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三.設立の背景

 一段落つくのを見計らったように、愛が洋介用のマグカップとお客様用のコーヒーカップとをお盆の上に乗せ、二人の所に運んできた。

「はい、鹿子木さんの好きな濃いめのコーヒー、どうぞ」

 喋り方はまだやや甘えた感じが残っている。

「やあ、愛ちゃん。いつも悪いね。私の好みを覚えていてくれてどうも有り難う。だけどね、今日のはちょっと濃過ぎるんじゃないかなあ」

「だって、今日の鹿子木さんはいつもよりお疲れみたいなのですもの。これを飲んで元気になって頂きたくて」

「あはは、鹿子木さん、一本やられましたね」

 愛がにこにこ笑ったまま部屋を出ていくのを見送ってから鹿子木は洋介に弁明した。

「いやー、ここのところ、いくつか事件が重なっちゃっているんですよ。いつも捜査のことが頭から離れないのでずっと寝不足なんです。ところで、神尾さん。愛ちゃんて、ここの従業員になったんですか?」

「従業員だなんて、とんでもない。彼女は今つくば市内の女子大に通っていて、今日は午後の講義が終わった後でここに来てくれている花の女子大生ですよ。言ってみれば、ボランティア精神で手伝ってくれているんです。鹿子木さんみたいな気難しい人を明るくするためにね」

「そりゃ酷いですよ。私は本当は気難しくなんかない人間なんです。事件が起こると、それが頭から離れなくなってしまうだけなんですよ」

「あははは、よく分かっていますよ」


 鹿子木は恥ずかしそうに頭を掻きながら笑顔に戻るとまた質問した。

「愛ちゃんはどういう経緯でこのクラブに来て手伝ってくれるようになったんですか?」

「愛ちゃんは、ここの管理人をしている小野村源三郎さんの上のほうのお兄さんの孫娘なんです。高校生になって直ぐに源さんに連れられて、できたばかりの頃のホビークラブによく出入りしていたんですけどね。そのうち一人でも遊びに来るようになって、いつの間にか自分からいろいろなことを手伝ってくれるようになったんです。気配りができて明るくてしっかりしているので、皆さんから可愛がられるようになったという訳です」

「そうだったんですか。しかし、愛ちゃんみたいな女性がこのクラブにいてくれると本当に心が癒される感じがしますね。でも、愛ちゃんはこんな所に来る以外に好きなことがないんですかね」

「こんな所で、悪かったですね」

「いや、済みません。若い女性にとって、ここはそれほどポピュラーな場所ではないと思いますんでね」

「まあ、確かにその通りではありますね。もちろん愛ちゃんも他に素敵な趣味を持っていますよ。彼女は運動のほうはあまり得意ではないようですが、文科系の趣味はなかなかです。特に絵が好きで、自分で描いたり美術館巡りをしたりしているという話です。読書室に掛けてある可愛い花の絵は愛ちゃん作なんですよ」

「へぇー、そうなんですか。今度ゆっくりと鑑賞させて頂くことにしましょう。それからもう一つ。前から訊こうと思っていたんですけど、神尾さんはどうしてこんな風変わりなクラブをやろうなんて思い立ったんですか? 金儲けの為なら、今流行りのアスレチッククラブか何かをやった方がいいんじゃないですか?」

「困ったなあ、そんな真面目な話。そのうちご説明しますよ」

「いつもそう言って誤魔化すんだから。今日こそ本当のことを教えてくださいよ。こう見えても私はここの正会員なんですからね」

「あっ、そうでしたね。鹿子木様はここの大切な正会員様でしたね。あまり会員らしいことをなさらないので、会員様であることを忘れておりました」

「そんな嫌みな言い方をしないで、教えてくださいよ」

「分りました。それじゃ、真面目に聴いてくださいね」


 洋介は鹿子木の目が真剣であることを確認してから口を開いた。

「私も以前はこの街にある研究所に勤務していたんです。大学の修士課程を修了してそこに就職したんですが、配属された研究室の室長は世界的にも著名な研究者だったんです。まさに研究競争の真っ直中にある人という感じでした。多分亡くなった港北さんと同じ範疇に入る人だったんだろうと思います。

 研究者っていうのは、自分の研究内容が少なくともある部分では世界で一番でなければ有名な科学雑誌に投稿することすらできないのです。だから、一流の研究者であり続けるためには、研究上の競争相手と常に戦い続けることになる訳で、そのプレッシャーは非常に大きなものなんです。研究は普通一人だけで行うことは少なくて、リーダーを頂点とする一種のピラミッドを形成して遂行されます。このピラミッドの底辺に位置する若手研究者はリーダーの下働きをせざるを得ないことが多いんです。もちろん、リーダーの人間性によるところが大きいのですが……。リーダーは常にプレッシャーを感じながら研究を進めているために、自分の研究を下位の研究者に強要することが多くなりがちなんですね。しかも、下位の研究者の成果をほとんど全て吸い上げ、自分の名前をトップネームにして科学雑誌に投稿するのが当たり前と考えている人も中にはいるんです」


「科学雑誌に論文を出すことやトップネームで投稿することって、そんなに重要なことなんですか?」

「研究者の評価は、良い内容の論文をどれだけ多く一流の科学雑誌に掲載できたかで決まると言ってもよい程、論文の投稿は重要なことなんです。論文の著者欄にトップネームで記載されている研究者が中心となってその研究を遂行したと理解されます。だから、非常に重要なことなんです」

「なるほどね」

「ある研究者が自分の研究をまとめた論文をある科学雑誌に投稿したとしますよね。それがその雑誌から委任されている審査員によって審査され、パスするとその雑誌に掲載することが許されることになります」

「へー、論文を出すのって結構難しいんですね。審査員が不合格と判断したらどうなるんですか?」

「その雑誌には掲載されません。投稿した研究者にその旨が伝えられます。格式の高いというか、評価の高い雑誌ほど審査が厳しくて掲載されるのが難しくなります。ですから、一流の科学雑誌に論文が掲載されることは研究者にとってかなりの喜びになるんです」

「そうなんですか」


「鹿子木さん、引用論文ってご存知ですか?」

「えっ、いんよう?」

「ご存じないようですね。例えばですよ、鹿子木さんが一流の科学雑誌にご自分がトップネームの論文を投稿し、見事にその雑誌に掲載されたとします」

 鹿子木は自分では想像も付かない例えに苦笑いをしながら手を左右に数回振った。

「あくまでも『例えば』の話ですから、そんな変な顔をしないで聞いてくださいよ。それで、その鹿子木さんの論文が非常に画期的な内容で、同じ分野の研究者たちが大いに関心を示し、その後に投稿する彼らの論文に鹿子木さんの論文を引き合いに出したとします。たいていの場合は、このように引き合いに出された論文のタイトル、著者名、雑誌名、発行年、巻、ページなどを、論文の最後に引用文献として箇条書きにするのです。この時、紙面の都合で著者名についてはトップネームの著者だけを記載して二番目以降の人たちは『その他』と書いて氏名が省略されることも時々あります。

 それから、鹿子木さんの論文内容が素晴らしければ素晴らしいほど多くの論文に引用されることになりますよね。そこで、このように他の論文に引用された回数をカウントして、その論文の評価に使う人たちも出てきているのです。この手法を使えば、論文の価値だけでなく、研究者個人や研究者が属している研究機関、さらには掲載している雑誌の評価に使うこともできます。もちろん、この方法を批判する人はいますが、結構説得力がある感じがしますので、研究者の中にはこれを気にしている人もかなりいるようです」

「そうですか。よく理解できましたよ、研究者たちがトップネームで論文を書きたがることが」


「私も入所後一年間は、研究室が世界で認知されていたので、自分の研究が世界の最前線に位置しているという自覚がありましてね、疑問を抱くことなんてなかったんです。しかしですね、二年目になると、私より数年前に入所して同じ研究室に配属になった先輩研究者たちの愚痴を、川向こうの火事とは考えられなくなってきたんです。彼らは本当に自分の全てを賭けて研究に打ち込むのです。とにかく、まだ誰も見つけてないことを発見したり、誰も考え付いたことのないことを提唱したりしようとしている訳なので、そのくらいの努力をしなければ到達できない世界なのだと思います。そんな努力の結果として手に入れた新たな発見や新たな理論を、その人の上位の立場にある研究者の成果として世の中に発表されたのでは堪ったものではないことはお分りになると思います」

 鹿子木はなるほどという顔をして肯いてみせた。

「次第にこんな酷いことをする一部の著名な研究者たちの人間性の汚い部分ばかりが目に付くようになってしまいました。そうすると研究そのものへの情熱が冷めていき、純粋な考えを持っているばかりに傷ついてゆく若い研究者たちの心を何とか癒せないか、という考えが大きく広がり出した訳なんです。そして、とうとう入所三年後にその研究所を退職しました。大きな理由は今お話したことなのですが、ちょうどそのタイミングでプライベートでもショックなことが起こりましたので、思い切って自分を変えてみたくなったのです。そんな訳で、下積みで苦悩している研究者の心を癒すことを目的としてここを設立しました。幸い、父の友人が広い土地を持っておられましてね。父がその方に話をしてくれてその一部を借りることができました。それで筑波ホビークラブができたっていう訳なんです。その方は小野村壮一郎さんといって、あの愛ちゃんのお爺様です」

「ふーん、そういう深い理由があったんですか。しかし、何ですね、研究者って聞かされると、頭もずば抜けて良くて人格的にも好ましい感じがしていたんですが、随分とドロドロとした部分もあるんですね」

「そうですね。研究者の世界も所詮人間が構成する社会です。その底に横たわるものは、結局どんな社会でも似たようなものなんでしょうね」

「なんだか、自信が湧いてきました。今まで掴み所のない感じのしていた研究者の世界も、いつも私が接している人間臭い社会とそんなに変わらないことがよく分かったような気分になれました。どうも有り難うございました。ところで、神尾さんのプライベートでのショックな出来事って、いったい何があったのですか?」

「まあ、そのことはあくまでも私の個人的なことですから、今日はご勘弁ください。」

「そうですよね。余計なことまで興味を持ってしまって、申し訳ありませんでした。」


 鹿子木は心からお礼を言い、さっき要請された捜査をしっかりと行うことを約束して、来たときよりはずっと明るい表情で受付を出た。ふと目をやると、ホビークラブの廊下のところどころに置かれている木製のベンチが見えた。洋介が快く自分の申し出を了解してくれたので少しほっとした鹿子木はベンチまで歩いて行き、ゆったりと座った。どのベンチも窓の方を向いて座れるように置かれていて、そこから見える双峰筑波山の眺めは素晴らしかった。ほんのひと時ではあったが緩やかな時間の流れを感じた後で鹿子木は帰っていった。


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