の命令により、管領が将軍の任務を代行していた)。
1432年:明、開平府周辺を長城で囲む。
1434年:明、長城(遼東辺牆)を開原から第二松花江岸の船廠(吉林)まで新設。吉林行都指揮使司を設置。
1527年:ワイナ・カパック、タウンティン・スーユ帝国を南北に分割。
1533年:ピサロ、北タウンティン・スーユ帝国を滅ぼす。南タウンティン・スーユ帝国はスペインの属国となるも、辛うじて植民地化は免れる。
1570年:英仏、名目上デンマーク領となっていた北米のバイキング入植地域を征服。南北に分割。仏領となった北側では融和政策が取られ、バイキングとインディアンが混血したヴィンランド人とフランス人の融合が進むも、英領となった南側ではヴィンランド人に対する差別が行われ、不安定な関係が続く。
1579年:フランシス・ドレーク、船が嵐で漂流し、日本へ漂着。織田信長の援助を受けると共に、織田氏に洋式の造船技術と航海技術を教える。同年、徳川信康が信長の希望で人質として織田家に送られる。後に信長の養子となり、紀伊に封じられ、徳川頼宜を養子とし、後継者とする。織田頼宜の子孫の織田吉宗は、信忠の子孫が絶えたため、後に将軍、関白となる。信康の弟、徳川於義伊も随行。於義伊は、後に羽柴秀吉の養子として、羽柴秀康となり、信長の後を継いだ織田信忠の裁定によって、秀吉の実子の羽柴秀頼を抑え、羽柴氏の後継者となった。
1582年:織田信長、イングランドへ帰国するべく京都へ来ていたドレーク一行に会うため、本能寺から外出していたため、明智光秀の襲撃を免れる。織田信忠も京都から脱出。明智光秀の乱は鎮圧される。ドレークは翌年日本を出帆、1584年にイングランドへ帰国。帰国時に信長へフィリピン制圧を勧める。
1589年:織田信長天下統一、関白と征夷大将軍を兼ね、幕府を開く。1590年にスペイン領だったフィリピンと赤道以北の太平洋島嶼地域を制圧後、1593年に明へ直接攻め込む(東亜戦争)。明は朝鮮経由で反撃を試みるも、これは失敗し、逆に漢城の郊外まで迫られるなど、朝鮮南部へ攻め込まれ、一帯が荒廃する。これにより、明と朝鮮の関係が微妙になる。また明・朝鮮から多数の技術者を日本へ連行する。しかし信長によって薩摩一国へ押し込められ、強い不満を信長に持っていた島津氏が南九州に明軍を引き入れたため、明軍に南九州を占領され、補給路を脅かされたため、明とは講和を余儀なくされる。明側で従軍したヌルハチが活躍。ヌルハチは明に帰国後、吉林行都指揮使に任命され、女真の統括を任される。島津は大隅国と日向国、多禰国を領地として獲得し、さらに琉球都統使に任命され、それ以前に制圧していた琉球と小琉球の行政権を認められる。信長は1600年失意のうちに死去。後、明は大洋州大陸や碧州などの南太平洋諸島を領有し、さらにスペイン領ペルーとなっていたエクアドルからコロンビア南部を占める旧北タウンティン・スーユ帝国一帯を攻撃・奪取し、美州と命名し、南タウンティン・スーユ帝国を朝貢国とする。東亜戦争時、朝鮮から姜沆という人物が捕虜として連行され、日本で儒学を教えた。信長も姜沆の学問へ興味を抱き、その講義を受講したという。戦後、朝鮮へ帰国した姜沆だが、日本側の要請で学者の一団と共に再来日、死去まで日本で学問を教えた。この時、医者の許浚も来日。姜沆の後、朝鮮から数年交代で複数の学者が来日し、事実上の大使館を兼ねた。これは、対馬に頼らず、日本の情報を収集するという目的もあった。
1599年:大阪にキリシタン学校(後の大阪キリスト教大学)が出来る。織田信長が、西洋より学者を招聘して設立。
1603年:織田信忠、幕府を江戸へ遷す。
1614年:比叡山に仏法学院(後の京都仏教大学)が出来る。キリシタン学校に触発されて出来たと言われる。
1616年:日本人が初めて加州に入植する。以降、北米西部に勢力圏を拡大。東アジア(日本・中国・朝鮮・ベトナム)から多数の移民が北米西部へ渡る。一時、スペインが領有権を主張するが、日本側が、スペインに金貨20万両を支払うことで日本領と認められる。
1629年:ヌルハチの死後、吉林行都指揮使の職を継いでいたホンタイジ(ヘカン)が、行都指揮使職を解任されそうになって明に対して挙兵。清を建てる。
1637年:清、朝鮮へ攻め入り、属国とする。侵攻前に、朝鮮側へ明との国交断絶を要求する。朝鮮側は清への臣属は受け入れるが、明への朝貢を続けることも許してほしいと願い出るが、清は拒み、朝鮮へ攻め込む。このため、朝鮮と清の関係は、終始芳しくないものとなる。
1644年:日本、明を救援。後、清に不満を持っていた朝鮮と同盟を結ぶ。最終的に明は嶺南都統使司として清へ朝貢すると共に、銀百万両、絹五十万匹を歳貢として収めること、境界に榷場を置くことを条件に浙江中北部・福建・珠江と西江以南の広東・広西・雲南・江西東北部を維持することを清から認められる。南明の首都を杭州に置く。明の皇室と天皇家が婚姻で一つになる(日本と史可法、銭謙益等の協力で明の皇帝になった中宗永徳帝朱常淓と日本の明正天皇が結婚し、日本の皇族出身の養子がこれを継いだ。清からは正一品、開府儀同三司、使持節、大都督、日本・南明・日高見・琉球・耽羅・高山・東甌・閩越・于山九国諸軍事、安東大将軍、右都御史、光録大夫、南明都統使、日本国王として封じられた。日本では、東アジア向けには開府儀同三司使持節大都督日本・南明・日高見・琉球・耽羅・高山・東甌・閩越・于山九国諸軍事安東大将軍右都御史光録大夫南明都統使日本国治天下大王と、それ以外の地域には開府儀同三司使持節大都督日本・南明・日高見・琉球・耽羅・高山・東甌・閩越・于山九国諸軍事安東大将軍右都御史光録大夫南明皇帝日本国治天下天皇と称した。欧州方面への国書では皇帝はカエサルと、治天下天皇はアウグストゥスと翻訳された)。鄭氏閩越国(福建を支配)と徳川光圀を王として設置された源氏東甌国(浙江南部と江西東北部一帯を支配)が南明の諸侯王として自治を獲得する。明の皇帝にして日本の天皇は日本に居住する。朝鮮も、清からの対日戦協力の要求を拒んだ結果、清へ攻め込まれるが、日本からの援軍の助力もあり、これを撃退、逆に清国領へ攻め込み、北間島と沿海州の行政権を事実上獲得する。清国から土司(朝鮮国王と北間島指揮使、海参崴宣慰使を兼務)として統治を委任される形で日本領とされた奴児干都司周辺を除く沿海州と北間島を獲得する。朝鮮から文武の官僚や学者が複数日本の朝廷に渡来して仕えるようになる。日本でも一世一元の制が取り入れられる。天皇家が、これまで姓を使う時は、和姓を使っていたのに代わって、朱姓を使うようになる。日本・南明での漢人の意味が、民族として漢民族(こちらの意味での漢人は明人と言われるようになった)から中華系の文化と少なくとも上層部で中華系の服制を受け入れた人々を指すようになり、南明人ばかりではなく、日本人、朝鮮人、越南人も含むようになる(ビザンツ帝国での「ローマ人」に近い意味合い)。織田将軍家が南明の世襲の監国となる。南明の皇族を土司土官に準じて、雲南に纏まった領地を与え、諸侯とする。
1652年:薩摩藩に大緑島を与え、琉球を幕府直轄の付庸国とし、小琉球を幕府直轄領とする。但し、琉球にはほぼ完全な自治権が認められた。これ以降、琉球は海外への移民、中継貿易の奨励、サトウキビの栽培・輸出で国力を回復させる。
1665年:商工業者の科挙の受験を認めると共に、科挙に明法科、明算科、訳語科、医術科を設置する。
1710年:英国の侵攻軍に敗れ、京都が焼き払われ、天皇が奈良に移転する。金5万両、銀50万両、絹30万匹、茶10万斤の歳幣を条件に講和を結ぶ。奈良を上京平城府と改称し、四方に城壁を築く。京都は鉄道の開通まで大きく衰退し、街の中心も比叡山の京都仏教大学周辺へ移り、同大学周辺は城壁で囲まれる。
1712年:日本の幕府でも、補助的ながら科挙を行う。
1716年:織田吉宗が将軍に就任。技術の向上の務めた結果、水車が改良され、また工場でも動力源として大々的に使われるようになる。同時期に横型水車を改良して、水タービンが南明で発明される。
1756年:歳幣の増額を拒否し、英国と戦う。奈良へ攻めてきた英軍を撃退する。1763年、歳幣の減額など、かなり有利な条件で講和する。フランスはカナダ東部を維持し、東ベンガル(バングラデシュ)を獲得する、後、フランスは更にビルマ、ラオス、カンボジアを得る。ベトナムからもコーチシナを獲得するが、それ以上の進出は日本の「説得」により断念。
1776年:歳幣の額を巡って英国と戦う。1783年、歳幣の廃止などを条件とした有利な条件で講和する。
1797年:ヴェネツィア共和国、当時フランスと同盟を結んでいた日本の取り成しにより、ヴェネト地方とヴェネツィア市のみになるも、独立を保つ。
1806年:プロイセン、英国と連合軍を組み、リオ・デ・ラ・プラタ副王領南部を共同占領。1813年に、ナポレオン戦争で英国側で参戦するのと引換に、同地の領有を認められる(プロイセン領パタゴニア。後に独領パタゴニアとなる)。
1803年:神聖ローマ帝国にて帝国代表者会議主要決議にて、領邦の多くが、30ほどの領邦に集約される。自らの領邦を失った諸侯の内、カトリック系の諸侯の一部は、領民の一部を引き連れて、方丈に移住した。当時方丈を支配していた日本は、領邦の諸侯が開拓した土地の自治権をある程度承認した。
1808年:ラグサ共和国、当時フランスと同盟を結んでいた日本のラグサ駐在領事の取り成しにより、独立を保つことに成功する。
1816年:ナポレオン戦争が痛み分けに終わり、ウィーン条約で講和成立。
1830年:日領方丈が独立し、方丈国となる。日本から方丈に移民した住民(特にカトリック教徒)が人口のかなりの部分を占める国であった。それ以外も、中国人や朝鮮人、ベトナム人などの東アジア系が多数を占めた。もっとも、フランスや南ネーデルラント(ベルギー)、南欧、中東欧の出身者など、欧州系の人々も多数いた。共和国ながら貴族制度も公的に存在していた。
1833年;米西戦争が起きる。スペインはキューバとプエルトリコを米国へ割譲することになる。
1835年:米国でカトリック教徒及び正教徒追放法が成立する。米国で開拓するべき土地が少なかったこととカトリック国である方丈への警戒心の過度の高まりのため、制定された。追放されたカトリック教徒と正教徒の大半は、方丈へ移った。
1838年:方丈国独立の余波で日本でも天皇家に政権が還る。この際、朝鮮から渡来した官僚や学者の子孫たちが活躍したという。江戸を東京卞梁府と改め、遷都する。但し上京も副都とされる。東京は開封と通称されるようになる。正式な国号を大明大日本国とする。即位時に使う冕冠がより中華的なものに変わる。
1840年:阿片戦争勃発、日本、英国側で参戦。清国の冊封体制からの離脱を清へ認めさせる。
1848年:ドイツが連邦国家として統一される。露仏が阻止を試みるが失敗、領土の割譲こそなかったが、ロシアが賠償金40億マルク、フランスが賠償金30億マルクを払うことになる。どさくさに紛れてハンガリーが独立。
1849年:大洋州、美州、碧州が自治国となる。
1851年:朝鮮、清国の冊封体制から武力で離脱。北満州と外満州を獲得。国名を大韓帝国と改める。
1853年:クリミア戦争が起こる。英仏独サルデーニャがトルコ側で参戦し、ロシアは大敗、リトアニア、ラトビア、エストニア、フィンランドの独立を認めることになる。
1856年:方丈、米国との境界に長城を築く。
1861年:方丈国とアメリカ合衆国との間で、東西戦争が勃発。アメリカは、五大湖周辺にあったネイティブ・アメリカンの国々も侵略する。
1865年:方丈国が東西戦争の末、アメリカ合衆国を併す。方丈の大統領の李昰応とその首相だった井伊直弼、方丈国軍総司令官の曾国藩(阿片戦争の直後、当時中堅官僚だった李昰応と会い、意気投合したが、そのために讒言を受けたため、清朝を見限って方丈へ渡ってきた。この時、一族や袁甲三、左宗棠なども方丈へ渡ってきた。彼らが清国へいれば、1851年に勃発し、1869年に鎮圧された太平天国の乱は数年早く鎮圧できたと言われている)との連携が良かったこと、優秀な官僚団があったこと、最終的に米国から追放されたヴィンランド人の協力、方丈東部にいたカトリックの騎士修道会(先住民などから身を守るための修道院の自警団が発展したもの。女性の修道騎士も少なからずおり、対米戦に活躍した)の奮戦などが対米戦の勝利に役立ったという。
1867年:方丈国に、カトリックの総大司教座が置かれる。
1894年:清韓戦争勃発、韓国の勝利に終わり、韓国は遼河以東の南満州を獲得する。
1901年:義和団事件。清は、新疆、モンゴリアはロシア、山東半島はドイツ、河北沿岸部はフランス、それ以外は英国に分割された。清の皇室は、捨扶持として遼西、熱河、察哈爾を満州国として与えられ、ロシアの保護下に置かれた。同年、ドイツがアサンテ王国などを制圧して、ゴールドコースト一帯を植民地化し、独領トーゴラントへ編入した(南西アフリカへの進出権を英国へ譲渡するのと引換に、ゴールドコーストへの進出権を得た)。
1904年:ドイツがダホメ王国などを制圧して、ダホメ一帯を植民地化し、独領トーゴラントへ編入する(フランスとの係争地になっていたノイカメルーンについて、フランス領と認める代わりにダホメへの進出権を得た)。
1905年:英国が陸軍を拡張する陸軍法を議会で可決、成立させる。ドイツはこれに対抗して海軍を拡張する。
1912年:ドイツで、社会民主党、中央党、民主党から成る連立政権が成立する。方丈で孫文が大統領になる。
1913年:第一次バルカン戦争の講和条約であるロンドン条約により、セルビアが、オスマン領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを得る。
1915年:英国国会議事堂放火事件(オランダ人の英国労働党シンパが英国国会議事堂へ放火し、それを社会主義に親和的な政党が政権を握るドイツ政府が援けていたと英国側が主張した事件。なお実際は単独犯であったという。放火も小火の内に消し止められている)が原因で、第一次世界大戦勃発。日独仏方韓の連合国と英露伊蘭土の同盟国の戦い。連合国の勝利。フランスはどっちつかずの状態だったが、ベルギーが英蘭同盟軍に侵攻されたため、連合国側に立って参戦。フランスと友好関係にあった日本、連合国に味方した方が有利と見た韓国も連合国側で参戦。方丈は当初中立だったが、ドイツ船籍の救恤船(いわゆる緑十字船)、ファーターラントが、ドイツから方丈へ向かう際、英潜水艦に撃沈され、ドイツから避難する多数の方丈人が死亡したことが原因となって、連合国側で参戦した。一方、トルコは、ドイツへ発注していた戦艦が、ドイツ海軍に接収されたことが原因で同盟国側で参戦した。同年末には、英国がスウェーデンの鉄鋼のドイツへの輸入を差し止めようと、ノルウェーへ侵攻するが、独仏の援軍に阻止され、ノルウェーが連合国側に加わる事態を招く。方丈がデンマークへ働きかけ、多額の資金援助と引換に、グリーンランドとアイスランドに方丈国軍の基地を建設することを認めさせる。これにより、連合国は、アイスランドまで方丈船で運ばれた食糧や資源をノルウェー経由で運ぶことが可能になる。
1916年:スカゲラック海戦で、デンマーク周辺の制海権を握り、ドイツのアイスランドよりの補給路を断とうとした英国艦隊、阻止に出たドイツ艦隊と交戦。ドイツ優勢ながらも痛み分けに近い結果に終わる。英国は方丈からの物資の遮断に失敗し、ドイツは方丈からの補給路を守りきる。
1917年:リエージュの戦い。連合軍が同盟軍を破り、その一個軍を降伏させる。方丈が連合国側で参戦。
1918年:第一次世界大戦が終戦。
1919年:満州国がロシアの保護国から方丈の保護国に移る。英領中国と英領インド、英領マラヤが英国の自治領となる。蘭領東インドがインドネシア共和国として独立。モレア帝国がトラキアとスミルナ周辺部、ドデカネス諸島、キプロス、ポスポラス海峡及びダーダネルス海峡、マルマラ海、マニサまでのエーゲ海沿岸部(具体的には満潮時の海岸から40キロ以内)、コンスタンティノープルを得る。モレアはさらに勢力を拡大しようとするも、他の連合国の支持を得られず断念。
1921年:独領パタゴニアが自治を獲得。
1922年:日高見、琉球、耽羅、高山、于山、東甌、閩越、呂宋が自治領から独立国となる。奴児干都司周辺の沿海州にユダヤ人の国、ヌルガン共和国が出来、トィル(奴児干都司のある場所)に首都を置く。なおヌルガンには、日韓の緩衝国としての性格もあった。
1923年:トルコが共和制に移行。ローザンヌ条約により、モスル周辺を得る代わりにトラキアとスミルナ周辺部、ドデカネス諸島、キプロス、ポスポラス海峡及びダーダネルス海峡沿岸部、コンスタンティノープルの放棄を承認。
1930年:日本支配下の嶺南地方(広東沿岸部・広西南部・雲南一帯)が南越国として自治国となり、日本の中国大陸での直轄領は浙江中部のみとなる。
1939年:ロシア、ポーランドに侵攻。第二次世界大戦勃発。イタリアと共に日独仏方英韓の連合国と交戦。連合国の勝利。