第二話 ベルニア
うっすらと目を開けた。目元を擦って、顔を上げる。
「あ、オネーサンやっと起きたぁ」
「あ……」
逆光に照らされているヨハン王子の表情はよく見えない。
「……私、寝てたんですね」
馬車の旅も数日が経った。ペガサスが空を飛べるとはいえ、セルニアとベルニアでは大陸が違うのだからそう簡単に着けるものではないとわかっているのに飽きてしまう。今日も、見渡す限り空と海しか見えなかった。
「寝過ぎたせいか、なんだか頭がぼーっとします……」
すると、ヨハン王子が声に出して笑った。視線を移すと、自分の口元を指差している。
「オネーサン、ココ! ヨダレ垂れてる!」
「えっ?!」
ごしごしと口回りを擦っていると、何故かさらに笑われた。
「ていうのは嘘〜! オネーサン反応面白いから俺大好き!」
「〜ッ! ヨハン王子!」
こんな日が、まだ続くんだ。そう思って目を細めながら彼を怒った。
刹那、ペガサスが運ぶ馬車が揺れる。魔法である程度浮かされている箱はペガサスの動きに合わせて急降下し、私たちは海に不時着した。
「痛った〜……。オネーサンたち、大丈夫?! 怪我はない?!」
「ヨハン様こそ! ッ、ペガサスが……! こら、暴れない!」
「浮け〜! 浮けぇぇ〜!」
「私が外を見てくるわ! シャルロット、貴方も来て!」
一人に呼ばれて付き従う。馬車から外に出る直前に見たヨハン王子は不機嫌そうで、その目には殺意が溢れていた。そんな目は見たくなかった。
「あれは……悪魔?!」
「えっ?」
魔法で辛うじて浮いている馬車の天井に乗り移り、私も〝それ〟を視界に入れる。
「――!」
彼女の言う通り、私たちを襲ったのはあの日私が見てしまった悪魔と同じ姿をしていた。
「悪魔……?!」
ヨハン王子が出した声は普段聞いているものとは違って。私と彼女は今まで馬車を引いてくれた二頭のペガサスに乗り換えて空を飛ぶ。
「どうするの?!」
「そんなの倒すに決まってるでしょ!」
けれど、私は悪魔と戦ったことが一度もなかった。みんなみたいに世界の戦争に出たわけでもなければ、喧嘩をしたことさえない。
ディーノ、私は――こういう時どうしたらいいの。
「チッ」
刹那に天井が破壊された。視線を落とすと、銀色の綺麗な鱗が見えた。
大きな両翼が馬車の中から出ようともがき、ドラゴンの手の中に包まれた二人の魔女が必死になって彼のことを応援している。
「ヨハン、王子……!」
クイーンドラゴンに変化したヨハン王子は、ずらりと並んだ牙を剥いて羽ばたいた。アトラスやフランク王子よりも一回り小さい銀色のドラゴンは、宙に二人を放って悪魔の方へと突っ込んでいく。
「ヨハン王子ぃぃぃぃ!」
二人を回収した彼女に一人を託され、私はそのままどうすることもできずに悪魔を貪り食おうとするドラゴンを眺める。
「私たちも行くわよ!」
一人が声を出した。
「そうね……。元々悪魔を殺す為にベルニアまで来たんだものね!」
「ヨハン様! 今行きます!」
魔法を使える彼女たちは、ヨハン王子への加勢を意図も容易くやり遂げる。すごい。私も、何かができたなら――ううん、何かをしなければ。
ディーノだけじゃない。メーリャや、イザベラや、ファラフや、マルガリータや、林杏や、五鈴や、アトラスが教えてくれたこと全部をつぎ込んで今の私ができること。それは――この力を、コントロールすることだ。
暗器を出して空へと飛ばす。これで仕留められるとは思っていないけれど、これで注意を引きつけてヨハン王子から引き剥がす。
「こっち見た!」
「来るわよ!」
「やるっきゃないわね!」
「必ず倒す!」
もう一つ投げた暗器は悪魔に刺さった。禍々しい力が放出され、その力に私の力が共鳴する。
『ナカマだ、ナカマだ、ヤットアえた……!』
「仲間じゃない!」
叫び、暴走しそうになる度に抑えてくれた魔法騎士団たちの力の流れを思い出した。巡る血のように、私の全身に巡らせてくれたあの魔法は親の顔より覚えている。
「ッ!? 何この力……!」
同じペガサスに乗っていた彼女が怯えた。私は熱を帯びた体を抱き締め、逃げるようにペガサスから飛び下りる。
「あっ、シャルロット!」
背中から熱を放出するイメージで。すると、あっという間に体が浮いた。信じられないくらいあっさりと私の背中に何かが生えた。
「あれは……悪魔の羽?!」
手を伸ばした。悪魔がヨハン王子にしようとした攻撃は今はっきりとこの目で見た。それが悪魔の戦い方なら、私だっておんなじことがきっとできる。だって私は、〝悪魔の娘〟だから。
意図を察したヨハン王子の尻尾が悪魔を叩いた。息を吸い込み力を放ち、私の力が悪魔の体に風穴を開ける。鼓膜が破れるんじゃないかってくらいの絶叫が辺りに響き、私は嬉しさの余りに震えた体をもう一度だけ抱き締めた。
「でき、た……!」
悪魔と対等に戦えたこと。ヨハン王子の傍にいていいくらい強いんだと証明できたこと。長年憧れていた何者かになれたという喜びは、計り知れなかった。
傍まで寄ってきたヨハン王子は腕を伸ばし、私は彼の爪に軽く触れる。多分ハイタッチだと思ってそうした。ヨハン王子は牙を見せながら笑っていた。
「お疲れ! すごかったわね!」
「かっちょい〜。あぁいうの初めて見た!」
「さっすが〝悪魔の娘〟ね!」
「え、と……あり、がと……」
なんて言ったらいいのかわからない。けれど、涙だけは溢れ出た。
「な、なんで泣くの?!」
「わ、わた、う、嬉しく……て……」
ずっと、城の中で生きてきた。戦争なんて知らないまま平和に生きてきただけだった。戦って、傷一つなく帰ってきた彼らを出迎えるだけだった。
「……私、ずっと、ダメなんだって! 戦うことは、許されないんだって、思ってて……!」
みんな私のことを置いていく。私が弱いから、役立たずだから。
「なのに、今日……! 私、ちゃんとやれるって証明できた! だから、その……ありがとう」
ヨハン王子が答えることはなかったけれど、彼はちゃんと聞いててくれた。そして、軽く頭に触れてくれた。
「シャルロット」
「え……?」
刹那、聞き覚えのある声に私は現実に引き戻される。涙を擦ると、宙に一人の少女が浮いていた。
「あ、アイオン?!」
「アイオン? それってまさか……!」
「メルクーリ家に千年仕える、バケモノ魔女……?」
「《古の魔女》……初めて見た……」
最後に会った日と何一つ変わっていない魔女アイオンは、何故か一人で。アポロやアンリ、アトラスたちのことについて聞きたいのに聞いちゃいけないような雰囲気を感じた。
「セルニアに連れ去られたと聞きましたが、無事だったんですね」
「あ……」
いろんなことがあり過ぎて忘れていたけれど、アイオンにとってこの再会は衝撃的なものだったのだろう。
「……アイオン」
「とても恐ろしくなりました」
「強くなった、の間違い」
「いいえ。恐ろしい」
アイオンはどうしてわざわざそんなことを言うのだろう。理解できない。正直、したくもない。
「アリシアには帰らないのですか」
「…………」
いきなりそう言うということは、言いたくて言いたくて堪らなかったのだろうか。私は無意識に暗器に触れる。
「シャルロットがいなくなって、大変だったんですよ」
「大変? そんなわけ……」
……ない。
「いいえ。アポロやアンリ、アトラスにエメリヤン率いる魔法騎士団も、レベッカ率いるメイドたちも、皆一様にシャルロットのことを心配していました」
「…………」
アイオンの表情を見れば、それが嘘じゃないことくらいすぐにわかる。
「いえ、少し間違えました。心配と言うよりも、放心状態と言った方が適切でしょう。アポロはあまり食事を取らず、ディーノは人殺しを常にしていた頃のような目をしていました」
「そんな話、信じられない。アポロやディーノはともかく、騎士たちやメイドたちまでなんて……」
「本当です、シャルロット。皆、シャルロットのことが大好きなのです。けれど、貴方はアリシアに帰らないのですね」
「……うん。アリシアに帰るつもりはない。みんなの話を信じることもできないし、アイオンは嘘つきだって思ってる。けど、必ず会いにいく。それだけは約束する」
「そうですか」
アイオンはたった一言告げて顎を引いた。
「これ以上の話は無駄ですね。行きましょう、ベルニアの城を案内します」
「え……?」
「ようこそ、シャルロット。そして、ヨハン・セルニア。貴方たちを私は歓迎します」
アイオンが両腕を開いた。アイオンの背後には、綺麗な町並みが存在していた。滅んだなんて信じられないくらい、とても綺麗な国だった。




