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母さんの天気予報

作者: 祇園亜子

 母さんはすごい。

母さんの言うことはいつだってその通りになる。

天気予報は必ず当たる。桜が開花する日も、一度も外れたことはない。カラッと晴れた青空でも、俺は母さんの言った通りに傘を持って行く。周りには馬鹿にされたけど、俺は平気だった。その日の午後には決まって雨が降るのだから。

 母さんはそれくらい凄かった。

だから知っていたのだろう。俺がいつ死ぬのか。

 

 今年の夏、俺は死んだ。



 夏。

それは俺の一番好きな季節だ。

なぜなら俺は夏生まれだから。それに夏ってなぜかテンションが上がる。

その日も、学校へと急ぐ俺の足は小学生だったあの頃のように止まらなかった。

しかし、何か一つだけ忘れていた。それは傘だ。

持って行けと言う母さんを無視して学校へ向かったのは、空には雲一つ浮かんでいなかったから。

だから俺は母さんの言う通りにしなかった。

どしゃ降りになることなんてあるわけがない。

そのくらい、その日の空は晴れていた。

 学校へ向かう途中の道では、傘を持っている人なんて一人もいなかった。ほっとした。

やっぱり母さんの言う通りにしなくてよかった。

 教室に入ると、みんな俺の方をチラッと見るだけで、話しかけてくるやつなんて一人もいなかった。しかしあいつだけは、俺の存在に気付くと友達との会話をやめてすぐに駆け寄ってきた。ガキの頃から鬱陶しく世話を焼いてくる、幼馴染のあいつだ。

「おはよー。あれ、なんか元気ないね。まあ、いつものことか。

それよりさ、いい加減友達つくりなよ。私、いつまで君に世話を焼かなきゃいけないわけ。」

会った瞬間からこの聞き飽きた台詞で俺を困らせるのが、こいつの毎朝の恒例行事だ。

「うるさいな。分かってるよ、分かってるからできないんじゃないか。」

俺がそっけなく対応しても表情一つ変えない。本当に天真爛漫なやつだ。

「私がうるさくしないと君は何にもできないんだから。ねえ、ところで宿題はやってきたの。」

「あ。」

思い出した。宿題が出ていたなんてすっかり忘れてた。

「ほら、やっぱり。昨日の帰りに、宿題忘れないようにメールしようかって言ったのに、君は余計なお世話だ、って言ったじゃない。」

「はいはい、俺が悪かったよ。ごめんごめん。」

「分かったならよろしい。」

「なんだよ、それ。」

あいつは自分で言って自分で笑った。俺とこいつはいつもこうだ。

でもこいつはお節介なだけじゃなくて、実は優しい一面ももっている。俺が弁当を忘れたときは半分以上わけてくれたし、宿題のプリントを忘れたときには自分のプリントの名前を書き換えて俺に渡してくれた。こいつに対するありがたみは、日々大きくなっていく。しかし、ありがとうなんて直接本人に言えるわけがなかった。

「お前、今日傘持ってきてない…よな。」

「持ってきてるわけないじゃん。だって、こんなに晴れてるんだもん。」

「だよな。」

そうやってあいつはまた笑った。


 授業中にふと窓の外を見てみると、あんなにも晴れていた青空の面影はもうどこにもなくなっていた。

ああ。やっぱり母さんの言う通りにしておけばよかった。結局、帰りはどしゃ降りの中を走って帰ることになった。だから言ったでしょ、と呆れながら俺を見下ろす母さんの顔が浮かんだ。

 ようやく家に着くと、ずぶ濡れの重たい体が玄関のドアノブを求めた。

「ただいま。」

母さんの顔は笑っていた。

「ほら、言ったじゃない。」

予想通りの言葉が返ってきた。

母さんは、そう言いながらも俺の頭にバサッとタオルを放った。

「なぁ、母さん。もしかして、母さんってテレパシー使えるの。」

「何言ってるの。昔から言うのよ。『猫が顔を洗うと雨が降る』って。」

そんなのただの迷信だ。

母さんは、また笑っていた。



 俺の家には開かずの間があった。

幼い頃は、いつかはこの部屋の中を見てみたいという好奇心を持っていたのだが、時が経つにつれてその存在はどこかに消えてしまっていた。

 前に一度だけ母さんに尋ねてみたことがある。

「ねえ、おかあさん。このへやにはなにがあるの。」

しかし、母さんはただ困った顔をして答えるだけだった。

「その部屋はね、絶対に開けちゃだめなの。お母さんとの約束。」

その頃はその約束を疑うことなく守っていた。

これ以上触れてはいけないのだと、幼いながらに感じていたのだろう。

 しかし、中学生になった俺の頭の中には、幼い頃の好奇心が徐々に芽生え始めていた。

母さんとの約束も、既に頭の中から消えていた。そして、ついに聞いてしまったのだ。

「母さん、この部屋には何があるんだ。」

すると、母さんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。その瞬間、それが聞いてはいけない質問だったことに、俺は気が付いた。でも何故だろう。俺の好奇心はすぐには収まらなかった。

 扉を開けてはいけない理由って何だろう。

 母さんは何を隠しているのだろう。

次から次へと、「聞いてはならない質問」が俺の頭の中を支配する。

その日の夜はあまり眠れなかった。

 

 それから何日経っても、疑問は俺の頭の中から消えようとしなかった。

あの約束はまだ有効なのだろうか。いっそのこと開けてしまおうか。でも、開けてはいけない。二つの気持ちが心の中で対立した。しかし、高校生の俺はまだまだ幼い子どもだった。まさか俺があの部屋の扉を開けてしまうなんて、誰も思わなかったはずだ。

 俺はついに扉を開けてしまった。と、同時に、後ろで物音がした。ガラスが割れる音だった。母さんの顔からは、もうあの苦い表情は消えていて、怒りと悲しみが入り混じったような複雑な感情がにじみ出ていた。しまった。いけないことをした。しかし、後悔してももう遅い。俺は、母さんの複雑な表情と、真っ暗で不気味な部屋をただ交互に見つめるしかなかった。


 次の日、少しだけ冷静になった母さんは、俺に全てを打ち明けた。

「あなたにはね、おばあちゃんがいたの。でも、あなたが生まれてすぐに亡くなってしまった。とても厳しい人だったわ。」

ばあちゃんのことを話し始めた母さんは、どこか寂しそうだった。

「誰も知らないことだけど、あの部屋にはおばあちゃんが遺したものをたくさん置いているの。おばあちゃんは『予知能力』というものをもっていて、それは私の家系で代々、女性だけに引き継がれることになっている。…だから、分かるわよね。」

俺にはすぐに分かった。つまり母さんも予知能力をもっている。そういうことだ。俺は自分が思った以上に冷静でいられた。母さんが予知能力をもっているという事実と、母さんの勘があまりにも当たり過ぎているというおかしな現実が、見事にシンクロしたからだ。

「何で今まで言わなかったの。」

すると、母さんはまた苦い顔をした。

「予知能力をもっていると、人の死や、不幸を予知することができるの。でも死を伝えてはいけないって、昔から母に言われていたわ。」

俺は頭の中で少しずつ整理しながら理解することにした。冷静なふりをして、母さんが再び口を開くのを待っていた。

「……あなたのおじいちゃん、私の父は自殺だった。突然死じゃない限り、予知することは不可能だった。そういう力なの。父が死ぬなんて思ってもいなかった。誰も知ることはできなかったわ。」

母さんは何も悪くない。しかし、今の母さんに何と声を掛けていいのかわからなかった。

 しばらく沈黙が続き、やっと先に口を開いたのは母さんの方だった。

「母は予知能力をとても大切にしていたの。この力を使える人は他にはいない、私の代で終わらなくてよかった、…って。そして、私があなたを産んでから私たち夫婦は喜びにあふれていたけれど、母はそうはいかなかった。もちろんあなたのことは愛していたけれど、予知能力を引き継ぐ者がいなくなってしまうことを恐れて、しばらくは私もきつく当たられたわ。」

俺は少しだけうつむいてしまった。母さんが申し訳なさそうに俺を見る視線も、少しは感じた。

「でも父の死がきっかけで、予知能力は母と私を苦しめるだけのものとなった。だけど、悪い力ではないって私たちは信じているの。死を予知していれば、その人との最後の時間を大切に過ごすことができるから。」

母さんは嬉しそうに、そして懐かしそうに笑った。父さんのことだろうか。

「あなたのお父さんは、あなたが3歳のときに亡くなってしまったの。今まで黙っていて、本当にごめんなさい。予知能力とは全く関係ないのに。」

急に謝ってきた母さんに、俺は驚いた。

「…謝らなくていい。父さんがいない生活なんて、もう慣れているじゃないか。」

母さんを安心させようとして言ったわけじゃなくて、これは俺の本心だった。

母さんは安堵していた。

「お父さんは突然の事故で亡くなった。でもあらかじめ予知できたことだったから、私は最期の一週間を大切に、大切に過ごしたの。本人に気づかれないようにするのに必死だったわ。あの人がいつものように微笑んで『行ってきます。』って……家を…出たんだもの。でもね、後悔はなかった。あの人との最期の時間を笑って過ごせたから。…予知能力のおかげね。」

母さんはそう言って、どこか誇らしげな表情を浮かべた。

 予知能力ってすごい。俺はただ単純にそう思った。

でもなぜか息が詰まったような感覚に陥って、何日も悩んだ。俺の中に、母さんの苦しみが絶え間なく流れ込んでいるような気がしたからだ。俺がもし女に生まれていれば、母さんはたった独りで不安の中を生きることなんてなかったのではないだろうか。俺が女に生まれて予知能力を引き継ぐべきだったのだ。そうすれば母さんと一緒に父さんが生きている未来を作ることができたのに。ばあちゃんにも責められずにすんだのに。一人じゃできないことも、二人ならできたかもしれないのに。俺は何を呑気に生きていたのだろう。なぜ今まで気づかなかったのだろう。俺は自分が嫌になった。俺はなんて馬鹿な人間なのだろうか。

 母さんを一番近くで見てきたはずなのに、なぜ何もしなかったのかと、俺の中にいるもう一人の俺に責められているような気がした。

 そうか、償うしかないんだ。償うことでしか、俺は母さんを救えない。そう、思った。


 母さんの秘密を知ってから二週間が経った。

 その日も俺はいつもと同じように家を出て、いつもと同じように学校へ向かった。そしていつもと違う扉を開けた。

素足で立つコンクリートは、冷たくて気持ちがいい。

俺は弱い。最後まで弱い。

けれど、そんなことはどうでもよかった。

早くばあちゃんに会いたい。その勢いで大空に飛び込んだ。

やっぱり俺は強い。最後まで強かったんだ。

少しずつ近くなる地面。教室の窓に移る俺の惨めで哀れな姿。

最初で最後の景色は、新鮮で清々しかった。

 それから間もなく、俺は花壇のそばで、倒れた状態で複数の女子生徒に見つけられた。

その中にあいつもいたかもしれない。


 明るい空間に、小さな家が立ち並んでいた。

偶然にもそこは、長生きして亡くなった人々の集落だった。

俺は真っ先に、顔も知らないばあちゃんの姿を探した。すると、数メートル先に母さんと顔立ちがそっくりな女性が、誰かと立ち話をしていたのが目に入った。

「あの、俺のばあちゃん…ですか…。って言っても分からないですよね、失礼しました。」

人違いだったかな。困った顔をするその人に背を向けた。

「あら、あなた…もしかして私の孫かい。」

「そうだよ。母さんの子ども。…ばあちゃんのこと、母さんから聞いたよ。」

「そうかい。予知能力があったことも、知ってしまったんだね。あの部屋には入ったのかい。」

「いや、入ってないよ。開けたんだけど…うん、開けたんだけど、真っ暗で、なんか不気味だったから。」

するとばあちゃんは安心したような表情を浮かべた。

「それはよかった。…で、どうしてこっちの世界に。まさか、自殺したんじゃあないだろうね。」

図星をつかれてしまった。俺は、ばあちゃんが変な聞き方をするから答えづらくなってしまった。

「いや……あの…。」

「図星かい。母さんはよく止めなかったね。」

ばあちゃんの言っていることがよく分からなかった。

「ばあちゃん、何のこと言ってるんだよ。母さんが俺を止めることなんてできないじゃないか。」

するとばあちゃんは不思議そうな顔をした。

「あんたの母さんには、私にない力が備わっているんだよ。」

「それって…。」

「そうだ。母さんには自殺を予知する能力があるんだよ。」

一瞬、頭の中が真っ白になった。

嘘だ。

だって、あのとき言ってなかったじゃないか。

だったらなんで止めなかったんだよ。

「俺、そんなの知らない…。だって母さん、そんなこと言ってなかった。今朝だって、普通に俺を送り出してくれた。秘密を暴露したときだって、自殺は予知できないって…」

ばあちゃんは静かに頷いた。

「あんたは母さんに止めてほしかったんだね。自殺を選んだ後でも、母さんと一緒に暮らしたいと願っていた。母さんだって本当はこんなことしたくなかったはずだ。秘密を暴露して、我が子がどのような思いをもって生きていくだろう。負担を掛けてしまうのではないか。重荷を背負わせてしまうのではないか。そう思ってあんたに自殺の道を与えた。つらい現実を背負って生きていくより、楽になった方が何倍もいい。母親としてのつらい決断をしたんだと、私は思うよ。」

なんで…。

なんで止めなかったんだよ。

「見てみるかい。あっちの世界の様子を。」

「見れるのか。いや、だけど…。」

もし、母さんやあいつが俺のことなんか忘れて楽しく暮らしていたら…。そう考えると怖かった。しかし、たとえそうであったとしても、見る価値はあると思った。

「ばあちゃん、やっぱり、俺、見たい。」

ばあちゃんは深く頷くと、自分の家に俺を招き入れた。そして俺はテレビのようなものの前に座らされた。

「これであっちの世界の様子を見ることができる。私は向こうの部屋にいるから。」

そう言ってばあちゃんは向こうの部屋に消えた。

 恐る恐る電源を入れると、画面には見覚えのある風景が映し出された。あの部屋だった。そこには、さっきまでいたばあちゃんの遺影と、父さんの遺影、それから俺の遺影が三つ並んでいた。そして母さんが俺の遺影に向かって何か呟いていた。

「母さん…。」

俺は思わず口にしていた。昨日まで一緒に暮らしていたのに、まるで何年も会っていなかったように思えた。母さんは一体何を話しているのだろう。音量を大きくして、注意深く聞いてみた。

「ごめんね…。楽にさせてあげたかっただけなの。だけど、実の子どもに自殺の道しか与えないなんて…私、どうかしてたわ。何か他の方法があったかもしれない。それなのに…」

そこには、自分を責めている母さんがいた。

あの日、自殺を予知できると知ったなら、俺は今ここにいないだろう。

きっと、母さんと一緒に何か方法を探していたに違いない。やっぱり俺は弱い人間だ。与えられた道を進むことしかできない。後に残された人間のことなんて何も考えていない。

いつの間にか俺の頬には涙がつたっていた。

 俺はなんて親不孝者なんだ。

女に生まれ変わるなんてこと、絶対にできやしないのに。

 自殺なんてしなければよかった。

「…生きたい。誰か…、誰か俺にもう一度チャンスをくれよ…。お願いだから…チャンスを…くれよ…。」

泣き崩れる俺の肩に、何かが触れたような気がした。

 

 涙を拭い、目を開くと、心配そうに俺を見つめる母さんと真っ白な天井が見えた。

ここは…もしかして夢…?

母さんは、俺が口を開くのをじっと待っているようだった。

「母さん、俺、ばあちゃんに会ったよ。」

すると母さんは、大粒の涙を流しながらゆっくりと頷いた。

そうだ、母さんに早く夢の話をしよう。



今日はあの日よりもずっと、ずっと、清々しかった。











































 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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