五.研究ストレス
「田島さん、ずいぶんいい形になってきましたね」
洋介が昨年ここの会員になった田島幸夫に声をかけた。田島は陶磁器作成室の轆轤を使って茶碗を作っていた。茶碗の底を台から切り離すと、質問に答えた。
「いやあ、なかなか自分の考えているような形にはならないんですよ。陶芸も難しいものですね」
「最近田島さんは随分と熱心にやっておられますね」
「そうなんですよ。最近ストレスが一段と強くなってきたものですから。粘土を触っていると本当にスッキリするというか、解放されるような気がするんです」
「ストレスが強くなったというのはいけませんね。一体どうしたんですか?」
「私は化学会社の研究所に勤務しているんです。そこで新しい化学物質をいろいろと合成しています。最近新しい研究プロジェクトが発足しましてね、私もそのプロジェクトの一員に選ばれたんです」
「ほう、そりゃ素晴らしいことじゃありませんか」
「まあ、確かにやりがいのある研究プロジェクトなんですが、なかなか難しいんです。神尾さんもご存知でしょう? どこにでもペタっとくっつき、簡単に剥がすことができる便利なメモ用紙。あれって、始めからあのような製品を目指して開発されたんじゃなくて、当初の目的とは異なった性質の化学物質ができてしまったんだそうです。その性質を何かに使えないかいろいろ考えてあんな大ヒット商品ができたということらしいんです。そこで、うちの会社では、これを戦略的な方法として捉え、先ず、様々な性質を持つ化学物質を沢山合成し、その後で、それらの化合物の特性をよく分析して、何か画期的な商品に仕上げようという計画です。私が受け持っているのは、第一段階のいろいろな化合物を合成する部分なんです」
「なるほど。探しているものとは別の価値あるものを見つける能力や才能のこと、何て言いましたっけ……。そうそう、セレンディピティーって言いましたよね。これを計画的というか、始めから狙ってやろうということですね」
「そうなんです。しかしですよ、こういう性質を持った化合物を合成しろって言われて合成するのであれば、目標がはっきりしていて研究もやり易いんですが、ただ異なった性質を持つものをできるだけ多く合成しろって言われても、何を目標にしたらいいのかよく分からずにやる訳で、本当に難しいんです」
「確かにその通りでしょうね」
「私たちの研究リーダーからは、毎週一つ以上のコンセプトを設定して、それを合成するように言われているんです。最初のうちはアイデアがいくつも湧いてきて、とても楽しかったんですが、五十種類くらい作ってしまうと、違うコンセプトを考え出すのはだんだん難しくなってきたんです。それで、ここに顔を出す機会が増えたという訳です」
「うーん、それは誰がやってもそうなるでしょうね。でもね、それは正当な研究上の課題というか、まともなストレスだと思いますね。研究とは本来そういう状況の中でしか進展していかないと私は思います。まだ誰も見つけてないことを発見したり、組み立てたりしていく訳ですからね。問題になるのは成果の取り扱い方だと考えているんですが、そっちはどうなのですか? つまり、もし田島さんが大変良い化合物を合成したとしますよね。その成果は田島さんのものとして評価されるんですか?」
「そうですね、研究はチームでやっている訳ですから、基本的にはチームや研究リーダーが評価されることになるんでしょうが、私個人が大きく貢献した事実があれば、私も評価されることになると思います」
「それでは、田島さんが大きく貢献した研究がその後うまく進んで、その成果を科学雑誌に発表することができるようになったとしますね。その時のトップネームは田島さんの名前にすることができるんですか?」
「私が勤めているのは企業ですから、先ず特許を申請しなければなりません。それまでは世の中に発表することはできないと思いますが、特許が公開されればかなり自由に発表できるようです。周りの人たちの様子を見ていると、多分私の名前をトップネームにして発表できると思います」
「田島さん、あなたの会社の研究風土はなかなか良いではありませんか。このクラブに来られている方々のお話を伺っていると、あなたの会社のようにならない所も随分と多いようですよ。つまり、ある研究者がどんなに研究で貢献しても、成果は研究リーダーや上の人たちのものになってしまい、科学雑誌にもトップネームでは発表できない状況の所が結構あるんです。ですから、田島さんは研究上のいい意味でのプレッシャーの中におられると考えた方が良いと思いますね」
「へー、他の研究所の中には随分と酷い状況のところもあるんですね」
「そうですよ。田島さんは正面から研究のプレッシャーを感じて、思いっきりチャレンジしてください。そして、研究に疲れたら是非ここに来て、あなたの好きな陶器をいくつでも作ってください。きっと良い結果が出ますよ」
「そうですね。何だか元気が出てきた感じがします。ここの会員の人たちから何度も神尾さんに話を聞いてもらった方がいいって、アドバイスされていたんですが、本当でした。どうも有り難うございました」
洋介が陶磁器作成室を後にするのを見送ってから、田島はさっきよりも楽しそうに粘土をこね始めた。
「どこの研究所も田島さんのところのように、実際に成果を生み出した研究者が栄誉に浴するようなシステムや風土になっていれば、もっと良い研究成果が出て来るのではないのかなー」
洋介は独り言を言いながら廊下を自分の部屋に向けてゆっくりと歩いた。左手の窓の向こうには、星空をバックに真っ暗な筑波山の輪郭がうっすらと浮かび上がっているのが見えた。人間を飲み込んでしまいかねない不気味さが漂う暗黒は、今回の事件がまだ食中毒なのか殺人なのか判断できない状況にあって、事件としては始まったばかりではあるものの、これから先の展開が混沌としていくことを暗示しているかのように洋介には感じられた。
流石の洋介でも鹿子木から相談されている事件が解決できないかも知れない、などと弱気になることも時にはある。そんな精神状態になった時は好きなワインでも飲んでぐっすりと眠るに限る。この夜は、この上なく狭い部屋で地元つくば産のソーセージを摘まみに、あまり高価ではないものの葡萄の豊作年のヴィンテージに惹かれて購入しておいたカベルネ・ソーヴィニオン種の赤ワインの濃厚な味と香りを楽しんでいるうちに一瓶空けてしまい、いつの間にか高いびきをかいて眠っていた。