二一.尋問
翌朝、落合がいつも通り九時少し前にS研究所に出勤すると、既に鹿子木が来て待っていた。小会議室に入ってしばらく二人で話した後、出てきた落合は研究室の中にいた谷田に告げた。
「警察にちょっと行ってきます」
三十分後、以前土井が尋問を受けたあの取り調べ室で落合と対面して座ると鹿子木は自信ありげに切り出した。
「落合室長、港北副所長が亡くなったあの送別会には吉葉亜紀さんも少しだけ来ていたそうですね」
「えっ……、ああそう言えば、彼女も花束を渡しに来てくれていました。彼女は用事が済んだら直ぐに帰ってしまいましたし、あの後直ぐに研究室を辞めてしまいましたので、印象が薄かったものですからお話しするのを忘れていました」
「落合さん、そんなことはないでしょう? あなたにとって彼女の存在は気になって仕方がないものではなかったのですか?」
「それはどういう意味ですか? まるで私が彼女に気があったとでも言われているみたいですね」
「あははは、気があったねー。あなたもまだ気持ちが若いですね。ところで、あなたは送別会の会場で港北副所長に人形の容器に入った中国酢をあげたそうですね」
落合は一瞬顔を強張らせたが、直ぐに笑顔を作って答えた。
「はい、珍しい中国酢が手に入ったものですから。港北副所長は大の酢の物好きでしたので、喜んでいただけると思いました」
「そうですか。港北副所長はその中国酢をタラバガニの酢の物にかけて食べたのですよね」
「ええ、大変喜んで使って頂きました。珍しくお礼を言われたくらいでしたから」
「実は、あの中国酢にフグ毒のテトロドトキシンが高濃度で含まれていたのです」
落合にはもう笑顔を作ることはできなかった。必死に何かを考えている様子であったが、しばらくすると下を向いたままブツブツと鹿子木には聞こえないような声で独り言を言い始めた。鹿子木は我慢してじっと待った。『余計なことを言わずに待っていれば必ず自分の思っている方向に物事が流れていく』ように思われた。
鹿子木には随分と長い時間であったような気がしたが、ようやく落合は口を開いた。
「全部お話します」
鹿子木は心の中で小踊りするばかりの気持ちであったが、冷静さを装ってゆっくりと頷くと、右手で先を促した。
落合は静かに話し始めた。
「私は随分前から港北を許せなくなっていたのです。あの男は研究の世界での権威を追い求めることにしか価値を見出せない歪んだ人間になってしまったのです。周囲の人たち、特に若い研究者たちの努力の結果や情熱をどんなに奪ってしまっていても、そのことに対して罪悪感を持たなくなっていたのです……。まともな人間のやることじゃない。
私が港北の部下としてあの研究室に異動してきた頃はそうでもなかったのです。彼は自分で実験するのは本当に得意ではありませんでした。反面アイデアマンで、いろいろな新しい考えをよく出してくれました。私には素晴らしいことだと思えました。ですから、私なりに一所懸命になって実験を行い、彼のアイデアが正しいことを実証したのです。彼は私の実験がうまくいって良い結果が出ると直ぐに専門誌に投稿しました」
「その時、その論文の著者の筆頭にはあなたの名前ではなく、港北副所長の名前が書かれていた。そうなんでしょう?」
「おっしゃる通りです。でも、当時の私はそれ程悔しいとは思っていませんでした。新しいアイデアを出したのは彼だったのは事実ですから。そうやって斬新なアイデアの論文をいくつも出していくうちに、彼は世界でも有名な研究者として扱われるようになっていったのです。今から考えてみれば、そういう状況の変化が彼を権威だけを追い求める歪んだ人間に変えてしまったのだと思います。
彼が世界的に有名な研究者になると、自然と有能な若い研究者たちが研究室に集まってきました。土井君、谷田君、田丸君、それに退職した谷村君たちは皆そういう優秀な若い研究者なのです。港北はそのような若い研究者たちの成果をも奪い取るようになってしまいました。新しいアイデアを港北ではなく彼等若い研究者たちが出した場合でも、情け容赦なく奪い取ったのです。私は次第に港北を許せなくなっていきました。私個人はもうどうでもいい。でも、これからどんどん伸びていく若い研究者たちの研究に対する情熱を奪うことは許すべきではありません。もしかしたら、彼等若い研究者たちの中に、港北よりずっと世界の研究の進歩に貢献することになる人がいるかも知れないのです。その芽を摘み取るような行為は断じて許す訳にはいきません」
鹿子木は肯くだけで、無言のまま次の言葉を待った。
「土井君はアメリカの有名な大学に留学していたのです。なかなかいい環境で研究していたようで、業績も随分と上げていて、専門誌に何報もトップネームで投稿していました。三年前に帰国して我々の研究室に戻ってきてくれたのですが、港北の卑劣な行為を許せなくなって、二回程港北に直談判しました。しかしその結果、土井君は研究成果の出にくい基礎的な研究を行うグループに行かされることになったのです。谷田君や谷村君も同じような目に遭っているのです。谷田君の場合はどちらかと言えば先が読めるタイプの人ですから、次第に論文を書かなくなっていきました。周囲の研究者たちからは、あまり研究に対する情熱がない人だと言われていますが、決してそうじゃない。港北にそうされてしまったのです。私が一番恐れていたことが現実のものとなってしまったのです」
落合はその当時の感情が蘇り、普段の柔和なものとはかけ離れた非常に険しい表情になっていた。
しばらくの間落合の沈黙が続いた。鹿子木はただただじっと待った。
「私は東京の下町で生まれました。公立の小中高校を卒業してW大学理工学部で修士課程を終了し、直ぐにこの研究所に就職しました。それ以降ずっとこの研究所で過ごしていて、学会は別として海外での研究経験は一度もありません。もともと研究することは嫌いではありませんでしたので、それなりの成果は出ました。本来なら自分をトップネームにして沢山の論文を書くことができたはずだと周りの人たちから言われました。最初のうちは私もある程度納得していたのですから仕方ありませんが、その後もずっと常に港北をトップネームにして論文を出すよう強い圧力をかけられ、仕方なくそれを続けてきました。私はこの年齢になってまだ博士号を持てていないのです。もちろん一度博士号取得のために動いてはみたのですが、トップネームで書かれた論文の数が足りずに目的を果たすことができませんでした。
この世界で博士号を持っていないということは研究者としては致命的だと言えます。一人前の研究者として見てはもらえないのです。海外の学会では学生と同じような扱いを受けたことが何回もありました。初めての博士号取得のチャレンジに失敗した時、自分が博士号を取ることを諦めました。そしてその時です、自分より若い研究者たちに自分と同じ思いを決してさせまいと心に誓ったのは。
港北は私が博士号取得を諦めたと知ると、私をM研究室副室長に昇進させました。また、港北が副所長に昇進した際は、私にM研究室長を継がせることを約束しました。博士号を持たない副室長や室長は研究所の外に出れば、単なる管理職としてしか扱われません。私が最も望んでいた真の研究者になることは、あの時点で完全に諦めざるを得ないと思いました。港北が私を昇進させた目的は、私に部下達を掌握させ、港北の思い通りに動かし、自分の学問上の名声を一層高めるためだけであったと思います。私の気持ちなど初めから全く考えもしてなかったのです」
「なるほど、本当に酷い仕打ちを受けたのですね、落合室長は」
「私が港北にこの世からいなくなってもらおうと決心したのは、谷村君がこの研究所を退職しX株式会社に移ることを決めたという話を彼から打ち明けられた時です。権威だけを追い求める歪んだ人間に成り下がった港北は、とうとう優秀な若手研究者をこの研究室から追い出すという最悪の事態を引き起こそうとしていたのです。これ以上港北の行為を続けさせる訳にはいかなかったのです」
「谷村さんから退職することを打ち明けられたのはいつでしたか?」
「昨年の十月下旬でした。彼が淋しそうな顔をして私の所にやってきて、話してくれたのです。『もうここで研究を続ける意欲が湧かなくなってしまった』と」
「そうですか、港北副所長が亡くなる五ヶ月前ですね」
「そうです。谷村君には年度末までは我慢してくれるようにお願いしました。彼も転職するのは新年度からの方がよいと言ってくれました。それからずっとチャンスを窺っていたのです。谷村君の送別会はフグ料理店にしてくれと港北が言った時、決行の時が来たと思いました」
「それで、中国酢にフグ毒のテトロドトキシンを入れて港北さんに勧めたのですね」
「私には親しくしている人がいて、その人の友人に中国人の研究者がいます。少し前にその友人が中国山西省のお酢をその中国の研究者から頂いたのです。山西省は酢の産地として中国では有名らしく、中でも最高級の銘柄は大変良いものだということですが、友人が頂いたのもその最高級の銘柄でした。その話を聞いた私は少しお裾分けをしてもらい、それを冷蔵庫で大切に保存しておいたのです。その中国酢にテトロドトキシンを溶かして容器に入れ、送別会の当日、会場に持っていったのです。港北に山西省産の最高級の銘柄のお酢について説明して渡すと、彼はいつになく喜んでタラバガニの酢の物にかけ、本当に美味しそうに食べてくれました。それから後のことは鹿子木さんのご存知の通りです。
捜査が開始されたばかりの頃は、フグ料理による中毒死ということになりそうでしたので、あの料理人には申し訳ないと思いましたが、私の書いた筋書き通りに事が運んでいました。しかし、土井君が鹿子木さんに連れていかれた時は、もし、彼が犯人だと言われたら自首しようと決めていました。彼等を守るために犯したことなのに、彼等が罪に問われてしまっては何にもなりませんから。でも土井君も犯人ということにはならずに済んだし、もう少し様子を見てみようと思っていたのです」
落合はそこで言葉を切って再び沈黙した。
「ところで、テトロドトキシンはどのようにして手に入れたのですか?」
「自分が海で釣ってきたフグから抽出したのです。フグは魚市場で買うこともできるかも知れませんが、大量に買えば、私のことを覚えられてしまう可能性が高いと思いました」
「中国酢に入っていたテトロドトキシンは随分と純度の高いものが使われていましたが、落合さんはどのようにして純度を高くしたのですか?」
「ええとですね……、文献を見てその手順に従ってやりました」
「そうでしたか。何匹くらいのフグを使われたのですか?」
「どれくらいだったかなー、百尾くらいだったかなあ。正確には覚えていませんが……」
「そうですか。ではどんな種類のフグを使われたのですか?」
「どうだったかなー……。フグの種類についてはあまり気にしていなかったので……」
「落合さんは海釣りをされるのでしたよね。当然、フグの種類についてもある程度の知識はお持ちだったのではありませんか?」
「ある程度は知っていますが、フグは外道として扱っていましたので、あまり詳しい訳ではありません」
「そうですか。シロサバフグとかハコフグなどは使わなかったのですか?」
「ええと……、使ったかも知れませんが、よく覚えておりません」
「そうですか。それではフグのどの部分を使われたのですか?」
「釣り仲間でよく言われていることですが、フグ毒があるのは内臓だということですので、それを取り出して使いました」
「そうですか……。もう一つ、フグ毒の純度が高くなるにつれて溶かすのが難しくなったりはしませんでしたか?」
「文献に書いてある通りに作業を進めましたので、溶解性についてはあまり気になりませんでした」
「そうですか、変ですね。神尾さんが調べた文献では、フグ毒が綺麗になるにつれて溶かすのが大変難しくなったということでした。フグ毒の純度が上がってきてからはどんな溶媒を使って溶かしたのですか?」
「ええと……、文献に記載されている通りの溶媒を使いました」
「使った溶媒くらいは覚えているでしょう?」
「あの時は夢中で精製していたので、今となってはあまり詳しく覚えておりません」
「フグ毒を精製した例の一つには、食用のトラフグ、マフグ、ヒガンフグなどの卵巣を材料として用いて抽出し、純度がある程度上がってからは薄めた酢酸、つまりお酢で溶かして精製して更に純度を上げた、と書いてあるそうですよ。落合室長もその事をご存じだったのでフグ毒を中国酢に溶かしたのではないのですか?」
「そうだったかも知れません。」
首を傾げた鹿子木は質問を変えた。
「ところで落合さん、港北副所長が食べた後のタラバガニの酢の物の器はどうされたのですか? 警察で分析しましたが、フグ毒は検出されませんでした」
「はい、港北が救急車で運ばれた後、周りの人たちに気付かれないようにしてトイレに持っていって、そこにあった洗剤を付けてよく洗いました。タラバガニの酢の物の器からフグ毒が検出されてしまったら、食中毒ではないことが明らかになってしまうかも知れませんので」
「やはりそうでしたか」
「鹿子木さん、覚悟はできています。ただ、これ以上若い人たちに迷惑がかからないようにご配慮をお願いします」
そう言うと、落合は鹿子木に向かって深々と頭を下げた。




