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二.筑波ホビークラブ

 鹿子木康雄は迷っていた。一つのことが頭に浮かんだら、もうそれから逃れることができない性格である。駐車場の方向にゆっくりと歩き、自分の車の脇に辿り着いてからも周りをうろついていたが、ようやく車のドアを開け骨太のがっしりとした体を丸めるようにして運転席に座った。少しの間そのまま太い黒縁の眼鏡の奥にある目を閉じて動かなかった。「やっぱり行くか」

そう呟くとエンジンをかけた。一度決まれば後は早い。


 車は東大通ひがしおおどおりを北に進み、国道百二十五号線にぶつかると右折して桜川を越え、内町下の交差点を曲がらずにそのまま直進した。間もなく二〇一二年五月六日に発生した竜巻により大きな被害に遭った地区に差し掛かった。酷い被害に遭ったものの、多くの人たちの尽力で復興されつつあり、道路には以前はなかった中央の白線が引かれていた。交差点の北西の角に『これよりつくば道』と刻まれた石の道標が建てられている北条仲町の信号で左折した。『日本の道百選』の一つである『つくば道』の道幅はかなり狭く、対向車とすれ違う時は徐行しなければならない。くねくねと坂を上った後は道が若干下り坂となった。視界はまだ広くなかった。

「もう少しだな」

 少し先の三叉路を右に曲がって真っ直ぐな道に入り、今まで邪魔していた右手の小さな山が切れると急に視界が広くなった。突然大きな緑色の塊が頭の上から襲いかかり、あっと言う間に鹿子木を包み込んだ。

 目の前に大きく姿を現した筑波山は、まだ四月中旬なので新たな息吹を感じさせる木々の新芽は麓の少し上あたりで留まっていた。中腹には山桜の白っぽい花が点在しているのが見えたが、山頂に近づくにつれ、白茶けたように見える木肌と、冬をじっと耐えてきた濃い緑の葉とが次の変化を待っていた。ゴールデンウイークの頃になれば、山全体が若い生命の清々しさと柔らかな勢いとを感じさせてくれる萌黄色になってくるので、筑波山に抱かれるような心地よさは更に増す。遠くから眺めるこの山はそれ程大きくは見えないが、この場所からはその存在感を認めざるを得ない程の迫力を感じさせる。この道を通らなくても目的地に行くことはできるが、鹿子木はこの瞬間的な変化を求めて好んでここを通っている。


 目的地である筑波ホビークラブは鹿子木のお好みのポイントからほど近くにある。つくば市の木に選定されている大きなケヤキを数本のソメイヨシノが取り巻き、その手前に駐車場から続く歩道が玄関まで延びている。歩道の西側にはアベリアが、東側にはサツキが植えられ、さらにその先は、東西に細長い造りになっている建物に沿って、いつも季節の花が植えられ、訪れる人を楽しませてくれている。この時期は、西側には華やかな色彩のチューリップが、東側にはベゴニアが咲いていた。かすかに砂利の擦れる音をさせて車を止めると、乗る時とは打って変わってかなりの早足で歩いた。


 西側にある男体山とそれより六メートル高い東側の女体山とから成る筑波山は、南麓に位置する神郡かんごおり地区から見るのが一番美しいと筑波ホビークラブの設立者である神尾洋介は思っていて、その地区の一角に細長い平屋建ての校舎のような佇まいでクラブハウスが建てられている。

 神郡は古代から筑波国の政治文化の中心地であり、この一帯が筑波神領だったことからこの地名が付けられたと言われている。もともと農業中心の集落であったが、筑波山への参詣が盛んになるにつれて参道沿いに店が出されるようになったようだ。今でも神郡ではつくば道の両側に土蔵造りの商家があって昔の雰囲気が感じられる。


 このクラブの設立目的は、上から要求される種々の研究上のノルマや人間関係によって酷いストレスに苛まれる研究者たちの心を癒すことにあり、近年つくば市周辺にもいくつか設立されてきたアスレチッククラブとは相当趣を異にしている。アスレチッククラブは体力の維持向上を主目的とし、種々の運動を行うことを通して心のリフレッシュ効果をも狙っている。洋介は心をリフレッシュさせるには運動することも確かに良いが、自分の一番好きなことを周囲に気兼ねすることなく集中して行うことも良いのではないかと考えてこんな風変わりなクラブを創設した。従って、美しい筑波山を間近に見ることができるこの地は最適の場所だと判断したのであった。


 建物は玄関と受付とを中央に挟んだ東西のウイングから構成されている。西ウイングは音の出るウイングと呼ばれ、二つの自由趣味室、陶磁器作成室、木材および金属の工作室から成っている。東ウイングは静かなウイングと呼ばれ、自由趣味室、ヘッドフォーンで聞くようになっている音楽鑑賞室と作曲室、文章作成室および読書室が連なっている。音の出るウイングではアップテンポの騒々しい曲が、静かなウイングでは作業の邪魔にならないようなスローな曲がBGMとして流れている。また、全ての作業部屋からは南側の庭と北側の筑波山とを見ることができるように設計されている。

 ここでは、会員たちがそれぞれ思い思いの趣味をゆったりと楽しめるような雰囲気が漂っていて、時間は正確な刻みを小休止させたかのように、心の開放を求めてここに来ている人たちの邪魔をしないでいてくれる。


 洋介は入会したばかりの会員にクラブの中を案内した後、受付に戻り、初々しさ香る小野村愛と話していた。

「洋介さんて、学生時代からテニスをされていたのですか?」

「いや、違います。学生の時からやっていればもっとずっと上手くなっていますよ」

「それじゃ、何をされていたのですか?」

「小学生の頃のミニから大学四年までずっとバスケットボールをしていたんです。テニスを始めたのはつくばの研究所に就職してからです。もっとも、バスケットをやらなくなってからもう十年近くになるから、ずいぶんと下手になっていると思いますけどね」

「ふーん、そうなのですか。それで背が高くて足も長くてすらっとしているのですね」

「愛ちゃん。私は身長が百七十八センチ、体重は六十八キロしかないんです。バスケットの選手としては小さい方ですよ」

「ええっ、洋介さんでも小さいのですか?」

「そうですよ。チームメイトには身長が百九十五センチある人もいました。最近はちょっとしたチームなら百九十センチ前後の身長の人が結構いるんです」

「うわっ、そんなに皆さん大きいのですか!」

 愛が思った以上に驚いたのを見て、洋介は楽しそうに大声で笑った。普段は頭脳明晰な雰囲気を漂わせているのに、笑うと人の良さを露呈するような無警戒な顔になる。

「いやだ、洋介さんたら。そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」

 愛は半分笑顔で口を尖らせて抗議した。

「ご免、ご免。愛ちゃんがあんまり驚いたので」

「ところで、鹿子木さんは最近ここに来られてないですね。あの人、刑事さんなのでしょう?」

「ええ、そうですよ。つくば東警察署の刑事さんです」

「あの人、随分とがっしりしていますよね」

「鹿子木さんは何かの格闘技がすごく強いんだそうですよ。もう四十代半ばなのにまだ全国レベルの大会の常連さんだっていう話です」

「そうなのですか。そんなに強いのですか……。でもここに来られる時は何だか頼りなさそうな感じがしますね」

「それは、きっと困った時にしかここに来ないからでしょう」

「うふふ、そうかも。それに服装のセンスもイマイチって感じですものね。濃い青のワイシャツの上に、汚くはないのですけど型崩れした青のチェックのブレザーをいつも着て、濃紺のズボンを穿いて来られますね。一応赤系統のネクタイをされていますけど、全体としては何か統一感がないように見えますわ」

「愛ちゃんは可愛くてスタイルがいいし、服装のセンスもなかなかいいですものね。その上、愛想が良くて気が利く娘さんなんだから、鹿子木さんではとても敵いませんよ。だけど、そんなことを言っていると鹿子木さんが突然この部屋に入ってきて怒り出すかも知れませんよ。あれっ、本当に鹿子木さんが来た」

「嘘でしょう?」

 そう言って愛が振り返ると、鹿子木が木造の玄関から中に入って来るところだった。話題の人が受付の中に入ると二人は話を止め、愛は微笑みながら挨拶して出て行った。


 最初の建設計画が激しい地元住民の反対にあったため、できるだけ人家や田畑のない赤松林を中心に、南北に細長く開発されてきた筑波研究学園都市には、一九六八年頃から徐々に各省庁の研究機関の移転が行われ、一九八〇年に六省庁四十三機関の移転が終了したとされている。一九八五年には『国際科学技術博覧会』、通称『つくば科学万博』が開催され、その前後から民間企業の研究所も筑波に移転してきたり、中心部の商業施設も整ってきたりして、約三〇〇に及ぶ国や企業の研究機関を擁する筑波研究学園都市が形成された。ここには優秀とされる研究者が約二万人も勤務していると言われている。

 このような特殊な環境にあるつくば市では科学的な知識が必要な事件が起こることもある。自分が担当している事件の捜査で科学的に不明なことがあると、鹿子木は直ぐに筑波ホビークラブに来て洋介にあれこれ質問し、自分なりに納得すると安心して帰っていく。洋介のコメントがヒントになって何回か事件を解決できたことから、捜査が難しくなるとここにやってくるようになっていた。


「何だか、お邪魔してしまったようですね」

「やあ鹿子木さん、いらっしゃい。お久しぶりですね。その様子だと、また何か難しい事件でも起きたようですね」

「そうなんです。実はですね、半月程前につくば市内でフグの中毒事件がありましてね。一人亡くなったんですよ」

「ああ、その件だったら知っていますよ。新聞の茨城版に出ていたから」

「そりゃ、いい。話が早い」

「でも、あの事件だったら、過失のあった料理人が逮捕されたんでしょう?」

「いやっ、逮捕ではありませんよ。参考人として来てもらって事情聴取しただけなんです。しかしですね、初沢っていう店主が毒の入ったものを客に食べさせるなんてことは絶対してないって言い張っているんです。

 茨城県ではフグの調理師試験は実施していないのですが、県が食品衛生協会に委託して開いている講習会で取得が可能となるフグ取扱者の資格があって、それで規制しています。この資格には、講習会を終了すれば得られる一種と、二年以上フグを取扱い、フグの鑑別、処理等の知識や技術が認定された二種とがあります。初沢はこの二種の資格を持っていてプライドが高く、客に毒の入った料理なんかを出すなんてとんでもないことだと言うんです。すごい剣幕で怒っていて、こちらの質問にも満足な返事をしてくれなくなってしまいました。

 そんな状況なので、料理人の過失ではない可能性も完全に否定はできないのです。それと、死んだのが港北ただ一人で、他の人は全く何ともなかったというのも私には腑に落ちないのです」

「なるほどね。それで、警察の他の皆さんはどうお考えなんですか?」

「最初は単純な食中毒事件だと思っていたんですがね。そうでないかもしれないという意見も出てきて、困っているんですよ。食中毒なのかそうでないのか、それによって捜査の仕方が全く違うので、どう対処したらいいのか見当が付かないのです。署であれこれ考えていても埒が明きません。それでここに来てしまったという訳なんです。私一人で考えていてももういい考えなんて見つかりそうもないから、神尾さん、一緒に考えていただけないでしょうか?」

「分りました。それでは、事件について詳しく教えてくれませんか?」

 洋介は嬉しそうに鹿子木を促した。


「これまでの捜査で分かっていることをまとめると、大体こんなことになるんです。

 亡くなったS研究所の港北忠夫、五十歳は昨年の四月に副所長に昇進したのですが、その前はM研究室の室長だったんだそうです。そこの研究員であった谷村明、三十歳がつくば市内にあるX株式会社の研究所に転職することになって、M研究室全員の十五名と前の室長だった港北とで市内のフグ料理専門店『FUGU』で送別会をやったんです」

「そうですか。S研究所ではそのフグのお店を宴会などでよく使っていたのですか?」

「特別贔屓にしていたということではないようですが、何回かは宴会で使ったことがあるようです。今回は港北が『フグ料理がいい』と言ったことからあの店にしたらしいんです。彼はなかなか気難しくて、この手の飲み会には気が向いた時しか参加しなかったようですが、今回はどういう訳か参加するって言い出して、幹事を務めた田丸徹という若い研究員が随分と気を使ったようです。送別会を行う店は港北の意向に従おうということで、新室長になった落合一郎、彼は港北のお気に入りだったらしいのですが、この落合が港北の希望を訊いて、あのフグ料理専門店になったということです」


「そうなんですか。港北さんは相当威厳のあった人だったんですね」

「威厳があったというか、とにかく、周囲の人たちは恐れていたようです」

「恐れていた? どう恐れていたんですか?」

「私にはよく分らないんですが、港北という人は彼の専門であるバイオテクノロジーの分野では世界的にも有名な研究者だったらしいのです。最近は周囲の人たちから『世界の港北』と言われていたようです。ただし、半分は皮肉が入っていたようですが……。若い頃は自分でも夜を日に接いで研究をしていて大変な努力家だったそうですが、最近は部下にも同じようにすることを強要していたようです。そればかりか、部下の手による成果も自分の名前を一番先に書いて研究の専門雑誌に発表していたようです」

「ああ、分ります。いわゆる『トップネームで科学雑誌に投稿する』というやつですね」

 洋介はほんの少しの間、遠くを見つめるような目をしていたが、直ぐに我に返って質問した。


「なるほどね。私には港北さんの人物像が何となく想像できるような気がします。それで、宴会のほうはどんな具合だったんですか?」

「流石にフグ料理専門店だけのことはあって、刺身から雑炊まで各種のフグ料理が並んだようです」

 鹿子木は手帳を取り出し、ページをめくってから読み上げた。

「先ず、お通しと前菜が出て、続いてメインのふぐ刺し、それからフグちり、フグ白子、それに焼き物。料理の最後はフグ雑炊でした。もちろん、香物とデザートも付いていたそうです。もっとも私なんかフグ料理なんていう高級料理はまともに食ったことがないんで、名前を聞いても直ぐには料理が思い浮かびませんけどね」

「フグ尽くしですか。美味しそうだなあ……。それで、港北さんはどんな様子だったんですか?」

「港北を初め、出席していた人たちの食欲は旺盛だったようで、ほとんどの料理は平らげられていたんです。送別会は午後六時半から始まったとのことですが、そろそろお開きにしようかという雰囲気が出てきた九時頃急に港北が倒れたようです」


「その後、港北さんは救急指定病院に担ぎ込まれたという訳ですね。港北さんの死因は特定できたのですか?」

「ええ。港北が倒れた時の状況は、送別会で隣に座っていた落合室長がよく覚えていてくれましてね。典型的なフグの中毒症状だったと判断されています。担ぎ込まれた病院では、フグ料理専門店での宴会で倒れたことと、付き添ってきた谷村の話からフグ中毒と判断し、即座に催吐と人工呼吸を行ったようです。フグ毒による死因は呼吸麻痺なのだそうで、いかに早くこの両方の処置を行うかが重要なのだそうです。しかし、病院での必死の努力にも拘わらず港北は亡くなってしまいました。医師は摂取したフグ毒の量がかなりのものであったため助けることができなかったと考えています。この段階でうまく回復させることができれば後遺症は残らないそうなので、医師たちは残念がっていました」


「嘔吐物からはフグ毒が検出されたのですか?」

「はい。事件性があるかも知れない状況だと判断した救急隊員から連絡を受けたうちの署員がフグ料理専門店に駆けつけ現状保存しましたので、港北の吐いた物は残されていました。もちろん、病院でも催吐させたものを保存していてくれました。それらを鑑識で鑑定したところ、双方からフグ毒が検出されました」

「なるほど、フグ中毒に間違いなさそうですね。ところで、宴会で残ったフグ料理は無かったんですか?」

「料理はほとんど食べられてしまっていたんですが、ほんの少しだけ残っていたフグがありましてね。もちろん、身の部分でしたけど。当然のことながら、残った身の部分は鑑識でフグ毒の鑑定を行いました。しかし、フグ毒成分の名前、何て言いましたっけ?」 

「テトロドトキシンですよ」

「ああ、それそれ。そのテトロドトキシンは全く検出されなかったんです」

「えっ、じゃあ、どうして料理人を疑っているんですか?」

「恐らく、毒が付着していたのは港北に出されたものだけだったと考えているんです。港北は自分に出されたフグを全部食べてしまったし、宴会場に残っていたフグは港北以外の人に出されたものだったので、毒が検出できなかったと解釈しています」

「それでは、出された料理にフグ毒が含まれていたという証拠は全くない訳ですね」

「まあ、そういうことになりますかね。しかし、フグ料理店の送別会でフグ中毒で人が亡くなった訳なので、出されたフグ料理で中毒したとしか考えようがないというのが、これまでの警察の一応の見解なんです。」


「送別会だった訳だから、当然お酒やジュースも出されていたんでしょう?」

「もちろんですよ。ビールや冷酒、焼酎、ワイン、ウーロン茶、ジュースなど瓶に入っていたものは未開栓のものを冷蔵庫で冷やしておいてそのままテーブルに出したそうです。お酒で燗をするものは新しい日本酒の瓶を店のほうで開け、適温にして出したそうです。残っていたこれらの飲み物も調べましたが、毒物が含まれていたものは一つもありませんでした」

「それから、港北さんが最後に口にしたものは何だったのですか?」

「淡雪寒という上品なデザートだったそうです。半分に切ったイチゴを牛乳寒の上に乗せたものです。港北はこのデザートを口にした後、不味いと言って吐き出したそうです。もちろん、このデザートも鑑識で鑑定しました。港北の嘔吐物が掛かった部分からはテトロドトキシンが微量検出されましたが、それ以外の部分と他の人の食べ残しや容器からは検出されませんでした。したがって、警察では港北が食べたフグに含まれていたフグ毒が嘔吐した際にデザートの一部に付いたと解釈しています」


「そうですか……。S研究所ではこれまでに何回かあのフグ料理専門店を使っていたということでしたよね。あの店の事情聴取ではどんな事が分かったのですか?」

「さっきも言いましたけど、あそこの店主はすごく怒っているんで事情聴取もやり難いんです。それで、従業員にも話を訊きました。調理場が三名、仲居が四名いるんですが、皆、店主の剣幕に恐れをなしたのか、あまり喋ってくれないのです。それが警察から見るとかえって怪しく思われて、フグの調理に関して何か隠しているに違いないということになっています。ただ、私を含む一部の人間はそう決めてしまっていいのかなとも思っているのです」

「確かに料理による中毒死と判断するのは早合点かも知れませんよ。殺人事件の可能性もある訳だから」

「ええっ、殺人事件? 脅かさないでくださいよ」

「いや、現時点ではその可能性もあると言っているだけですけどね。しかし、鹿子木さんもわざわざここに来られたんだから、ご自分でも疑っているんでしょう?」

「参ったな。いつもお見通しなんだから。でもですよ、仮に殺人事件だとして、誰がどうやって殺したんでしょうかね」

「そんなこと、直ぐに分る訳がないじゃないですか」


「確かにおっしゃる通りですよね。ただ、この街ができて間もない頃、『S研究所には魔物が棲んでいる』という気味の悪い噂があったんです。今回の事件でその噂が復活してきているようなんです」

「『魔物が棲んでいる』って、どんな噂なんですか?」

「あれっ、神尾さんはご存知なかったんですか?」

「私はあまり噂とか評判とかには無頓着というか、興味がないものですから」

「そうですか。それでは、昔うちの署に長くいた先輩から聞いた受け売りですが、お話します。筑波研究学園都市に今ある主な研究機関の移転が完了したのが一九八〇年だったそうですが、その後間もなく、相次いで二人の研究者が自殺したんです」

「ああ、その話は私も聞いたことがあるような気がします」

「当時はこの街には歓楽街もほとんどなく、土浦駅周辺まで出かけていってお酒を飲んでいたのだそうです。自殺者が出たことが大きく取り上げられ、つくばでもいわゆる歓楽街ができる要因の一つになったと聞いています」

「そうでした。私も父のつくば移転によって東京からここに来たのですが、昔は随分と寂しい場所でしたね」


「それで、その自殺した二人はS研究所の研究者だったのです。他の研究所ではそういうことがなかったので、一部の人たちの間で『S研究所には魔物が棲んでいる』という噂が出て来たようです。S研究所でも放置できない問題だと判断し、内部の管理体制や雰囲気について随分と厳しい調査があったそうです」

「研究を行っていると、多くの研究者は強いストレスを感じることは間違いないと思います。私も相当なストレスを感じながら研究していましたから……。それで、どんな結論が出たのですか?」

「管理体制としては、研究者にあまりにきついノルマを課さないようにすることが指摘されたんだそうです。それと、カウンセリングを行う専門家が月に一回S研究所に来て研究者の悩みを聞いてくれる制度もできたということです」

「そうですか。それは良い制度ができましたね。ただ……、いくら良い制度ができても、それを運用するのは人間ですからね。実は、そこが一番の問題であるような気がしているのですが……。それで、その後のS研究所は落ち着いたのですか?」


「しばらくの間は何事もなく過ぎました。しかし、五年くらい経過した後、一人の研究者が正月休みに冬山に行ったきり行方不明になってしまったんです。山に行く直前の状況から自殺したのではないかと考えた人が多かったようです。ちょうどその頃、主にS研究所の研究員が宿舎として使っていたビルの外壁に幽霊のような形をしたシミが出て来たんです。それを見た人たちが不気味に感じましてね、市内では有名な話になったそうです」

「それであの変な噂話が広がったのですね?」

「そうなんです。あの研究所には魔物が棲んでいて、研究者を次々にたぶらかして異常な行動に奔らせているのだという噂が一気に広がったのです」


「ふーん、そういう展開になっちゃうんだ。それで、その行方不明になった人は見つかったのですか?」

「初夏になって山の雪が融けた後で、ようやくその人の遺体が地元の林業関係者によって発見されました。やはり自殺だったようです。でも、それだけでは終わらなかったのです。三年前にはS研究所の若手研究者が学術論文のデータ捏造で疑われ大騒ぎになりました」

「ああ、その事件だったら私もよく覚えていますよ。厳しいノルマをどうにかしてクリアしたいという意識と、世界をあっと言わせるような研究成果をあげて有名な研究者になりたいという強い欲求とが事件の背景にあったと記憶しています。それともう一つ重要な要因が上げられていました。それは実験ノートをはじめとする研究結果の記載や管理と、実験に用いられる材料の由来を明確にすることとの両方が、非常に杜撰ずさんであったことでした。本人には捏造の意識はなかったにも拘わらず、実験材料と実験ノートの記載や管理がいい加減であったために、結果として自分に都合のよいデータを捏造したようなことになってしまったのでしたね」

「ああ、確かにそんな話でしたね」

「科学の世界では、雑誌や学会で報告される内容は全てが真実でなければならないのです。自分で気が付いていないとしても、間違った結果を掲載してはいけないのです。だから、データが正しく出るように、必要なチェックは自分自身できちんと行っていなければならないのです」

「そんなもんですかね。その後、捏造論文の著者はもちろん、その上司も監督不行き届きで厳しく処分されたのでしたね」


「しかし、問題を起こした研究者とその上司が処分されただけでは、真の解決には程遠いと思いますけどね。何せあの研究所でのノルマの掛け方は尋常ではなかったようですから」

「そうだったのですか。一体どんなノルマが課せられていたんですか?」

「あの研究所に勤務していた研究者から聞いた話では、一つの研究チームのリーダーは二年間で五つ以上の学術論文を投稿して掲載されなければならなかったのだそうですよ。しかも、掲載してもらうことがかなり厳しいと言われている一流の学術雑誌でなければならなかったのだというのですから、本当に厳しいノルマが課せられていたのだと思います。研究チームリーダーに課せられたノルマは、ほぼそのままそのチームの若手研究者たちのノルマになる訳ですから、若手研究者たちのプレッシャーは想像以上のものがあったんだと思いますね」

「二年間で五つ以上の学術論文を掲載することって、そんなに大変なノルマなのですか?」

「ええ、そうです。投稿した論文全てが掲載されることは少ないと思いますので、本当に大変なことなのです。ところで、あの時も確か研究所内で原因追究のための調査が行われたのでしたね?」

「その通りです。半年ほど経ってから出された調査報告書では、実験材料の由来を明確にすることと、実験結果の適切な保管が強く求められました、さらに、S研究所の若手研究者に対するノルマの厳しさが再度報じられ、昔の自殺者の教訓が全く活かされていないという批判が出ると同時に、『S研究所には魔物が棲んでいる』という変な噂が再び広がったのです。それがようやく下火になってきたところだったのに、今回の事件が起こってしまったのです」

「なるほどね、世間の風評を断ち切るためにも、この事件はきちんと解決しておかなければならないのですね」


 洋介はほんのしばらくの間焦点の定まらないような目つきをしていたが、何かを思い付いたような表情で質問した。

「フグ毒か……。ところでね、鹿子木さん。料理の中に酢の物は出ていなかったんですか?」

「酢の物……ですか? うーん、店で出された料理は先ほどお伝えしたものが全てだと思いますが、酢の物があったかどうかまでは確認してないですね」

 鹿子木は、何でそんな質問をするのか見当も付かず、怪訝そうな顔つきで答えた。

「鹿子木さん。申し訳ありませんが、そのことについてもう一度捜査していただけませんか? ちょっと思い当たることがありますので」

「分りました。何のことやら分りませんが、神尾さんのおっしゃることならどんなことでもやってみますよ」

「お願いします。現時点では、今回の事件は食中毒が原因であるケースとそれ以外のことが原因であるケースの両方の可能性を考えて捜査されていくほうがよいのではないかと思いますよ」

「そうですね。そうしてみます」


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