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二五.失踪

 翌朝、鹿子木はつくば東署の取調室で落合の尋問を始めた。

「落合さん、実は昨日大洗にあるU海洋微生物研究所に行ってきました」

 落合は驚いた様子で鹿子木の目を見た。

「これまでお話していただけませんでしたが、落合さんには樺戸大輔さんという高校時代からの親友がおられるそうですね」

 落合は頷くだけで声を出すことができなかった。

「樺戸さんの出身大学は港北忠夫さんと同じで、しかも同じ研究室の四、五年後輩だったそうではありませんか」

 落合は下を向いたままで、自分の心の動きを相手に見せないようにしていた。

「樺戸さんが港北さんと同じバイオテクノロジー研究から海洋微生物研究に転向されたと聞いて、港北さんはだいぶ意地の悪いことをされたようですが、それは本当ですか?」

「それは……、本当のことです」

 落合が小さい声で答えた。


「樺戸さんの現在の研究対象は、海洋微生物によって有用な化合物を作ることだそうですね。そしてその対象化合物の中には毒性のある化合物も含まれていたそうではありませんか。もしかしたらその毒性化合物の中にテトロドトキシンが入っていたのではないかと私たちは考えているのですがね……」

「さあ、どうだったでしょうか……」

「神尾さんが文献を調べた結果、樺戸さんの研究では海洋微生物からテトロドトキシンを作り出す研究も入っていたとのことでしたよ。その論文ではまだテトロドトキシンの産生量は非常に微量だったようでしたけど。ただ、それから五年という月日が流れています。その間に研究が進んでいれば、現在は一人の命を奪うくらいの量のテトロドトキシンを作り出すことができるようになった可能性は十分にありますよね」

 落合はまた下を向いたままになった。


「落合さん、あなたは樺戸さんを庇ってご自分が犯人だと言っているのですよね」

「いえ、違います。確かに私があの中国酢を港北に渡し、それを酢の物にかけて食べて亡くなったのです」

「中国酢を港北さんに渡したのは確かに落合さん、あなただったのだと思います。しかし、そのお酢の中にテトロドトキシンを入れたのは樺戸さんだったのでしょう? これからもう一度大洗に行って、樺戸さんに詳しくお訊きするつもりですから、落合さんがいくらここで嘘を言っても、直ぐ分ってしまうことですよ」

 落合は下を向いたまま暫くの間反応しなかった。鹿子木はじっと待った。


 五分以上経ったであろうか、ようやく落合が口を開いた。

「分かりました。本当のことを言います……。あの中国酢は樺戸から託されたものだったのです」

「やはりそうでしたか。それでは落合さんはあの中国酢を樺戸さんから渡された時、中にフグ毒が入っていることを知っていたのですね?」

「いいえ、知りませんでした。本当です」

「それでは何故樺戸さんを庇おうとしたのですか?」

「樺戸があの中国酢を私に託した時、私にはほんの少しですが違和感があったのです」

「どんな違和感だったのですか?」

「あの事件が起こる少し前に、私は谷村君が転職することと送別会を開く予定であることを樺戸に伝えたのです。送別会の直前になって彼が珍しく車でつくばまで来て喫茶店で会いました。その時樺戸は『港北さんは酢の物が好物だからこの中国酢を渡せばきっと喜んでくれるに違いない』と言って私にあのお酢を託したのです。私は、港北が樺戸に相当酷いことをしていたことをよく知っていましたので、何のために樺戸が港北に喜んでもらうような行為をするのだろうと思ったのです」


「中国酢を託された時に、樺戸さんは毒が含まれていることに関しては何も言わなかったのですか?」

「はい、勿論です。もし聞いていれば私はそんな物を港北に渡したりしませんでした」

「本当ですか?」

「はい、本当です。私は人を殺すということの意味を分かっているつもりです。どんなに港北が憎くてもその一線だけは超えてはいけないとずっと思っていましたから」

「つまり、これまで何度となく落合さんは港北さんを殺したくなる程恨んだことがあるということですね」

「はい、その通りです。そう思う度に、やってはダメだと自分に言い聞かせてきたのです」

「では、樺戸さんから中国酢を託された時、怪しいと思わなかったのですか?」

「先ほども言いましたように、何故樺戸が港北にプレゼントするのだろうかとは思いました。樺戸も港北との関係を何とか修復させたいと考えるようになったのかもしれないと好意的に解釈しようとしたのです。それで、樺戸には細かいことは訊かずにあのお酢を受け取ったのです。樺戸からのプレゼントであることを港北に伝えた方が良いかどうかを訊いてみたのですが、『時期尚早だから今のところは黙っていてほしい。そのうち自分で言うようにしたい』との返事だったので、樺戸の気持ちを尊重しようと思ったのです」


「それで、送別会で港北さんが倒れた。その時、あなたは樺戸さんが毒を入れたと気付いたのですね」

「いいえ、あのフグ料理専門店で港北が倒れた直後は、全くそんなことは考えもつきませんでした。単純なフグ中毒事故が起こったのだと思ったのです。ところが、送別会に参加していた他の誰にも何の症状も現れなかったのと、樺戸から、使用した容器は珍しいものだから回収して彼に返却するよう依頼されていたことを思い出したのとで、もしかするとあの中国酢の中に毒物が入っていたのかもしれないという恐れを感じたのです」

「それで、酢の物の器をこっそりと洗ったのですね?」

「はい、その通りです。もし、私が感じた恐れが事実だとしたら、あの器をそのまま残しておいてはいけないと思ったのです。それで、港北が救急車で運ばれた後、会場に残った私は皆に気が付かれないように器をトイレに持っていき、そこに置いてあったハンドソープを使ってしっかりと洗ってから元の場所に戻しておきました」


「もう一つ。何故使用済の人形の容器を回収されなかったのですか?」

「最初はあの中国酢の説明をして私が港北の酢の物に少量かけてあげたのです。一口食べてみたら美味しかったのでしょう、それで喜んだ港北は私からあの容器を取り上げ、さらに自分で追加してかけたのです。その後直ぐに容器を回収しようとして手を出したのですが、港北に払い除けられてしまいました。それから回収する機会を窺っていましたが、そうする前に吉葉さんが花束を渡しに来てあの容器を見つけてしまったのです」

「吉葉さんが貰ってしまう前に、あの容器は返さなければいけないものであることを伝えれば、容器は落合さんのところに戻ってきたのではありませんか?」

「しかし、港北は誰に返すのかを訊いてくると思ったのです。港北の前で樺戸の名前を出し、彼があの中国酢を託してくれたことを言えば、港北のご機嫌を損なうことは間違いないと考えたのです。それから、あの時点ではまさかお酢の中に毒が入っているとは思ってもいませんでしたから、吉葉さんのものになってしまっても仕方ないかくらいにしか感じていなくて、そのまま放置してしまいました」


「そうでしたか。しかし、落合さん。樺戸さんの犯行かもしれないと疑っていたのに、何故ご自分が犯人だなどと言われたのですか?」

「樺戸がフグ毒を中国酢に入れたのであれば、彼自身の憎しみから誘発された行動だった部分も確かにありますが、ほとんどは私のために実行したのであろうと思ったからです」

「そうですか」

「樺戸に会えば、いつも港北に関する愚痴を聞いてもらっていました。彼は私の心情を汲み取り、心底同情してくれていました。さらに、港北があんなふうな人間になってしまったのは、樺戸が研究領域を変更したことが主な原因になっているのではないかと考えていたようです。しかし、そんなことが原因ではないことを私は知っていたのです。港北は研究上の名声を追うという自分の欲望に、本来人間として持っていたはずのまともな心を奪われてしまったのです。ですから、本当は私が犯行に及ぶのが筋だったのだと思ったのです」


 鹿子木は取調室から出ると直ぐに筑波ホビークラブに電話した。

「神尾さん、落合が本当のことを言いました。中国酢に毒を入れたのはやはり樺戸のようです。これから大洗に行って樺戸にもう一度話を訊きます。神尾さんも一緒に行っていただけませんか?」

「やはり、そうでしたか。もちろん私も行きたいです」

 鹿子木は自分の車を運転し、洋介を拾うと大洗のU海洋微生物研究所に急行した。


 受付で樺戸への面会を申し出ると、守衛の一人が電話を掛けて少しの間話していたが、受話器を置くと答えた。

「申し訳ありませんが、樺戸は本日不在だそうで面会はできないようです」

「そうでしたか、ご不在でしたか……。それでは申し訳ありませんが、樺戸さんの上司の野村明彦さんはいらっしゃるでしょうか? できればお会いしたいのですが」

 再び守衛は電話で話していたが、直ぐに受話器を置いた。

「野村さんは所内におられますので面会できるそうです。それではこの認証カードをお持ちになって、あそこの面談室にお入りください。今日はナンバー二にお入りください」


 鹿子木と洋介が面談室に入ると直ぐに野村が走るようにしてやってきた。

「昨日に続いて突然申し訳ありません。樺戸さんがご不在とのことでしたので……」

「それが……、樺戸は昨日私がお二人とお話している間に外出しました。これは予定に入っておりましたので全く心配しておりませんでしたが、いつまで経っても彼が帰ってこないので不審に思って彼の携帯や自宅に電話してみましたが、どちらも留守電になっていたのです。樺戸君は几帳面な人なので、こんなことは初めてなのです。彼は独り者なので、私は今朝彼の家を訪ねてみました。しかし、不在のようでしたし、研究所にも出てきておりません。あれから彼の消息は不明のままなのです」


 野村の話を聞いていた洋介の顔が曇った。

「一足遅かったか……」

「えっ、何ですって?」

「樺戸さんは、昨日私たちがここに来たことによって事態を知って、もう逃げられないと思ったのかも知れませんね」

「それでは、神尾さんは樺戸が逃亡したと言われるのですか?」

「逃亡というより、全てを諦めてしまったのかも知れません……。鹿子木さん、早急に樺戸さんの身柄確保を県警にお願いしていただけないでしょうか? 彼の命を守るためにも」

「はい、分かりました。直ぐに電話して要請します」

「何とか樺戸君を助けてください。よろしくお願い致します」

 成り行きを見守っていた野村は哀願するような目で二人を見てから頭を下げた。


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