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十九.亜紀の家

 亜紀の赤いシテイーを先導役にしてエクストレイルがそれに続き、亜紀の家がある真瀬地区に向かった。亜紀の家に行ったことをおぼろげながら覚えている愛は、亜紀の車を見失った時のために洋介の車に乗った。

 つくば研究学園都市周辺は公共交通機関の便が悪いため、高校卒業後通勤通学するには車の運転免許証の取得と、ほとんどが親の負担となる車の購入とがほぼ不可欠になっている。高校在学中に運転免許証をとる生徒も多い。亜紀や愛も卒業前に自動車学校に通い、免許証を手にしていたし、車もしっかりと自分専用のものを買ってもらっていた。


 二台の車はつくば市の中心から西の方向に走った。後から付いていく洋介から見ると、亜紀の運転は自己中心的ではらはらさせられてしまう。つくばでは、中心部の道路や近隣の街と結ぶ幹線道路は片側二車線または三車線で道幅も広いが、ひとたび旧道に入ると狭く曲がりくねっている。このギャップがあまりにも大きいため、スピードをかなり出す人と非常にゆっくりと走る人とがいて、運転していてヒヤリとさせられることも結構ある。

「愛ちゃん。亜紀さんはウインカーを出すタイミングが酷く遅いね。交差点で直進するのかと思って待っていると、動き出す直前にウインカーを出して急に曲がるので、びっくりしてしまうよ」

「そうなのです。亜紀の運転はいつもあんな感じなのです。でも、最近、あんな運転をする人がかなりいるように思いますわ」

「そう言えば、交差点で前の車や対向車が突然右折や左折するのに脅かされることが時々あるねー。困ったことだな」

 洋介が心配しながら続いてきていることも知らずに、亜紀はずっとマイペースな走りを続けおよそ十五分で目的地に着いた。


 亜紀の家は周囲を生け垣に囲まれ、入口は狭いが中に入ると相当広い庭があった。そこには何本か立木が植えられている以外は全面に砂利が敷かれていて、車は何台も駐車できるようになっていた。それ程新しくはないがしっかりとした造りの母屋の反対側には納屋があり、母屋と納屋との間に外造りのトイレがあった。亜紀が車を納屋の前に止めたので洋介はその隣に駐車し、亜紀たちの後を歩いて玄関から家に上がった。奥から顔を出してこちらを見ていた亜紀の祖母に会釈してから、二階にある亜紀の部屋に案内された。


 亜紀の部屋のインテリアは洋介が想像していたよりはずっと女の子らしい雰囲気があった。部屋の一角にはシングルベッドが置かれ、赤い地に花柄がデザインされたベッドカバーがかけてあった。随分と沢山のぬいぐるみが部屋の至る所に置かれ、壁には可愛い子犬の大きなポスターが貼ってあった。テレビ、ハードディスクレコーダー、さらにオーディオセットまで置かれ、そうは広くない室内には物が置いてない所がほとんどなかった。

 そんな部屋の中に小さめの冷凍庫が一台棚の上に置かれていた。アパートでの一人暮らしならいざ知らず、親と同居している若い女性の部屋に冷凍庫があるのは、いつもの洋介なら奇異に思えるはずたった。しかし、この日の洋介は拝むような気持ちで冷凍庫を見ていた。


 亜紀は冷凍庫のドアを開け、大事そうに少女の形をしたプラスチック製の小さな容器を取り出し、両掌で暖め始めた。

「いつもね、こうして中のお醤油だとかソースだとかを温めてから蓋を開けて中の匂いを嗅ぐんだよねー。どれも同じように見えるけど、ほんの少しずつ匂いが違うんだ。あたし、こうしているの、大好き」

 亜紀は焦点が定まらない目をして話し始めた。愛は半ばあきれたように言った。

「やっぱり、亜紀は変わっているわねー」

 洋介には二人の会話はほとんど耳に入らなかった。彼は『しまった』と思った。亜紀が大事な容器に触る前に、直接容器には触らず綺麗なハンカチでも使ってくれるように忠告しておくべきであった。しかし、直ぐに彼の目は小さな容器の内容物に注がれた。人形の足の部分、つまり蓋から一番離れた底の部分に黒褐色をした溶液がしっかりと見えた。この時ばかりは洋介にとって亜紀は女神に見えた。ほんの少しの量ではあるが、これだけあれば警察で何とか内容物の分析が可能であろうと思われた。


 亜紀は中の液体の粘度が低くなるのを確認すると、おもむろに蓋を捻って開け、目を瞑って鼻を近づけた。亜紀の確認が終わるのを洋介はじっと我慢して待った後、左手でポケットからハンカチを取り出し、その上に容器を渡してもらい、鼻を近づけた。

「うん、これは中国酢の臭いですね。亜紀さん、直ぐに手を洗ってくださいね。もし、これに毒が入っていたら大変なので。それと、申し訳ないけどこれを貸していただけないでしょうか? 警察で中身を分析してもらおうと思うんです」

「えー、警察に持ってっちゃうのー。分析するっていうと、中身が無くなっちゃうんじゃないのー?」

 亜紀はいやそうに言った。

「警察には少しでも残してもらえるように言いますけど。亜紀さん、これは人が亡くなったことに関係しているかも知れないんですよ。だから、もしそうなったとしてもどうか我慢してください。お願いします」

「でも、これって、初めて手に入れたものなんだからー。なくなっちゃうの、やだなー」

「分りました。それでは、もし無くなってしまったら、私が横浜の中華街で中国酢を買います。それで、お人形の容器も見つけて、その中に入れてお渡しします。それならいいでしょう?」

「本当? それならいいよ」


 洋介は愛にもう一つハンカチを借り、そのハンカチで容器の蓋をそっと掴んで、お人形さんの頭の部分に被せた後しっかりと締めつけた。自分のハンカチでそのお人形さんをそっと包み、ショルダーバッグにしまい込むと、愛のハンカチは持ち主に返さずに自分のズボンのポケットにしまった。よく洗ってから返すつもりであった。

「それでは、直ぐに手を洗ってきてください。その後、亜紀さんがこの容器を港北副所長から貰った時の様子を詳しく話していただけないでしょうか?」

 亜紀が階段を大きな音をさせて駆け下りると水音が聞こえた。


 戻ってくるとやや口を尖らせて言った。

「詳しく話してくれって言われたって、さっきから言っているように、あたしは花束を渡しにほんのちょっと行っただけだし、話すことなんてもうないよ」

「亜紀さんがお酢の容器を貰った時は、港北副所長はまだお元気だったんですね」

「うん、そう見えたけど。だって、隣に座っていた落合さんと笑いながら話していたから……。そういえば、いつもよりは嬉しそうだったような気もしたけどね」

「そうですか、隣には落合室長がお座りになっていたんですか。それで、何で亜紀さんは港北副所長がいつもより嬉しそうだと思われたんですか?」

「港北さんてさ、いつも偉そうにしていて、あたし、あんまり嬉しそうなところを見たことがなかったんだ。だから」

「そうですか。落合室長は港北副所長のどちら側に座っておられたんですか?」

「ええとー、どっちだったかなー。あ、そうそう、港北さんの左側だった。私が見た時、左側を向いて落合さんと嬉しそうな顔して話してたから」

「それは亜紀さんから見て左側ですか?」

「うん、そう」


「そうですか。それじゃ、亜紀さんから見て港北副所長の右側にはどなたが座られていましたか?」

「右側ねー。ええとー、谷村さんだった。だって、谷村さんに花束を渡すためにあたしは出席させられたんだから。それに、あたしがあのお人形さんの容器を見つけて、港北さんに、頂戴って言った時、港北さんは知らん顔してたんだけど、谷村さんが助けてくれたんだ」

「どんなふうに?」

「港北さんの腕を突っついて、『吉葉さんにあげたらいかがでしょうか』って言ってくれたの。そしたら、港北さんが急に不機嫌そうな顔をして、『うるさいな、勝手に持って行け』ってぶっきらぼうに言ったんだ」

「そうでしたか。で、亜紀さんが港北副所長の所にあったあのお人形さんの容器を見つけた時は、既に中身はほとんど空になった状態だったんですね?」

「うん、そう」

「それじゃ、誰があの容器を港北副所長に渡したか、亜紀さんはご存じないのですか?」

「知らない」

「そうですか」

 洋介は非常に残念そうに言った。


「もう一つ教えてください。落合室長の隣にいたのはどなただったか覚えていますか?」

「えーと。誰だったかなー、よく覚えてない。だって、無理でしょ、ほんの少しの時間だけしか送別会に出てないんだから……」

 亜紀は不満そうに言った。

「そうですよね。済みませんでした」

 洋介は人形の容器に付いていた指紋と比較するため、部屋の中に置いてあった紙袋を貰い、亜紀の指紋をしっかりと付けてもらったコーヒーカップを大事そうに入れると、ソワソワし始めた。そんな様子を見て洋介の気持ちを汲み取った愛は、もう少し亜紀の所に居たいと言ってくれた。亜紀もそれを受けて、後で愛の家まで送るから大丈夫と告げた。洋介は亜紀に礼を言い階下に降り、亜紀の祖母に大きな声でお礼を言うと車に乗り込み、つくば東警察署に急行した。


 警察署に付くと小走りで受付に行き、刑事課の鹿子木康雄への面会を申し出た。受付の女性が電話で誰かと話した後、二階の刑事課の前の廊下に備えてあるソファーに案内され、そこで待つように言われた。鹿子木はなかなか出てこなかった。十分間程待たされてからようやく鹿子木がしかめっ面をしてやってきた。

「済みません、神尾さん。今、例の事件についての最終会議の最中なんですよ。何かあったんですか? 神尾さんがわざわざこんな所に来られるなんて」

「ご免なさい。お忙しいところにお邪魔しちゃったようですね。でも、重要な情報と証拠になるかも知れない物を持ってきたんですよ」

 鹿子木の目がどろんとしたものからキラキラしたものに変わった。

「鹿子木さん、少し長くなるかも知れませんけど、会議の方は大丈夫ですか?」

「もちろんですよ。もし捜査が進展するんだったら、こんな会議なんて必要なくなるんですから。それより、一体どんな情報を掴んでこられたんですか?」

 洋介は亜紀に訊いたことをかい摘んで話し、ハンカチにくるんだ人形の容器と紙袋に入れたコーヒーカップとを鹿子木に渡した。


「それはすごい。早速鑑識に回して内容物の分析と指紋の検出をしてもらいます。神尾さん、本当に有り難うございます」

「指紋の方はダメかも知れません。容器が小さいし、亜紀さんが何回も触ってしまったようですから。ただ、内容物の方は何とかなるんじゃないかと思います。きっと、テトロドトキシンが検出されると思います。都合の良いことに、亜紀さんが凍結して保存してくれていましたからね」

「分りました。とにかく両方ともお願いしてきます。ちょっと待っててくださいね。もっとお訊きしたいですから」

 鹿子木は急ぎ足で廊下を進み階段を駆け下りると姿が見えなくなった。しばらくすると息を切らせて戻ってきた。


「ちゃんとお願いしてきましたから、ご安心ください。それで、あの人形の容器を港北に渡した人は誰だか分かっているんですか?」

「いいえ、まだです。その件で鹿子木さんにお願いしたいんですよ。さっきも話しましたように、港北さんが何者かにあの人形の容器に入った中国酢と思われるものを貰い、多分タラバガニの酢の物にかけて食べた後に亜紀さんが花束を渡しに来て容器に気付き、おねだりしたのだと思います。最初は無視していた港北さんも、主賓の谷村さんが亜紀さんにあげるよう勧めたので、仕方なく亜紀さんに渡したのでしょうね。

 ただし、亜紀さんは誰があの容器を港北さんに渡したかを知らなかった。その時、港北さんの両側に座っていたのは、向かって左側が落合室長で、右側が主賓の谷村さんだったそうです。亜紀さんが容器を見つけた時、港北さんは落合室長と楽しそうに話をしていたそうです。亜紀さんによれば、港北さんがあんなに楽しそうに話しているのは見たことがなかったそうです」


 鹿子木の目は洋介に話しの続きを早く聞きたいと訴えていた。

「この話を聞いて、私はこう思うんですよ。港北さんにあの容器をあげたのは落合室長で、大変珍しい中国酢だとか何とか蘊蓄を並べて、タラバガニの酢の物にかけて食べることを勧めたんじゃないでしょうか。港北さんがそうしてみたらかなり美味しかったのでしょうね。そこで、港北さんは嬉しくなって落合室長の方を向いてお礼でも言っていたのではないかと思います。港北さんの隣に座っていた谷村さんか、落合室長の隣に座っていた人がそれを見ていた可能性はあると思うのです」

「でも、以前私がお酢を渡した人を捜査した時には、誰も知らないと言っていましたよ。谷村もそうでした」

 鹿子木は半分不服そうに言った。


「多分、港北さんに渡されたものがお酢だったということを認識されていなかったのではないかと思われます。中国酢は醤油みたいな色をしていますからね。日本にも黒酢というのがありますが、色は薄くて中国酢とは相当違います。もしあのお酢が山西省産のものだとすれば色は更に濃いのだそうです。それと、私が小さな瓶と言ってしまったので、皆さん瓶に捕らわれてしまったのかも知れません。ですから、今度は可愛い少女の形をした小さな容器を渡した人がいたかどうかを訊いてみて頂きたいのです」

「分りました。直ぐに谷村に連絡をとって確認してみますよ。神尾さん、本当に有り難うございます」


 鹿子木は洋介の言葉を全部聞かない内に、もう行動を起こそうとしていたが、思い直して洋介に向かって言った。

「実は、今やっている会議はこの事件を単純な食中毒事件として終わらせるためにはどう発表すれば良いのかを議論しているんです。会議室の中の皆に簡単に説明したら、直ぐに谷村の所に行ってきます。緊急事態だ。谷村もこれくらい許してくれるでしょう。つまらない会議なんかやってる場合じゃなくなっちゃった」

 そう言うと鹿子木は会議室の方に走り出したが、急に止まり、振り向いて言った。

「神尾さん、ホビークラブの方に戻るんでしょう。後で連絡しますから」

「分りました。お待ちしています」

 洋介が答え終わった時には鹿子木の姿はもう見えなかった。洋介は自分に言い聞かせるように呟いた。

「間に合ってよかった。少しは鹿子木さんにも美味しい所を味わってもらわないといけないよな」


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