八.谷村明
予め鹿子木が電話で予約しておいた『テクノロジー』という喫茶店で、その日の夜八時に谷村明と会うことになっていた。洋介は車の中でM研究室でのやり取りを整理し手帳にポイントを書き留めた後、一人でラーメンを食べた。約束の時間まであと三十分となったところで洋介の携帯電話が鳴った。鹿子木からであった。
「ああ、神尾さんですか。やはり神尾さんと一緒だと新たなことが明らかになりますね。今日、S研究所に行って頂いて本当に良かったと思っています。本当に有り難うございました。今ですね、露木教授について東京の所轄警察署に調べてもらうようお願いしているところなんです。申し訳ありませんが、ちょっと遅れそうなんですよ。それで、谷村との話、先に始めておいていただけないでしょうか?」
「ええっ……、私は谷村さんとは初対面なのですよ。どうすればいいんですか?」
「私の方から谷村に電話しておきます。喫茶店のマスターにも頼んでおきますから、店に着いたら『鹿子木から依頼された』と伝えてください。席を用意しておいてもらいます」
「分りました。やってみましょう」
指定された喫茶店『テクノロジー』に八時五分前には着いた。洋介が店内を眺めているとマスターらしき男が近づいてきた。
「神尾洋介様でいらっしゃいますか?」
「はい、神尾です」
「鹿子木さんからご案内するよう受け賜っております。こちらへどうぞ」
マスターらしき男は洋介を店の一番奥に案内した。確かにこの席なら内密の話がしやすそうであった。そこには既に一人座っており、テーブルに飲みかけのコーヒーカップが置かれていた。
「谷村様、鹿子木様のお連れの方が来られました」
中肉中背でこれといって特徴的なところのない男は立ち上がって洋介に一礼した。
「谷村明さんですね。神尾洋介と申します。本日はお忙しいところお越し頂きまして申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそいろいろお世話になっております」
「鹿子木さんが約束の時間には間に合いそうにないということですので、恐縮ですが私の方からいくつかお話を伺いたいと思います。よろしいでしょうか?」
「はい、私にも鹿子木さんから電話がありましたので、承知しております」
挨拶の間、控えめに待っていたマスターらしき男に洋介はアメリカンコーヒーを注文し、谷村の正面の椅子に座った。
「それでは早速ですが、港北副所長のことについて教えてください。M研究室の皆さんのお話によると、港北副所長はかなり個性の強い方で、皆さんへの影響力は大変大きなものがあったようですね。谷村さんに対してはいかがだったのですか?」
「私に対しても皆さんと同じだったと思います」
「それでは、谷村さんがおやりになった研究成果は港北副所長のものにされていたのですね?」
「研究テーマは港北元室長によって与えられ、それに基づいて我々部下は研究します。ですから港北元室長がトップネームで科学雑誌に投稿されることは仕方がないことだと思うようにしておりましたが、やはり実際に実験を行ってデータを出し、それを丹念に考察して次の実験を組み立てて実行に移すという作業を何回も積み重ねた末に得られた貴重な成果ですから、研究者としてはかなり惨めでした」
「そうですか。それであの研究所を諦めて、別の研究所に転職されたんですね。でも、港北さんは一年前にM研究室の室長から副所長に昇進された訳ですよね。もう、彼は谷村さんの直属の上司ではなくなり、優しい落合さんが室長になられた。つまり、研究成果は谷村さんのものになったのではありませんか?」
「表面上はその通りなのですが、私の研究はそのほとんどが港北副所長の研究領域の中のものでしたので、組織上の変化があっても実質的には何も変わりませんでした。港北副所長は昇進された後も、しょっちゅう私のところに来られて研究の指示をされていました。それで、あそこに居てもダメだと思い、転職することにした訳です」
「X社に移られて、その辺は変わりましたか?」
「ええ。同じ失敗は繰り返したくなかったので、転職先については事前にいろいろと情報収集しました。今の会社はその点は大丈夫だとの情報がありましたので決心したのです。今の会社の研究者たちは社内外を問わず、自分の成果を自分で発表する機会が多いので大変意欲的に研究に取り組んでいます。もちろん、会社なので特許には非常に注意して発表しますから、研究成果の全部を直ぐに発表することはできませんが、特許が取得できる見通しさえ付けば、積極的に発表させてくれるようです。転職して本当に良かったと思っています」
そこにコーヒーが運ばれてきた。頷きながら一口飲んだ後、洋介は谷村の言葉に応じた。
「そうですか。それは良かったですね……。それでは送別会のことについてお尋ねしたいと思います。あの日は谷村さんの送別会だったにもかかわらず、会場や料理などは港北副所長の意向で決まったそうですね?」
「はい、そうです。これまでの経緯から考えると、特に異常なことだとは思いません」
「どうもそのようですね。それで、当日、港北副所長だけにタラバガニの酢の物が出されたとのことですが、このことについては何かおかしなことなどありませんでしたでしょうか?」
「酢の物ですか。ああいうことはよくあったことですので、特別なことではなかったと思いますが……」
「谷村さんは港北副所長があの酢の物を食べたところをご覧になっていましたか?」
「どうだったかなあー、他の人が何を食べたかまで見てないですよね、普通。それに、できれば港北副所長の顔は見たくないというのが本音ですので、よく覚えていませんね……」
「そうでしょうね……。ところで、あの日、送別会の直前に港北副所長はT大学理学部の露木教授と会われ、随分とご機嫌が悪かったそうですね?」
「ええ、そうでした。いつものことなのですが、特にあの日は一段とご立腹のようでした。落合室長が一所懸命対応されていましたので、私はできるだけ関わらないようにしていました」
「そうですか。それでは露木教授とのことで何か特別なことはお気づきにはならなかったのですか?」
「そうですね。お二人は常に争っておられましたから、特別なことということはなかったように思いますが……」
話が一段落したところに鹿子木が現れた。
「いやー、済みません。ごたごたしていたものですから」
「私のほうで大体のことは伺いました。鹿子木さんから何かありますか?」
「いやいや、神尾さんが訊いてくれたのなら、それで十分です。谷村さん、ご足労をおかけしました。有り難うございました」
鹿子木の心はもうここにはなかった。谷村は挨拶をするとほっとしたような表情を浮かべて店を出て行った。
「いやー、露木は怪しいですね。所轄の警察署を通じて露木とようやく連絡が取れましてね。明日露木に会っていろいろと訊いてきますよ」
鹿子木は意欲溢れる顔でそう言った。洋介はしばらく考える時間をもらうことにしてその日は鹿子木と別れた。