第二話 雨
フランク王子に人気のない廊下に置き去りにされ、一体何時間が経過しただろう。私は両足を抱え、廊下の隅で蹲っていた。
何も考えることはなく、ただただ外の世界を見ないようにと視線を伏せる。けれど、地面に突き刺さるように振り続ける雨の音は嫌でも聞こえてきた。
不意に、雨音とは違う誰かの足音が聞こえてくる。それでも顔を上げる気にはなれず、私はそれを無視し続けた。
「こんなところにいたんだね」
聞き覚えのあるその声に、仕方なく反応する。顔を上げると、複雑そうな表情をした彼が立っていた。
「えっと……」
「あ、ジュストです。初めまして」
「ジュスト……王子……」
「君のことずっと探してたんだ。ヨハンの部屋に戻って来なかったから」
何も言えなくて、私たちの間に静寂が生まれる。さっきまでうるさかった雨音は嘘みたいに聞こえなくなっていた。
「……昨日は、その、ごめんね?」
「え……?」
「僕、自分勝手だったなって思ってさ」
俯くジュスト王子を前にして、私は思わず立ち上がる。
「そ、そんなことありません!」
まだ拙さが残る私の言葉でどこまで伝わるかはわからないけれど、私は必死に言葉を探した。
「私は、知りませんでした! アポロのことなんて……酷いと思われても仕方のないことですが、そんなに自分を追い詰めていたなんて、知らなかったんです!」
溢れた涙をそのままにして、私はまた言葉を探す。
「だから、自分が嫌になりました! 一番自分勝手なのは私なんです! わかってるんです! 私は酷い人間なんです!」
途中から何を話しているのか自分でもわからなくなってきた。けれど、これだけはジュスト王子にきちんと言えた。
「けど私、ジュスト王子に見つけてもらえて、嬉しかったです。私が知るべき事実を教えてくれて、感謝だってしています」
「そんなこと……」
今まで会うことがなかった第三王子のジュスト王子は、こう言われることに慣れていないのか頬を赤らめて顔を隠す。
「だから、自分勝手だなんて言わないでください」
ジュスト王子は、一瞬だけ顔を上げた。
言いたいことを全部ぶちまけたからか、ザァザァと雨がうるさい。
「……ありがとう、シャルム」
それでもジュスト王子の声は届いた。彼は微笑んでいたけれど、途中から何故かそわそわとし始める。そしてわざとらしく咳払いをし
「なら、しばらくはここにいるのかな」
確認するように私を見つめた。「はい」と答えると、彼は意を決したように息を吸い込む。
「じゃあ……僕の友達になってくれる?」
「えっ?」
「や、やっぱなれないかな……?! 友達の友達は友達って言うってみんなが言ってたんだけど……!」
さらに顔を赤らめて、ジュスト王子は必死に腕を振りまくった。その慌てっぷりが私よりほんの少し年上なのに可愛らしかった。
「は、はぁ……」
突然のことで頭が追いつかず、そんなことしか言えない。
「だ、駄目……なのかな?」
不安げに私を見つめるジュスト王子は小動物のようで、何故だか私の心を鷲掴んだ。
「駄目じゃないですが……よろしいのですか? 私とジュスト王子とでは身分が……」
「そんなのはどうでもいいんだよ!」
「ッ?!」
アポロたちとも似たような会話をしていたなぁ、なんて、酷く遠く思える頃の記憶が蘇る。
「僕は、友達が欲しくて……それで……」
「ジュスト王子……」
「その〝ジュスト王子〟は禁止!」
「はっ、はい!」
気づいたら、ジュスト王子――ジュストと手を握り合っていた。フランク王子との会話がなんでもないことのように思えるほど、彼といると心が温かくなる。
ジュストは嬉しそうに去っていき、私はそれを手を振りながら見送った。まだ、雨は降っていた。
部屋に戻ろうとしてようやく廊下から移動する。けれど、セルニアの城にあまり詳しくない私はすぐに迷ってしまった。
渡り廊下と思われる場所で辺りを見回す。アリシアでは見られない木々が植えられている他に私の視界に入ったのは――
「……人?」
――よくよく目を凝らすと、その人は私の知り合いであることがわかった。
まさか。そう思って勢いよく渡り廊下から飛び下りる。すぐに雨に濡れるけれど、そんなことはどうでも良かった。
「アンリ!」
彼は、何故か全身に傷を負って座り込んでいた。久しぶりに見るアンリは、顔を上げて私の顔を凝視する。
「君は……」
雨音で消えた声を、私は口の動きで理解した。駆け寄って、アンリと同じ目線になるようしゃがみ込む。
「……良かった。無事だったんですね」
近くで見た彼の瞳に、光はなかった。
「私のことより、アンリの怪我が!」
よく見ようと手を近づけると
「あぁ、これですか? 大丈夫ですから気にしないでください」
軽く振り払われてしまう。
一瞬見えたアンリの右腕は、銀色の鱗に覆われていた。何か言おうと口を動かすけれど、アンリにすぐさま遮られてしまった。
「随分と変わりましたね、シャルム」
「アンリ……」
アンリは、私を〝見る〟と言うより〝観察〟する。その目はやっぱり私の知るアンリの目じゃなくて、変わったのは貴方もじゃないのかと思ってしまった。
「一瞬、誰かと思いました」
私は、黙ることしかできなかった。その代わり、じっとアンリの腕を見つめる。アンリは私の視線に気づき、よく見えるよう裾を捲った。
「それって……」
「〝悪魔の娘〟である君と似たようなものですよ」
しれっとアンリが言った台詞は、何故か雨音に邪魔されずに鮮明に聞こえた。
「まぁ、僕と君の似ている部分は他にもありますけどね」
「似ている部分?」
吐き捨てるように言うアンリに、私は思わず聞き返した。アンリは不信そうに私を見つめたけれど、やがて合点がいったように「あぁ」と呟く。
「アトラス王や父と接触していたので、てっきり知っているのかと思っていましたよ」
「し、知っているって何を…?」
「君を殺そうとした者の正体です」
鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。長年心のどこかで知りたいと願い、その度にアトラスに誤魔化されていたこと。
「君は、自国の魔法騎士団に助けられたんです。まだ悪魔と同化していない。助けられるって。ただ、どうするかと議論されている間に殺されることが確定しました。最高神オリン・リトポスを信仰するリトポス教の宣教師によって。僕をクイーンドラゴンの巣から連れ去った、ザック・マクイーワンの手によって」
「え……?」
「君の死を本当に神が望んでいるのかはわかりません。クイーンドラゴンとキングドラゴンが絶滅することもです。ですが、少なくとも父は君の死を望み、アトラス王は君を生かすことを決めた。僕は父に本物のクイーンドラゴンであるのかを何度も試されて何度もこうして死にかけましたし、アトラス王は本物のクイーンドラゴンが目障りなのか何度も殺そうとしてきましたけどね」
「待って、アンリ、何言って……」
私は地面に視線を落とした。目頭がじんわりと熱くなるけれど、もうどれが涙でどれが雨なのかわからない。
「うぅ……っ……」
私は生きたい。けれど、神に望まれないのなら生き続けたいなんて思えない。
〝悪魔の娘〟である私の死を望む者がいるのは知っていたけれど、今まで肯定され続けてきたからか神が否定すると立ち直れなくなる。
私の人生にリトポスはいなかったけれど、リトポスという存在がこの世界にとってどれほど価値のある存在なのかは知っている。そんなリトポスに、私とアンリは爪弾きにされたということだろうか。アンリは「わからない」と言って明言を避けたけれど、宣教師の影響力が大きいのは私でさえ知っていることだった。
服の裾を掴んでいると、アンリが私の背中に腕を回す。そのまま彼の胸元に収まって、私はアンリにあやされた。
「……すみません、泣かせるつもりはなかったんです」
何故だろう。さっきまで棘のある声をしていたのに、私の知っているアンリの声に戻ってきている。アンリの腕に視線を戻すと、銀色の鱗が消えていた。そこにいたのは、ただの傷だらけのアンリ・セルニアだった。
「き、気にしないで! 私こそ泣いてごめん!」
慌てて彼の胸元から離れ、アンリの傷跡を確認する。酷い傷だ。なのにアンリは生きている。
「…………すみません」
「謝らないで、アンリ」
随分とか細い声が聞こえてきた。視線をアンリの顔に移すと、私と同じように涙なのか雨なのかわからないくらいにその頬を濡らしていた。
唇を噛み締めているアンリは、なんだか今の私と重なっている。見ているのが耐えられなくなって、私はアンリの体を抱き締めた。
なんて声をかければいいのかわからない。ただ黙って、雨に打たれながらアンリの銀色の髪を撫でた。すると、アンリも私の髪を撫でる。
撫でられるなんて何年ぶりだろうと思いながら、しばらく互いで互いを慰め合った。神に見放されているからか、雨が止むこともなかった。
「大丈夫?」
「……はい、なんとか」
体を離すと、アンリの目に涙の跡が見える。アンリの目に映った私も、泣き疲れたような顔をしていた。
「……ありがとうございます、シャルム」
「……こっちこそ」
癒えない傷を曝け出した私たちは、そのまま黙る。
私はアンリのことを放って置けなくて、私からも離れてほしくなくて、その場から動けなかった。
まだ雨がうるさく降っている。いい加減にしないと二人とも風邪を引くのは明白だったけれど、私もアンリも動くことを拒むかのように地面に座り込んだままだった。
「…………し」
「え?」
「……もう少し、傍にいてくれませんか?」
アンリの声が鮮明に聞こえる。私は、また泣きそうになるのを堪えてこう言った。
「……私も、傍にいてほしい」
瞬間に腕を引かれる。アンリの顔がだんだんと近づき、私はなんとなく――本当になんとなく、この後どうなるのかを悟った。
*
「もぉ〜、オネーサンほんとにどこに行ったの〜?!」
頬を膨らませながら地団駄を踏む。オネーサンがフランク兄さんに連れ去られて数分後にあった謁見をさっさと終わらせて戻ってきたけど、オネーサンもフランク兄さんもいなかった。
「天気も悪いしも〜最悪! 最悪!」
渡り廊下に出てみると、床が雨で濡れている。けれど、さっきすれ違ったジュスト兄さんはこの付近でオネーサンと話をしたと上機嫌に言っていたから引くなんて選択肢はなかった。
服が濡れるのを覚悟して、俺は一歩踏み出す。すると、外から雨音以外の何かが聞こえてきた。
「ん……?」
雨で視界が悪い上、木々も生えていてよく見えない。目を凝らして探してみると――オネーサンとポンコツが視界に入った。
「なんでオネーサンがポンコツなんかと……? 魔法が使えない奴と一緒にいたってオネーサンの身にならないじゃん」
セルニアの王子のくせに何故か魔法が使えない出来損ないをみんながみんな嫌っている。容姿は立派にセルニアの王族――ううん、クイーンドラゴンの血を引き継いでいるから俺たちの家族であることに変わりはないのに。
瞬間、ポンコツがオネーサンの腕を引っ張った。
「……え?」
絶対に見間違いなんかじゃない。絶対に勘違いだと言わせない自信がある。
「うそうそウソうそ! ポンコツとオネーサンっていつの間にそういう関係だったの?! オネーサン趣味悪っ!」
実際、オネーサンは嫌がる素振りをまったく見せずにポンコツにすべてを委ねているように見えた。
これ以上見ていられない。俺は来た道を急いで戻る。途中雨で足を取られそうになったけれど、それさえも堪えて走った。
「ヨハン? 廊下を走ると危ないぞ」
「ッ!」
途中、リシャール兄さんに声をかけられて俺はようやく足を止める。
「どうかしたのか?」
「べ、別に! 何も!」
不信そうに俺を見下ろすリシャール兄さんを無視して歩き出した。
今日のセルニアは、荒れていた。




