七.S研究所
四月二十四日午後一時半、洋介が自分の車でS研究所の駐車場に着くと、先に到着していた鹿子木は受付の近くで手招きをした。洋介が走り寄るのを待ってから鹿子木が受付で挨拶すると相手は顔を覚えていたようで、直ぐに確認してきた。
「秘書室の酒匂さんですね?」
鹿子木が肯くと電話で連絡して了解が得られたようで、二人が玄関から入所するための認証カードを渡してくれた。
S研究所の内部は筑波ホビークラブとは比較にならない程しっかりとした造りであり、内装や種々の設備やその管理状況等は完璧に近いように見えた。整っていればいる程人間臭い暖かみは伝わってこない。その点、筑波ホビークラブにはそれだけは十分にあるように洋介には思えた。
「酒匂さん、いつもお忙しいところにお邪魔して申し訳ありません」
鹿子木は二階の大部屋の中で総務部の奥に配置されている秘書室の机の塊の中の一人の女性に声を掛けた。
「いいえ、お仕事お疲れ様です。いつもの小会議室を予約しておきましたのでお使いください」
「有り難うございます。こちらが先日お話しました神尾洋介さんです」
洋介は酒匂美奈子に目を合わせてから頭を下げた。美奈子がそれに応えるのを待ってから、鹿子木は続けた。
「ところで酒匂さん、少しお時間をいただけますか?」
「はい、少しなら大丈夫だと思いますが……」
「港北副所長について、秘書をされていた酒匂さんにもいくつかお伺いしたいと思いますので、申し訳ありませんがよろしくお願い致します」
小ぢんまりとした綺麗な会議室であった。中央に据えてあるテーブルを挟んで椅子が両側に三脚ずつ、奥の壁にはホワイトボード、入り口の直ぐ傍の壁には電話が備え付けられていた。二人は奥の席を勧められた。鹿子木が端の椅子に座ってしまったので、洋介は仕方なく真中の椅子に座った。入り口に最も近い席に座った美奈子は、少し怪訝そうな顔で訊いた。
「私は送別会に出席しておりませんでしたが、何かお役に立つのでしょうか?」
「はい。今日は送別会での出来事以外のことについても皆さんにお訊きしようと思っておりますので、よろしくお願い致します。それでは……と、酒匂さんにきちんとお話を伺うのは初めてなので、先ずは簡単な自己紹介をしていただけると有り難いのですが」
「分りました。私は酒匂美奈子と申します。高校までは守谷に住んでおりました。東京の女子大を卒業致しまして、ここ、S研究所に就職しました。入所当時は総務部で一般事務をやっておりました。その後秘書室に異動になりまして、昨年度からは所長および副所長担当秘書を勤めさせて頂いております」
「そうですか。この研究所のトップお二人の秘書をやっておられるのですね。なかなか大変なお仕事なんでしょうね」
「いいえ、お二人ともきちんとされておられる方たちなので、私など、簡単なお手伝いをさせて頂いているだけです」
これまで我慢していた洋介が初めて口を開いた。
「突然のことで申し訳ありません。早速ですが、港北副所長が亡くなられた日の行動はお分りになりますか?」
「はい。所長と副所長の行動予定は私の手帳に書いてから、秘書室の壁に掲示してあるホワイトボードに記載することになっておりますので、分ります。ええと、三月二十五日でしたね……、この日の副所長は午前中はお部屋にいらっしゃいました。午後も三時半までは研究所内におられましたが、四時から外で、ある先生とお会いする予定が入っていましたので外出されました。面会が終わりましたらそのまま送別会場に直行されることになっておりました」
「その先生とはどなたなのでしょうか?」
「T大学理学部教授の露木健一先生です」
「その露木教授と港北副所長とのご関係は?」
「私も詳しいことは存じ上げておりませんが、露木先生は港北副所長と同じ研究分野の方だとお聞きしております」
「そうですか。そうすると露木教授もバイオテクノロジーがご専門だということですね」
「はい、そういうふうにお聞きしております」
「港北副所長と露木教授とは親しい間柄だったんですか?」
この質問に美奈子は一瞬返事を躊躇ったように見えたが、直ぐに背筋をピンとして答えた。
「私には専門的なことはよく分りませんが、良きライバル関係でいらっしゃったのではないでしょうか」
「良きライバル関係……ですか。お二人が対立していたなんてことはないのでしょうか?」
「さあ、研究の中身のことになりますと、私のような素人には良く分りかねますが……」
「そうですか。そうしますと、港北副所長は露木教授とお会いになった後、直接あのフグ料理専門店に行かれた訳ですね」
「はい、そうだと思います」
「港北副所長が外出された後は、何の連絡もなかったのですね?」
「いいえ、露木先生とのお話が終わってから電話を頂きました。所長や副所長には内部や外部からいろいろな連絡が入るため、必ず外出先からも電話を入れて頂くことになっておりますので」
「そうですか。その時、何か言われていませんでしたか?」
「ええ、何ですか、副所長はずいぶんと怒っておられた様子でした」
洋介と美奈子との会話を黙って聞いていた鹿子木だったが、美奈子の言葉に食らいついた。
「えっ、そんなことがあったんですか!」
少し叱責するような口調の鹿子木に対し、ほんの一瞬ではあるがきりっとした視線を送った後、美奈子は目を逸らせて答えた。
「はい。これまでは送別会のことをお聞きになっておられたようでしたので、その前の副所長の行動は関係ないと思っておりましたので」
「あっ、済みません。酒匂さんを責めるつもりで言ったのではないのです」
鹿子木はしまったと思ったが、ここは洋介に任せておくほうが良さそうだと思い、頭を下げるだけにしておいて、口をつぐんだ。
「露木教授とのお話の内容について、何か言われていませんでしたか?」
「港北副所長の研究にけちを付けられたとか言われておりましたが……。それ以上の詳しいことは私にはよく分りかねますので、落合室長にお訊きいただけないでしょうか」
「分りました。それでは後ほど落合室長に伺うことに致します。その他、港北副所長のことで何か気になるようなことはありませんでしたか?」
「さあ、特になかったと思いますが……」
「そうですか。有り難うございました。鹿子木さん、よろしいですか?」
「はい、結構です。もし他に何か思い出されたら、どんな些細なことでも構いませんからお知らせ頂きたいと思います。お忙しいところ本当に有り難うございました。それでは先ず落合室長からお越し頂きますようお伝えください」
美奈子は一礼すると視線を逸らし、真っ直ぐ前を向いたまま出ていった。
鹿子木はこれまでこの研究所に来ると、先ず室長に敬意を表して面談した後で研究室の人たちから話を訊いていた。この日もそれに倣って先ず落合に来てもらった。
「こちらが神尾洋介さんです。先日もお話しましたように、科学的知識が豊富な方で、これまでも難事件の解決にご協力頂いてきている方です。本日は一緒にお話を伺わせて頂きたいと思いますのでよろしくお願い致します」
「初めまして、神尾と申します。ご迷惑のことと思いますが、鹿子木さんにくっ付いてやってまいりました。少しでも事件解決のお役に立てばという気持ちでおります。どうかよろしくお願い致します」
「よくいらっしゃいました。刑事さんから神尾さんのことはお聞きしております。我々にとっても今回の中毒事件は困った問題でして。もしかすると我々が疑われているかも知れないと考えると、居ても立ってもいられない状況です。研究室の皆も、自分たちが疑われるなんてとんでもないと思っておりまして、神尾さんがこの事件を解決してくださるのであれば、喜んで協力させて頂きたいと申しておりますので、どうぞ何でもお訊きください」
「あっ、困りましたね。まだ皆さんのことを疑うとかいうことではありませんので、誤解しないで頂きたいのですが……。今はいろいろな可能性を考えなくてはいけない段階ですので、情報収集を行っているところなんです。よろしくお願いします」
鹿子木は想像以上に相手が警戒している様子なので、少し困ったような顔をして説明した。
「もちろん、その辺のことはよく分かっているつもりなのですが、いろいろな可能性があるということは、食中毒以外のことも考えるということですから、私たちも余計なことまで考えてしまいます」
鹿子木はこれまで数回落合室長と面談していたが、受け答えにはそつがなかった。喋り方は非常に丁寧で他人を見下すような態度は微塵も見せなかった。一般的に言えば、国や都道府県の公立の研究所ばかりでなく企業の研究所においても、研究者上がりで役付きになった人たちの中には、いつまでも現役の研究者でいたいという願望が強い人もいる。そのような人たちは服装に関しても若い頃と同じように比較的自由な格好を好む。しかし、洋介たちの前に現れた落合室長はスーツにネクタイ姿であった。
「ところで落合室長、今回の送別会には、普段あまりこの手の会には参加されなかった港北副所長が参加されたのでしたね。何度も申し訳ありませんが、神尾さんのためにもその辺の事情をもう一度詳しくお話し願えませんでしょうか」
事前に打ち合わせていた通りに鹿子木が切り出した。洋介は隣で小さく頭を下げた。
「分りました。この三月に退職した谷村明君は、亡くなった港北副所長がこの研究室の室長だった時に入所しました。随分と研究室の業績に貢献してくれたものですから、港北副所長も目をかけておられましてね。X株式会社の研究所に転職することをかなり残念がられておられました。私が送別会のお話をしましたところ、港北副所長も是非参加したいとおっしゃいまして。それであの会に出席して頂いた訳です。こんなことになるのならお誘いするのではなかったと後悔しております」
「港北副所長はご自分でフグ料理を指定されたそうですね?」
今度は洋介が訊いた。鹿子木は落合に訊きたいことが他にあったが、しばらくの間我慢して聞き役に回ることにした。
「はい、その通りです。副所長が送別会に出席されることを皆に伝えましたところ、皆が気を利かせてくれまして、副所長のお好きな料理にしようということになりました。それで私がご意向をお伺いしたのです」
「そうだったんですか。すると、その時初めてフグ料理だと分かったことになりますね?」
「そうとは言えないと思います。と申しますのは、副所長のお好きな料理の種類はそう多くはありませんでしたから。フグ料理の他にカニ料理や四川料理もお好きでした。この中で一番お好きだったのがフグ料理なのです。少なくともこれらの料理のどれかになるだろうということはほとんどの人が分かっていたのではないかと思います」
「そうですか、皆さんもある程度予想できたことだったんですか」
洋介は少し残念そうに言った。
「ところで、送別会では酢の物が出されたそうですが、こちらはどんな経緯だったんですか?」
「酢の物も亡くなった港北副所長の大好物だったのです。フグ料理と言われた時に、きっと酢の物も出してもらえと指示されるだろうと思いました。研究室の皆もそう思うに違いありません。これも皆が知っていたことですから」
「港北副所長のお好みはそれ程までに皆さんに浸透していたのですか? でもおかしいですね。港北副所長はこの手の会にはあまり参加されない方だと聞いておりますが」
「はい、大体はその通りなのですが、全く参加されなかった訳ではありません。我々には理解できませんが、突然何かの意図をお持ちになって参加されることがありました。そんな時にしっかりと記憶せざるを得ないことが何回か起こりましたから、ほとんどの人は副所長のお好みを覚えているのです。とにかく、副所長の思い通りにならなかった時、周りの人の対応がとんでもなく大変になることを皆よく知っておりましたので」
「一体どういうことになるのですか?」
「ご機嫌が悪くなると申しますか、単純に怒鳴りつけるというのではないのですが、ご自分の主張が通るまで強く要望され続けると表現するのがよいのかも知れません。とにかく、フォローするのに莫大なエネルギーを使わなければならないものですから」
「港北副所長は相当わがままな方だったんですね」
「いや、何と申しますか、我々の行なっております研究分野での世界的な権威者でいらっしゃったものですから、副所長のご意向を皆が尊重していたのです」
港北の具体的な行動について口に出すだけでも厄介なことになるとでも思っているような落合の強い意思を感じ、洋介はそれ以上追求するのを止めた。先日のフグ料理専門店の仲居に聞いた話からおおよその見当は付くように思えたし、これ以上訊いても落合から発せられる言葉は曖昧なものだけだと思ったからであった。
洋介の質問が一段落するのを待っていたかのように、鹿子木が口を開いた。
「ところで、落合室長。港北副所長はあの送別会の直前に露木教授とお会いになっていたそうですね?」
「ええと……、ああそうでした。副所長から事前にそのように言われておりました」
「港北副所長と露木教授との関係はこじれていたのですか?」
「こじれていたなんてことはないと思いますが……」
「しかし、港北副所長は露木教授と会われた後、随分とご立腹の様子だったようですね」
「確かに、お二人は会えばしょっちゅう議論をされていましたので、一般の方から見れば喧嘩しているように思えるのだと思います。しかし、あくまでも研究上の考え方の相違と申しますか、お二人の主張されている仮説が異なっていることから生じる学問上の対立関係でありまして、その辺の喧嘩とは異なるものだと思っておりますが」
「その対立についてもう少し詳しくお話してください。ただし、私みたいな研究に関する素人にも分るようにしていただけると助かるのですが」
「そうですね……。港北副所長と露木先生はお二人ともバイオテクノロジー界では著名な研究者でいらっしゃいまして、それぞれ独自の研究上の仮説を提唱されています。元来、研究というものは、先輩研究者たちが積み上げてきた成果の上に立って、新たなことを見出していくものだと思います。従って、両先生の仮説も根本的な部分では同じなのですが、その上に築かれつつある部分の想定の仕方が異なっている訳です。もちろん、どちらもまだ実証されておりませんので、現時点ではどちらが正しいのか分らない状況です。そこで、学会などでは、両研究グループが自分たちの仮説に則った考え方で種々の実験を行った結果を発表するのです。そうすると、相手側はその批判を行うということになります。従って、周囲から見れば常にぶっつかっていて、あたかも喧嘩しているように映ってしまいがちなのだと思います」
「そういうことですか。それで、あの日の話し合いは何故行われたのかご存知ありませんか?」
「露木先生は現在東京にあるT大学理学部教授をされておられます。先生はつくばにありますB大学のご出身なので、年に二、三回集中講義のためにB大学に来られています。ちょうどあの頃も講義に来ておられました。谷村君の送別会の日は、二日間の集中講義が終わる日だったので、講義終了後、副所長にお会いしたいとの電話が入っていたのだそうです。それで、副所長は市内の喫茶店で露木先生とお会いしてから送別会に来てくださったのです」
「そうでしたか。しかし、事件が起こったのは三月二十二日でしたね。学生の皆さんはもう春休みに入っていたのではありませんか?」
「ええ、そうです。露木先生は大変人気のある先生ですので、B大学でも何とか講義をしていただきたいと考え、T大学が休みに入ってからB大学での集中講義をお願いしていたようです」
「なるほどね。露木先生は売れっ子教授だったということですね。それで、話の内容について港北副所長は何か言われていませんでしたか?」
「かなりご立腹のご様子でした。送別会場に到着されると直ぐに露木教授との話し合いについていろいろとお話されていました」
「どんなふうに言われていたのですか?」
「向こうからの呼び出しでしぶしぶ喫茶店に行ってみたら、露木先生の仮説を証明する実験結果が出たと自信たっぷりにデータを見せられたのだそうです。その上、副所長の仮説は間違っているのだから今度の学会までに取り下げたらどうか、と言われたそうです」
「えっ、それは港北副所長にとっては大変なことでしたね」
「いえ、そうでもないのです。異なる仮説で対立している場合、自分たちに有利な実験結果が出ると、直ぐに仮説が実証できたかのように報告したがるのですが、あくまでもそれは自分たちの仮説に則って考察した場合にそのように考えられるという場合が多いのです。従って、相手のグループはそれを覆そうとまた新たな実験を行い、自分たちの方が正しいと主張する訳です」
「そうなんですか。そうすると、どうなればどちらかの仮説が正しいと証明されたことになるのですか?」
「既に学会で認められている基礎的な事柄から理詰めで展開していって、他の可能性が全くないことを証明した場合や、他の公正と目される第三者的な研究グループが論理的な追試を行って仮説を証明したことが認められた場合などではないのでしょうか」
「そうですか。しかし、あの喫茶店での話し合いで港北副所長が自分の仮説を取り下げてくれれば、露木教授側にとっては非常に都合が良くなるということはありませんか?」
「まあ、そういうことになりますが、そう簡単には自説を取り下げたりしませんから、いつまでも対立は続いているのだと思います」
「例えばですよ。あくまでも仮定の話ですが、もし、対立しているどちらかのボスが亡くなったとしますよ。そうなると、もう片方にとっては非常に都合の良い状況になりますよね?」
「ええ、一応そういうことにはなりますが、あくまでも自分たちが主張する仮説が科学的に実証されることが必要なので、ただ単に相手のボスがいなくなればよい、ということにはならないと思います」
「でも、当面は自分たちの仮説に浸りきって研究を進めていくことができる状況が作れる訳ですよね?」
「まあ、それはそうですが……」
最後は鹿子木が自分の考えを押し付けた形で、この話は終わりとなった。
「どうも有り難うございました。大変参考になりました」
黙って聞いていた洋介に労をねぎらわれて落合は会議室を後にした。
「露木がかなり怪しくなってきましたね。早速捜査しなくちゃいけない」
鹿子木は落合の閉めたドアの音を確認してから洋介に小声で言った。直ぐにでも会議室から飛び出して行きそうな鹿子木を何とか押し止めた洋介は、酒匂に電話して送別会の幹事を務めた田丸徹を呼んでもらった。
田丸の身長は低く肥満型で、顔も目も鼻も口も耳も指も全て丸い感じであった。洋介の紹介が終わると直ぐに露木のことから訊きたそうであった鹿子木の機先を制して洋介が質問した。
「先程落合室長にもお訊きしたのですが、フグ料理と酢の物を指定されたのは亡くなった港北副所長だったそうですね?」
「ええ、そうですよ。かなりの確率でそうなることは、ここの研究室の人だったら予想できましたけどね」
「と言いますと?」
「港北副所長の好きな料理はフグ、カニ、四川のどれかだって、この研究室の皆さんが言ってますよ。中でもフグが一番好きだったんじゃないかな」
「やはりそうなんですか。そうすると、幹事の田丸さんに港北副所長が料理を指示される前に、どなたかが、例えば主賓に当たる谷村さんとかが今回のメニューを希望されたなんていうことはなかったんですね?」
「もちろんですよ。自分の希望があったとしても、副所長の意向がはっきりしない内にそれを他人に言う人はいやしませんよ」
「そうですか……。ところで、亡くなった港北副所長に対しては、皆さん恐れられていたというか、随分と気を使ってこられたようですが、田丸さんはどう思われていたのですか?」
「こちらの刑事さんにはもう何回かお話しましたが、私は昨年四月にこの研究室に異動になったので、ちょうど港北副所長とは入れ替わりだったんです。だから、研究のことで直接副所長と接した経験はほとんどないのでよくは知らないんです。でも、この研究室の人たちから毎日のように副所長の酷さを聞かされているんで、大体のことは分りますよ」
田丸の喋り方は一気に話す感じであったが、あまり強い信念を持っているようには見えなかった。
「どんなふうだったのですか?」
「副所長は専門分野では世界的にも有名な研究者だったんで、その点は確かに私たちも誇りには思っていましたよ。ただ、昔は今のようではなかったみたいだけど、現在はもっぱら文献検索が主で、自分では実験を行なわず、部下にいわゆる滅私奉公的な貢献を強要していたんです。もちろん、部下が上げた成果も自分がトップネームで科学雑誌に投稿しちゃうんですからね。本当に酷い上司ですよ」
「そうですか。それで、港北副所長は落合室長に対しても皆さんと同じような対応だったんですか?」
「他の研究室の人たちは、落合室長のことを『胡麻擂り』とか『副所長のご機嫌取り』とか言ってますけど、本当は一番苦労してきたのが落合室長だそうですよ。港北副所長がここの室長だった頃のこの部屋の実績のかなり多くの部分は、落合室長がやったんだというのはまず間違いないみたいですね。当時の港北室長は、落合さんの実績を自分のものとしてしまい、世界的な科学雑誌に自分がトップネームで投稿していたというんですからね」
「それでは落合室長は研究者としての栄誉のほとんどを港北副所長に奪われてしまっていたということですね」
「ええ、そのようです。何でも落合室長は名門W大学理工学部の修士課程終了後直ぐにこの研究所に入ったそうですが、入所以降ずっとここにいて、海外での研究経験すらないらしいんです。もともと研究熱心な人だったみたいですから、本来なら自分をトップネームにして沢山の論文を書くことができたはずですよ。落合室長はまだ博士号を持ってないんです。この世界ではこのことは致命的とも言えるんですよ。博士号取得のために動いたことはあったみたいですが、トップネームで書いた論文の数が足りずに目的を達成することができなかったそうです」
「それでは、落合室長は港北副所長のことを相当恨んでいたんじゃありませんか?」
「本当に港北副所長のやることは酷いと思うんですよね。だから恨んでなかったと言えば嘘になるんでしょうけど、落合室長は人間ができているというか、人格者なんですよ。我々から見れば、落合室長は『献身的に仕事をするのは当然で、そしてその結果が全て港北副所長のものとされてしまっても仕方がない』、そんなふうに考えているように思えますね。ただ、我々若い研究者には『自分を大切にしなさい』ってよく言ってくれてます。そして、研究室の若手がやった成果は、港北副所長の業績ではなく、実際に実験を行った人の業績になるようにと随分頑張ってくれていました。それでも、結局大半は港北副所長のものになってしまって悩んでいる落合室長を、私がここに配属になってからの一年間だけでも何度か見てますよ。我々部下のことなのに、そこまで苦しんでいる落合室長を見るのは結構辛いですよ」
「そうですか、そんなにいい方なんですか、落合室長は。ところで、話は変わりますが、フグ料理やタラバガニの酢の物について何か変わったことはなかったのですか?」
「さあ、何かあったかな。ええーと、特に気が付いたことはなかったと思うけど……」
洋介が次の質問を捜している様子を見逃さずに鹿子木が質問した。
「港北副所長とT大学理学部の露木教授とは相当仲が悪かったようですね」
「そうですね」
「送別会が行われた日にもお二人は喫茶店で会われていたそうではありませんか。田丸さんもご存知だったんでしょう?」
「ええ、知ってましたよ」
「港北副所長は随分とご立腹だったようですね」
「まあ、いつものことですよ。あの二人が話をすればほぼ間違いなく喧嘩別れみたいになってましたね」
「どうしてそうなるんですか?」
「お互いに主張している仮説が相容れないのだから仕方ないですよ」
「憎みあっていた訳ですか?」
「一応、学問上の対立だからね。普通の喧嘩みたいにはならないけど、あの二人のキャラクターでは相手のことが憎くなってもおかしくないね」
「ほう、そうですか。港北副所長ばかりでなく、露木教授も強い個性の持ち主だったんですか?」
「露木先生は港北副所長より二つ年下なんですけど、イケメンっていうか、ルックスも良くて服装のセンスもかなりのものです。その上、声や話し方も甘い感じなんで、女性にすごくモテるんですよ。港北副所長とは対照的ですね。しかし、我々から見ると気障っぽいので、男にはあまり人気はないと思いますけど。露木先生は表面的には軽い感じがするけど、研究のこととなると非常にこだわるんです。自分の考え方と異なる見解の持ち主とはとことん争うタイプですよ、あの先生は。だから、相反する仮説の提唱者である港北副所長に対しては、それはもう常に臨戦態勢でしたね」
「送別会の日もそうだったんですか?」
「多分、そうだったんでしょう。だけど、私は幹事だったんで、会場の出入り口に近いところにいたんでね、港北副所長が大きな声で何か言ってたみたいですけど、内容はよく聞こえませんでした」
「そうですか。例えばですよ、あくまでも仮定の話ですが、もし対立しているどちらかが亡くなると、片方にとっては非常に都合がいいことになりますよね」
「まあその時はそうなるんでしょうね。少なくとも相手の研究内容や結果を気にしないで自説に沿った研究に没頭できますからね」
「成る程。露木教授が港北副所長と別れてからどうされたかはご存知ないのでしょうね?」
「私はあの日、露木教授には会ってませんから、全く知りません」
「そうですか……」
鹿子木の質問が途切れたところで洋介が再び訊いた。
「ところで、田丸さんはどんな趣味をお持ちなんですか?」
「大学ではテニス同好会に所属していましてね。つくばに来てからも機会があればテニスのお付き合いくらいはしています」
「それではテニスクラブに入ってやられているのですね」
「いえいえ。ガンガン練習するのはどうも性に合わないのでクラブには入っていません。この研究所の若い人たちが中心となってテニスの同好会みたいなものを作っているんですよ。誰かが公営のテニスコートを予約できた時に集まって一緒に楽しむ程度です」
「それでは、海釣りなどはされないんですか?」
「小さい頃から釣りはほとんどやったことはないですね」
「そうですか、どうも有り難うございました」
二人から礼を言われ、田丸は少し上気したような顔で会議室から出ていった。
四番目に土井孝雄が呼ばれた。上背があり、筋肉質のいわゆるスポーツマンタイプの体型をしていた。アメリカ留学していたそうで、服装はざっくりとした半袖のシャツにジーパンスタイルで入ってきた。自信満々な印象を与え、低くて粘りのある声でやや相手を見下しているのではないかと思わせるような喋り方をした。学生時代はアメフト部に入っていて、今でもクラブチームに属して練習に参加していると言っていた。
その次に現れた谷田克之は中肉中背の温厚な感じがする人で、訛りが抜けずややゆったりとした話し方をした。趣味は渓流釣りをするくらいで、休日は基本的にはゴロゴロしていると言っていた。物事に強いこだわりを持たず無理して流れに逆らうことはしないように見受けられた。
土井や谷田を含めその後に面会した他の研究室員たちからは、港北の中毒死に関連しそうな事柄に関して落合や田丸の答え以上の収穫を得ることはできなかった。鹿子木は露木教授のことで頭が一杯になってしまった様子で、田丸以降の話にはほとんど上の空となっていた。出勤していたM研究室のメンバー全員との話が終わったのは午後五時少し前であった。秘書室の酒匂にお礼を述べ、洋介に声を掛けると、鹿子木は小走りで自分の車に戻り、あっという間に走り去ってしまった。