幕間 唯一の理解者
『あの宣教師から取り返してやったというのに、お前はいつまで経っても弱いな』
そう言って、僕の父――いや、育ての父は去っていった。
激しい雨が、何も知らなかった頃の記憶を奪うかのように降り続ける。父に傷つけられた体から流れる血は、大粒の雨と混ざりあった。
「ッ!」
無意識に唇を噛み締める。兄たちや騎士たちの罵声が脳裏に響く。雨がうるさい。それ以外の何かが聞きたい。
「アンリ!」
久しぶりに名前を呼ばれた。顔を上げると、どこかで見たことのある顔があった。
「君は……」
そうだ。アリシアで出逢い、フランク兄さんに連れ去られたシャルムだった。
「……良かった。無事だったんですね」
〝悪魔の娘〟が生きていたら、僕ももう少しだけ生きてみようと思える。
魔法が使えないが故に周りから迫害されてきた僕たちは、まだ、生きていける。
あの雨の日から一ヶ月が過ぎた。
僕とシャルムは似ている部分もあってかすぐに気が合い、最近よく一緒にいる時がある。「ヨハンの従者なのにいいんですか」と聞いてみると、「ヨハン王子は悪魔に襲われた場所を巡ってるから平気」と返ってきた。
「ねぇ、アンリ。私も一緒に訓練していい?」
「もちろん。僕の邪魔をしないならいいですよ」
なんだかんだでいつもこんな日々を送る。本当に邪魔はしてこないし、向こうも向こうで訓練に必死なのだから不思議だ。
「シャルムはそんなに鍛えてどうするんですか?」
ついつい気になって口を挟むと、シャルムは真顔で振り向いた。
「強くなる為」
簡潔に答えられたものだから、僕は返す言葉を忘れた。
「どうしたの?」
「……いえ、なんでも」
訓練を再開する。シャルムも特に気にした様子はなく、羽を羽ばたかせて空を飛ぶ。時々聞こえてくる金属音は彼女の暗器のものだろう。
ほんの少しだけ、僕たちの間に微妙な空気が流れた。
「シャルム、こんなところにいたんですか!」
「あ、ロイク」
「……ロイク?」
「探しましたよー! おーい!」
見ると、ロイクがシャルムに話しかけていた。ロイクはチラリと僕を見て、にたぁと揶揄うように笑う。だが、それに悪意がないのを知っていた。ロイクという年下の従者だけが僕を迫害しなかった。
それでも無性に腹が立って頭を小突くと、シャルムにすぐに止められる。ロイクとシャルムは年が近く従者同士でもあるからか、僕よりも仲が良さそうだった。
「ごめん、アンリ。私行かなきゃ……」
「別にいいですよ。そもそもどうして僕に許可を取るんですか?」
シャルムは頭を下げ、一人で城内へと駆けていった。残されたロイクは、僕を見てわざとらしく目を細めた。
「アンリ王子ぃ、嫉妬ですか?」
「違います」
「えぇ〜……そうですかぁ」
残念そうに肩を落とし、ロイクも城内へと戻っていった。
訓練を終えた僕も戻り、しばらく廊下を歩いていると――シャルムが突き当たりから現れた。
「あ」
僕がいるとは思ってなかったようで、シャルムは目を丸くする。そして、僕の存在に気づいていないような素振りで踵を返そうとした。
「さすがにそれは無理がありますよ」
ぴくっとシャルムの肩が動き、気まずそうに壁からゆっくりと顔を出す。今さら何が気まずいのか、僕にはまったくわからなかった。
「……ごめん」
「どうして君が謝るんですか?」
「…………ごめん」
ため息をつく。シャルムは困ったように僕を見上げた。
「誰かに何かを言われたんですか?」
そう聞けば、シャルムは口を小さく開けて驚いた。
「そんな顔、してますから」
そう言えば、シャルムは緊張した面持ちで顎を引いた。
「誰に何を言われたんですか」
シャルムは迷ったように目を伏せたが、意を決したように拳を握る。
「ヨハン王子に……あまり自分の目の届かないところに行かないで、って。少し不安そうだったから、私、ヨハン王子に何かしたのかなって思って……」
今にも泣きそうな顔でそう言った。
「それで、シャルムはどうするんですか?」
「しばらく、アンリには会えないかなって」
ごめん、そう聞こえたような気がした。
「そうですか」
不思議と僕は冷静になって視線を伏せる。その間にシャルムは「またね」と言葉を残して消えていった。次に視線を上げた時、突き当たりにシャルムの姿はどこにもなかった。
急に虚無感に襲われた僕は、必死になって廊下を走る。先ほどまでシャルムがいた場所に辿り着いて、曲がり角を曲がっても、シャルムの姿はどこにもなかった。
妙に締めつけられた胸を掻き毟り、僕は悟る。
僕は、シャルムなしでは生きていけないと。だから自分を痛めつけるように唇を噛んだ。そういえば、この唇で――。
あの時は互いに傷心状態で、互いに何かを求めていたような気がする。それは、人によって与えられる一種の温もりだった。
「…………」
僕は、壁に寄りかかり項垂れた。今度はいつ会えるかなんて、不確か過ぎるものだった。




