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二〇.中国酢

 それから十五分後、鹿子木はX株式会社筑波研究所受付で警察手帳を提示しないで谷村との面会を依頼していた。受付の中のガードマンはどこかに電話した後、所内の指定された面会場所のみに入ることができるカードを首から吊り下げるように言った。さらに左斜め後ろを指差して、玄関ホールに併設されている小さな部屋がいくつかあるうちの三番の面談室に行くよう指示した。

 受付から玄関までの間にはよく手入れされた庭があり、ケヤキやサツキがきれいに植えられ、数カ所にベンチが置かれていた。平たい大きな石が敷き詰められた歩道を歩き、玄関脇に設置された認証用カード読み取り機に受付で借りたカードを押し当てると玄関のガラス扉が開いた。鹿子木が中に入ると扉は直ぐに閉まった。ドアの上に三の数字が書いてある小部屋に入り、小さなテーブルの両側に置いてある椅子の一つに座った。この部屋は周りがガラスで囲まれており、中の様子が外の人にも丸見えの状況である。外部から来た人間に対するこの会社の防衛策は抜かりないように思えた。


 しばらく待つと谷村がこちらに歩いてくるのが見えた。まだ外にいるうちに鹿子木に会釈してからドアを開けて中に入ってきた。

「こんにちは。お忙しいところに押しかけてきてしまって大変申し訳ありません。しかし、どうしても早急に谷村さんにお話を伺わなければならない状況になったものですから、どうかご勘弁ください」

「いいえ、私の方は大丈夫です。いつもご配慮を頂いていましたので、こちらの方が申し訳なく思っておりました」

「それでは早速ですが、もう一度谷村さんの送別会の時の状況をお訊き致します。谷村さんがお座りになった席ですが、どこだったのですか?」

「あの時は一応私の送別会でしたので、主賓扱いということで宴会場となった部屋の正面奥に用意された二つの主賓席の一つに座らせられました」

「二つの主賓席のどちら側でしたか?」

「宴会場の入り口の方から見て、私は右側に座りました」

「そうすると入り口から見て左側、つまり谷村さんの右手側のもう一つの主賓席には港北副所長が座っていたということですね?」

「はい、その通りです」


「本当にどちらが主賓なのか分らないような送別会だった訳ですね。それでは、港北副所長の右手側にはどなたが座っていたのですか?」

「副所長の右手側と言っても、そこは主賓席ではなく九十度曲がったところだったんですけど、そこには落合室長が座っておられました」

「なるほど、落合室長だったんですね。その右手は誰だったのですか?」

「ええと、だれだったかな……。あっ、そうだ。谷田さんだったと思います」

「そうですか、谷田さんだったんですか。ところで、あの日の宴会の途中でアルバイトをしていた吉葉亜紀さんがあなたに花束を渡すために会場に来ていたそうですね?」

「ああ、そうでした。綺麗な花束を頂きました」

「いやね、今回のこれまでの事情聴取の過程でS研究所のどなたからも吉葉亜紀さんのことはお話していただけなかったものですから、こちらとしては随分遠回りをしてしまいました」

「いや、それは本当に申し訳ありませんでした。彼女のことを隠すつもりは全くありませんでしたが、送別会には花束を渡しにきてくれただけで、間もなく帰ってしまいましたし、あのことがあった後直ぐに研究所を辞めてしまいましたので、警察の方に申し上げなければいけないという気持ちが皆さん薄かったのではないかと思います。お許しください」


「いえいえ、気にされなくても大丈夫ですよ。それでですね、その吉葉亜紀さんと亡くなった港北副所長との間で何か話をしていたなんてことはなかったのでしょうか?」

「亜紀さんと港北副所長とがですか? ええと……、あっ、そうだ。思い出しました。亜紀さんから花束を頂いたので、私が感謝の気持ちを伝えてほんの少しの間彼女とお話していたのです。その直ぐ後、彼女が港北副所長におねだりしたんですよ」

「えっ、おねだり? 一体何をおねだりしたんですか?」

「あれは確か小さなプラスチック製のお醤油の入れ物みたいでした。港北副所長の前のテーブルの上に蓋もしないで置いてあったほとんど空の容器を亜紀さんが見つけたのです。人の形をしていたようです。亜紀さんがしきりに『お人形さんの容器』と言っていましたから。いつもはあっさりしている亜紀さんなのですが、あの時は必至にお願いしていたにも拘わらず、なかなか港北副所長が応じませんでしたので、私が港北副所長に頼んであげたのです。そうしたら、いやそうな顔をしていましたけど、渋々彼女の希望を叶えてあげました。『うるさいな。勝手に持って行け』って。亜紀さんは嬉しそうにその容器を貰って部屋から出ていきました」


「そうでしたか。その亜紀さんが港北副所長から貰っていった容器の中身はどうやらお酢だったようです」

「えっ、本当ですか? 私たちが普段使っているお酢は無色に近い淡い黄色で透明な液だし、黒酢でもあれ程濃い色をしていませんよね。あんなお醤油のような黒っぽい液がお酢だとは全く思いませんでした」

「なるほどね。だから私が以前お酢を渡した人を見なかったかと訊いた時には、ご存じないと言われたのですね。」

「はい、その通りです。それに瓶と言われていましたので、あのお人形のプラスチック製の容器には繋がりませんでした。申し訳ありません」


「いや、こちらの訊き方が悪かったのです。あれは多分中国酢だったと思われます。それで、その人形の小さな容器はどのようにして港北所長の前のテーブルの上に置かれたのですか?」

「ええと、あれは亜紀さんから花束を受け取る十分くらい前だったかな。港北副所長がずいぶんと嬉しそうな声を出されたので、何事かと思って見ると、港北副所長が何か小さな物を手に持って落合室長にお礼を言っているところでした」

「そうすると、あの容器を港北副所長に渡したのは落合室長に間違いありませんね?」

「私が見た時は、既に港北副所長がその何か小さな物を持たれていましたので、確かに落合室長が渡されたかどうかははっきりしません」

「でも、落合室長に向かってお礼を言っていたのでしょう?」

「はい、それは確かです」

「それじゃ、落合室長に間違いないのではありませんか」

「そうかも知れませんが、私には間違いなく落合室長だとは言えません。その後私は挨拶に来た他の人と話を始めましたので、その時点では港北副所長が何を持っていたのかは分りませんでした」

「そうですか。でもその後、吉葉亜紀さんが来て、それが醤油のような黒っぽい液体が入っていた人形の容器であると分かった訳ですね?」

「はい、その通りだったと思います」


「それで、谷村さんはあの人形の容器に入ったお酢を港北副所長がタラバガニの酢の物にかけて食べたかどうかを見ましたか?」

「いいえ、酢の物にかけたかどうかやそれを港北副所長が食べたかどうかは見ておりませんでした」

「そうでしたか。それじゃ、港北副所長が苦しみだしたのは亜紀さんが帰ってどのくらい時間が経過してからだったのですか?」

「そうですねー、二、三十分後だったように思いますけど……」


 谷村の顔には、もしかしたら今自分が非常に重要な証言をさせられているかも知れないという恐れの気持ちが現れていた。

「あのー、鹿子木さん。もしかしたら、あの容器に入ったお酢の中に毒が入っていたとお考えになっているのですか?」

「いや、まだ確定した訳ではありませんがね」

「もしそうだとすると、その毒の入ったお酢を渡した人が疑われているということですか? そしてその人が落合室長だと……」

「いや、それもまだこれから捜査することですから」

「落合室長は本当にいい人なのです。あの人がそんなことをするはずはありません。こう思うのは私だけではないと思います。M研究室のほとんど皆がそう思うと私は信じています。あの酷い港北副所長の行為から研究室の若い研究者を守ろうと必死でやってこられた姿を皆よく知っています。そして、どのような酷い扱いを受けようとも落合室長はじっと我慢されていました。恨みに思って殺人を犯すような人ではありません」

「なるほどね。落合室長は皆さんから大変慕われていたという訳ですね」



 洋介が受付で読むともなしに新聞の活字を追っているところにお待ちかねの電話があった。

「神尾さん、当たりでしたよ。あの人形の容器を港北に渡したのは、やっぱり落合室長のようでした」

「そうでしたか」

 洋介は当然のことのようにその答えを受けとめた。

「神尾さん、今、時間ありますか? 電話じゃ何だから、そちらに伺ってお話したいんですが」

「もちろん、いいですよ。私も詳しくお聞きしたいところですから」


 洋介がいくらも待たないうちに、鹿子木は筑波ホビークラブに現れた。

「あれっ、随分と早いですね」

「ええ、まあ。少しでも早く神尾さんにお話したくてね」

 鹿子木は半分笑いながら答えた。洋介に報告することも目的の一つではあったが、本音は次の手をどう打ったらよいかを相談することにあった。さらにもう一つ、亜紀に関する疑問を解いておきたいという願望もあった。もっとも、相談というよりほとんど指示を仰ぐと表現した方が正確ではあるが。鹿子木はX株式会社筑波研究所の後、S研究所に回って落合以外の何人かから事情を訊いた後の警察署への帰り道、これからどうしようかと考えていたが、いつの間にかいつものように車が筑波ホビークラブの方向に向かっていたのであった。クラブの近くまで来てから携帯電話で洋介の都合を訊いたのだ。鹿子木の本心が見すかされたような気がして笑ってごまかした後、真剣な顔に戻って説明を始めた。先ず谷村から収集した情報を伝えた。


「なるほどね。だけど、宴会が終わる少し前でしょう、落合さんがお酢を渡したのは。タラバガニの酢の物はもう残っていなかったのではないのですか?」

「それがですね、港北は一通りフグ料理を食べた後で酢の物を食べるのが好みだったそうです。あの日も幹事の田丸が無理を言って酢の物を出すタイミングをデザートの前にしてもらったということでした。以前、神尾さんがあのフグ料理専門店に行って、酷い目に遭った仲居のことを訊いてきたでしょう。その時、料理を出すタイミングに港北がきついクレームを付けたと言われていたではないですか」

「確かにそうだったですね。それで、あの人形の容器に入った中国酢と思われる黒っぽい液体をかけたタラバガニの酢の物を港北さんが食べたかどうかを、谷村さんはしっかりとは見ていなかったのですよね」

「でも、タラバガニの酢の物の器は空になっていたそうですから、港北が食べたと考えていいんじゃないでしょうか。それから、落合室長の隣の席に座っていたのは、谷田でした。その谷田は、人形の容器には全く気が付かなかったと言っていました。ちょうどトイレか何かで席を離れていたのではないかと思われます。と言うより、落合室長は谷田が席を立つのを見届け、さらに谷村が他の人と話している隙を見計らって、お酢の容器を港北に渡して説明したのではないかと思われます。計算外だったのは、港北が予想以上に喜んでしまい、大声を出して谷村に気付かれてしまったことでしょうね」


「そうですか。そうすると、落合室長が何らかの方法でフグ毒テトロドトキシンの必要量を確保した。それを中国酢に溶かしてあの人形の容器に入れ、港北さんに渡した。港北さんはそれをタラバガニの酢の物にかけて食べ、中毒死した。そういうストーリーを描くことができそうですね」

「でも、あの人の良さそうな落合室長がねー。本当ですかねー。谷村も落合室長はそんなことをする人ではないと一所懸命言っていましたよ」

「鹿子木さん、落合室長も随分と辛い目に遭っていたようですからね。可能性としては十分考えられますよ。しかし、変だなあ。もし、今我々が考えていることが事実だとしたら、タラバガニの酢の物の器からテトロドトキシンが検出されてもよかったんじゃないのかなー。警察の捜査では残ったどの料理や器からも毒物は検出されず、検出されたのは港北さんの嘔吐物だけからだったのですよね」

「ええ、そう報告を受けていますけど……。私はフグ料理の方ばかり気になっていたんで、酢の物の器のことはほとんど考えてなかったなー。直ぐに署に電話して訊いてみます」


 一度受付の外に出て電話していた鹿子木が戻ってきた。

「神尾さん、港北のテーブルにあった酢の物の器は綺麗になっていたそうです。酢の物の残りは勿論のこと、お酢さえ全く付着していなかったということです。まるで洗ったような状態だったそうです。犯人が犯行後洗ったのではないでしょうか」

「やはりそうだったんですか。多分そんなことだろうと思ってはいましたが」

「ところで、神尾さん。どうして急に吉葉亜紀が今回の事件に絡んでいたことが分かったんですか? あの研究室の人たちから何度も事情聴取したのに、我々は全く亜紀の存在を掴めなかった」

「それは、愛ちゃんのお手柄ですよ。さっきは掻い摘んでお話したので省略しましたが、実は亜紀さんは愛ちゃんの高校時代の友達だったんです。先日二人が街で会っていろいろ話しているうちに、亜紀さんが今回の事件の関係者であることが分かったんです」

 洋介は亜紀とのやり取りを詳しく話した。

「それからしばらくしてから港北が亡くなったという訳か」

「そうなんです。亜紀さんはほんの少しだけ、つまり、花束を渡すだけのためにあの料理屋に来た訳だし、彼女が帰って少ししてから港北さんの様子がおかしくなったので、研究室の人たちも彼女を事件の関係者として認識してなかったのでしょうね。それから、亜紀さんはあの事件があった後、気持ちが悪いと言って直ぐにあそこでのアルバイトを辞めてしまったんだそうですから、彼女の名前が挙がってこなかったのは無理もないことかも知れませんね」


「そうですか……。それはそうと、これからどう進めたらよいでしょうかねー」

「とにかく、鑑識の分析結果を待ちましょう。あの容器の中身からテトロドトキシンが検出されたら……、多分間違いなく出ると思いますけど、落合室長を尋問されたらいかがですか」

「そうですよね。待った方がいいですよね。神尾さん、今日は本当に有り難うございました。助かりましたよ。先ほどもちょっと言いましたけど、神尾さんが来られた時の会議は今回の事件をどう発表したらよいかについて話し合っていたんです。つまり、どうすれば世間から騒がれずにこの事件を単なる食中毒事件として終わらせることができるかってね。私はこの事件の捜査を攪乱した張本人として上司から罵声を何回も浴びていたんです。本当に助かりました」

「そうだったんですか。何とか間に合ったみたいですね」

「ギリギリでした。それでは、鑑識の結果が出たらまた連絡します」

 鹿子木はそう言うと、後ろを見向きもしないで帰っていった。 


 鹿子木が帰った後、洋介は新聞の同じページを開いたままで受付の椅子に座っていた。何かをしようと思っても手に付かない。ただただ待っていた。そこに、亜紀と二人でかなりの長時間過ごした後、彼女の車で送ってもらった愛が顔を出した。捜査のことが気になっていて自分の家に帰る気持ちにはならなかったようだ。

「神尾さん、捜査の方は進展しましたか?」

「お帰り、愛ちゃん。いやー、お陰様でこの難解な事件も解決に向かって動き出したようですよ。本当に愛ちゃんと亜紀さんには感謝していますよ」

「本当? 良かったわ」

「今、あの人形の容器の中に入っていた中国酢と思われる液体にフグ毒が入っているかどうかを、鹿子木さんが鑑識に頼んで分析してもらっているところなんです。間もなく連絡が入ると思いますよ」

「そうですか。私もここにいて、その結果を神尾さんと一緒に聞いてもいいですか?」

「もちろんいいですけれど、今日はだいぶ遅くなってしまいましたが、愛ちゃんの方は大丈夫ですか?」

「ええ、家に電話しておきます。こんな重要な時に私もぜひ神尾さんと一緒に聞きたいので……。お願いします」

「分かりました。今日、愛ちゃんは足がないんでしょ? 終わったら私が愛ちゃんの家まで送っていきますよ」

「うわー、うれしい。早速電話してきます」


 外に出た愛は嬉しそうに電話し、中に戻ってきた。午後十時を回ったところで受付の電話のベルが鳴った。洋介は一回目が鳴り止まぬ内に受話器を取った。

「神尾さん、やっぱり出ましたよ。それも高濃度のテトロドトキシンが。指紋の方は予想通りダメでした」

「そうでしたか」

 流石に洋介も興奮気味であった。愛の方を向いて右手の親指と人差し指とで丸を作ってみせた。愛の顔も喜びで溢れた。

「鹿子木さん、それでどうなさるおつもりですか?」

「ええ、それなんですがねー、迷っているんです。今夜落合を尋問しようか、それとも、明日時間をかけてやった方がいいかってね」

「明日ゆっくり尋問した方がよいのではないでしょうか。ほら、よく言うではありませんか。『いては事を仕損じる』って。これからこちらに来られませんか? テトロドトキシンについていろいろ調べたことをお教えしますから。その方が尋問もスムーズに進むんじゃないでしょうか」

「確かにそうですね。それじゃ、今直ぐに伺います」


 鹿子木は洋介の返事も聞かない内に電話を切り、十五分もしないうちにやって来た。

「やあ、愛ちゃんもいたんだ。本当に今回は有り難う。お陰様で助かったよ」

「良かったですね。これから神尾さんとするお話、私も聞いていてもいいですか?」

「もちろんですよ。愛ちゃんのお蔭で大逆転が起こりそうなんだから。それじゃ神尾さん、お願いします。できるだけ詳しく教えてください」

「分かりました。これまで調べたことをまとめてみました。順を追って説明しますね」

 洋介は落ち着いた態度で答えた。


「先ず、テトロドトキシンの溶解性、つまり、水や有機溶媒に対する溶けやすさについてです。この化合物は水、乾燥したアルコール、エーテルにはほんの少ししか溶けなくて、水で薄めた酢酸、つまりお酢ですよね、にはよく溶けます。その他の有機溶媒には実質的には溶けないそうです。要するに、テトロドトキシンをよく溶かす溶媒はお酢しかないということです。最初に鹿子木さんから今回の事件のことを聞いた時、このことが頭に浮かんだのです」

「ああ、そうだったですね。この前、そう説明してくださいましたね。だから料理の中に酢の物は無かったかどうか確かめようとされたんでしたね」

「テトロドトキシンは強い酸とアルカリで分解されるそうです。だから通常の中性に近い条件下や弱い酸である酢酸に溶かした状態では比較的安定なんだと思います。それから毒性の強さですが、『マウスに腹腔内投与した場合、LD五十がキログラムあたり十マイクログラム』なのだそうです。この意味は、小さなネズミのお腹にテトロドトキシンを注射した場合、注射されたネズミの半数が死亡する量が体重一キログラムあたり十マイクログラム、つまり一ミリグラムの百分の一だということです。港北さんはかなり太っていたそうですから体重が八十キログラムあったとすると、十マイクログラムの八十倍、たった八百マイクログラム、つまり、〇.八ミリグラムあれば五十パーセントの確率で死ぬということです。ただ、これはネズミの腹に注射した場合の話です。人とネズミとでは種差もありますし、口から入った場合は吸収率も異なります。人が口から摂取した場合、致死量は二から三ミリグラムだと言われているようです」

「そうすると、三ミリグラム程度のテトロドトキシンを食べてしまうと人間は死んでしまうということですね。恐い話だなー」


「それから、フグの部位の中でも卵巣や肝臓の毒が強く、トラフグの卵巣やマフグの肝臓は数十人を殺しうるそうですよ。また、フグの毒は個体、地域、季節などによって大きく変わるらしいのです。面白いのは、トラフグやマフグのように毒のあるフグは全てフグ科に属しているのだそうです。イシガキフグのようなハリセンボン科やハコフグ科のフグは無毒か、毒があっても非常に低いのだそうです。さらに、シロサバフグはフグ科に属していますが、どの部位も無毒だと言われているそうです。ですから、フグ科以外のフグからテトロドトキシンを沢山抽出することは無理だと考えられます」

「ほうー、それは面白いですね」


「フグ毒と言われていますが、どうもこの毒はフグが作るのではなく、ある種の細菌によって作られ、食物連鎖が関与してフグなどの生物に蓄積されるようです。養殖したフグは無毒か天然のフグより毒性が低いらしいのです。

この毒の中毒症状は、食後三十分から四時間半までの間に現れるそうですが、死に至らない場合は翌朝にはケロリとしているようです。症状は、知覚鈍麻や嘔吐があり、続いて手足等の運動麻痺が起こり、呼吸困難、チアノーゼ、血圧低下を経て、意識混濁、呼吸停止等が起こって死に至るようですね。治療法としては、最初に催吐を行い、人工呼吸も効果的なようです」

 鹿子木は手帳に一所懸命メモしていた。洋介は鹿子木がメモを書き終えるのをまってから説明を続けた。


「次は、テトロドトキシンの精製法についてです」

「テトロドトキシンは簡単に綺麗にできるんでしたっけ?」

「いや、簡単ではありません。先日少しお話しましたけど、鹿子木さんはほとんどお忘れになったみたいですね」

「確かに一度神尾さんに説明して頂きましたが、正直言って、あの時はまだそんなにお酢が重要だとは認識していませんでしたので、しっかりと私の頭の中に入っていかなかったのです。済みませんが、ポイントだけもう一度お願いします」

「分りました。この化合物は精製が進むにつれて、分かり易く言うと、綺麗になるにつれて、溶かすのが難しくなるのです。その時有効なのが希酢酸、つまりお酢なのです。普通の人にとってはほとんど無理だとは思いますが、化学研究をしている人で、器具や装置が身近にあれば、テトロドトキシンを精製するのは何とかなることだと思います」


「なるほど、落合なら可能だと言われるんですね」

「その気があれば可能でしょう。もし犯人が落合室長だとしたら、きっと自分でフグを釣ってきて卵巣や肝臓などからテトロドトキシンを精製し、致死量の数倍から数十倍の量を中国酢に溶かしてあの人形の容器に入れて港北さんに渡したものと考えられます。鹿子木さん、落合室長が海釣りをされるのを覚えているでしょう?」

「ああ、そうでしたね。でも何でフグ毒を綺麗にしたんですか? 内蔵をそのまま使ってもよさそうなものですけど」

「それは、港北さんを確実に殺すには、単離した毒をきちんと量って食べさすことが必要だったからでしょうね。また、フグの内蔵をそのまま用いたのでは見ただけで怪しまれてしまいますよね。もう一つの理由は、落合室長のプライドとでも言うべきことでしょうかね。彼も研究者の端くれだったということかも知れません」

「なるほどね。科学者として自分の手で綺麗にしてから犯行に使ったということですか」

 鹿子木は感心しきった様子で頷いた。これまでのやり取りを黙って聞いていた愛は自分の全く知らなかった世界に入り込み、そこに現れた何でも知っている神のような存在を見る目つきで洋介を見て言った。

「神尾さんて本当に何でも知っているのですね」

「いや、とんでもない。ただ調べただけですよ」

 鹿子木は改めて洋介に礼を言い、明日への意欲を漲らせて帰っていった。


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