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一.愚痴

 フグ中毒騒ぎの一年前、二〇一二年三月初め。

 約束していた開店時間である午後五時より少し遅れて店に入ってきた樺戸かばと大輔が、既にカウンターの椅子に座っていた落合一郎に声を掛けた。

「やあ、お待たせ。元気かい?」

「うーん、まあ何とかね」

 二人はいつものように上品な鶏料理のコースと生ビールとを注文し、早速出された十分に冷えたジョッキを軽く合わせた。少し待つと軍鶏のスープと前菜がカウンターの上に載せられた。


 落合は高校時代からの親友である樺戸と時々北千住で会っていた。落合はつくば市に居を構え、樺戸は職場が大洗にあるため水戸に住んでいる。落合がつくばエスクプレス、通称TXで、樺戸が常磐線で来ると、北千住が最初に交わる駅である。双方にとって便利である上、手軽に飲み食いできる場所がいくつもあるので、二人が旧交を温めるには北千住は好都合の場所である。


「しかし、樺戸には水戸からわざわざここまで出てきてもらっているんだから、申し訳ないな」

「確かに水戸からだと北千住は若干遠いけど、たまには都会の雑踏や喧噪にも浸りたいから気にしなくていいよ」

「そう言ってもらえるとホッとするよ」

 久しぶりの鶏料理の味を楽しんでいた二人だが、樺戸には落合がいつもより落ち込んでいるように見えた。


「今日は何だか静かだな。その様子からすると、研究所でいろいろとあって大変なんだろう?」

「ああ。相変わらず中間管理職の悲哀を感じさせられているよ。毎日が針の筵の上に座っているような心境だ」

「原因はやはり港北さんなのか?」

「ああ、そうだ。僕の悩みのほとんど全てにあの人が関わっているんだよ」

「どんなことがあったんだい? 僕じゃ何の解決策もアドバイスできないかもしれないけれど、鬱憤くらいは晴らしてあげられるんじゃないかな」

「有り難う。愚痴を聞いてもらえるだけでも随分と気持ちが楽になるよ」

「それじゃ、話してみてよ」


「樺戸も知っているかもしれないけど、港北さんという人は、他の人が頑張ってようやく手中に収めた研究成果を情け容赦なく自分のものとして雑誌に投稿してしまうんだよ」

「そうなんだ……。しかし、昔の港北さんは夜を日に接いで研究していて大変な努力家だと言われていたこともあったんだけどな。もっとも、自分が有名になりたいという動機からだったと言っている先輩もいたけどね」

「樺戸は大学が港北さんと同じで、しかも研究室まで同じだったんだよな。樺戸の何年先輩になるんだい?」

「五年上だよ。最初出会った頃は凄い人だと思っていたので少しは尊敬していたんだけれど、僕がバイオテクノロジーから海洋微生物研究に鞍替えした頃から酷いことを言われたりされたりするようになってね。どんどん嫌いになってきているんだ」

「うん、よく分かるよ。あの人は自分が常に中心にいなければご機嫌が悪くなる人だからな」

「その通りだよ。それじゃ、落合の悩みをじっくり聞くとするか」


 そこに、コース料理の軍鶏の刺身とレバーのパテが出された。二人は美味しそうに味わってから会話を続けた。

「港北さんが自分で一所懸命実験していたのは昔のことなんだ。今はもっぱら文献検索が主で、自分では実験を行なわず、部下には滅私奉公的な貢献を強要しているんだよ。それに、部下が上げた成果は自分がトップネームで科学雑誌に投稿するのは当たり前、という考え方はますますエスカレートしてきているんだ」

「成る程な。僕のところにも港北さんの影響が出てきているんで、よく理解できるよ」

「えっ、樺戸のところにまであの人の影響が及んでいるのかい?」

「まあ、そうなんだが、僕の話はまた後にしよう。続きを話してくれないか」


「うちの研究室に、アメリカの有名な大学への留学から二年前に戻ってきた若手研究者がいるんだよ。彼はあちらで沢山の成果を上げることができて、専門誌に何報も彼がトップネームで投稿していたんだ。ところが、うちの研究室に戻ってきたら自分の業績がほとんど全て港北さんのものになってしまうことに相当腹を立てていて、去年の十一月にとうとう港北さんに二回も直談判をするところまでいってしまったんだよ」

「それはむしろ当たり前の行動だと僕は思うけどね。でも港北さんにはそんな考え方は通用しなかったという訳だ。落合のことだから、きっと随分と気を揉んで、二人の間に入って何とかしようと大変だったんだろう?」

「確かに何とかしようと思ったけれど、結局何もできなかった。僕には何の力もないことを思い知らされただけだったんだ」

「そんなに自虐的にならなくてもいいじゃないか。港北さんが学会で今の地位を築けたのも、落合の研究成果が沢山あったからなんだから」

「確かに僕の研究成果のほとんどは港北さんがトップネームで科学雑誌に投稿したけどね。でも、僕のことはどうでもいいんだ。問題なのは、今後の日本、いや世界の学界をリードするようになるかもしれない前途ある若手研究者の芽を摘み取るような行為を、港北さんがしているということなんだ」

「確かにその通りだね」

 樺戸は遠くを見つめるような目付きで肯定した。


 新たに出された軍鶏の串焼きと山椒焼きを口に入れながら二人の話は続いた。

「それで、何か進展はあったの?」

「今の所、何も変わってないんだ。今後も良い方向に進んで行く可能性は低いんじゃないかと思うね」

「そうか……。落合としては歯がゆくて仕方がない訳だ」

「ただね、一つだけ希望が持てそうなことがあるんだ」

「何、それは?」

「港北さんの研究業績が上の方で評価されて、四月からあの研究所の副所長に昇格する可能性が高くなってきたんだ」

「そうなると、あの研究室の室長は落合がやることになるんだろう?」

「そうなる可能性はあるとは思うんだ。もしそうなれば、若手研究者を守ってあげることができるようになるかもしれない」

「そうか、そうなるといいね」

「有り難う。ところで、樺戸の所にまで港北さんの影響が出ているって言ってたよね。あの人は一体どんな悪いことをしているんだい?」

「うん。今日は久しぶりに東京に出て来たんでね、いくつか用事を片付けようと思っているんだ。まだ一つ残っているんで、もう少ししたら行かなくてはいけない。僕の話はそれ程差し迫った問題ではないからまた今度ゆっくりと話そう」

 樺戸は店主にコースの最後の料理を出すよう促した。暫くすると半熟の卵が軍鶏肉とうまく絡み合った親子丼が出され、改めて二人はその旨さを堪能した。

「申し訳ないね、僕の話だけしてしまって」

「いや、いいよ。こっちの都合なんだから。今回は落合に希望が見えてきたということを聞けたので嬉しいよ」

 二人は仄かな期待感を持って鶏料理店を出ていった。


 それから十ヶ月後の二〇一三年の正月休み、二人は北千住の鶏料理店で話していた。落合が前年四月にM研究室長になれたので、樺戸は彼が前向きな精神状態になっていることを期待して水戸から出向いた。


「やあ、久しぶり。去年の四月に落合の昇進祝いをやってからずっと会っていなかったよね」

「そうだね」

「あれっ、何だか随分と落ち込んでいるみたいじゃないか」

「ああ、酷いもんだよ」

「落合は希望通り室長になれたんだから、若手研究者たちはのびのびと研究できる環境になったんじゃないの?」

「僕もてっきりそうなると期待していたんだけど、実態は以前と変わってないどころか、かえって悪くなったかもしれないんだ」

「どういうこと?」

「確かに港北さんはM研究室長からS研究所副所長に昇進され、僕もM研究室長になれたんだ。でも、港北さんは権力が増したのをいいことに、これまでよりさらに厳しく研究員たちを自分の思い通りにしようとし始めたんだよ。うちの研究室にも頻繁に出入りして、研究員に直接要求を出している有様だ。それに、以前はM研究室内だけだったけど、今は統制の範囲を広げつつある」

「本当に困った人だなあ」


「それから、以前から犬猿の仲だったT大学理学部の露木教授との学会での主流派争いが激化してきてね。露木教授と港北さんとは主張している仮説が相容れないので、どちらも相手には負けまいとして熾烈な研究上の争いを行っているんだよ。だから、若手の研究者たちは本当に大変なんだ。港北さんは相変わらず自分では実験を行わず、都合の良い仮説を提案して、研究員がその仮説と異なるようなデータを出すとすごい権幕で怒るんだ。堪ったものじゃないよ」

「そりゃ、酷いな」

「そんな状態なんで、私が以前から心配していたことが現実のものとなってしまったんだ」

「一体どうしたんだい?」


「有望な若手研究者の一人である谷村君がS研究所を辞めて民間企業の研究所に転職したいと相談してきたんだよ。今後の日本、いや世界のこの分野の研究を牽引していけるかもしれない若い優秀な研究者の芽を、港北さんが摘もうとしているんだ」

「民間企業では世界を牽引できるような研究をするのは難しいのかな?」

「企業でもノーベル賞を受賞した研究者もいるのだから、可能性はゼロとは言えないけれど、企業ではどうしても製品開発や利益に繋がる研究を要求されることが多いと思うんだ。物事の概念を変えることができるような基礎的というか原理を追及するような研究ができる機会はずっと少なくなるのではないかと思うんだよ」

「彼の転職の決意を翻させることはもう出来ないのかな?」

「もちろん、僕もできる限りの努力はしたさ。でも彼の決心は固くて揺るぎないものになってしまっているようなんだ」

「そうか、それは落合にとっては本当に辛いことだな」

「何か上手い手はないかなあ……」

「うーん……、相手が悪すぎるからな」

 暫くの間、二人は溜息をつくだけで会話することができなかった。


「そう言えば、前回樺戸と会った後で思い出したんだが、樺戸が今でも独身を貫いている原因は港北さんにあったんだよね」

「もう、昔の話だから、それについてはそっとしておいてくれないか」

「ご免、ご免。いやなことを思い出させてしまって申し訳ない。ああ、そうだ。以前ここで会った時、樺戸のところにも港北さんの影響が出てきているようなことを言っていたよね。その話を聞かせてもらおうか」

「僕の場合は落合のところと比べると大したことはないんだけどね」

「それでもいいから、今後の参考のために聞かせてよ」

「分かったよ。それじゃ、話すとするか。僕が大学であの研究室に入った時、港北さんは古株のドクターとして君臨していてね。随分と可愛がってもらったんだよ。同級生の中でも何故か僕だけが特別扱いされていたような気がする。でも、この前言ったように、僕がバイオテクノロジーから海洋微生物研究に鞍替えした頃から酷いことを言われ始めたんだよ」

「そう言っていたね」

「酷いことを言う相手が僕だけなら、何とか我慢できるんだけど……。少し前、うちの研究室の室長が港北さんと話す機会があってね。僕がその室長の部下だと知った途端、あることないことを言って僕を中傷したそうだ。室長も初めのうちは笑って済ませようとしていたようなんだけど、しつこく言われたものだから大声で反論したと言っていた。その後、うちの研究所の所長のところにまで僕を中傷する内容の文書を送り付けてきたようなんだ。所長には室長が何とか釈明してくれたので、大ごとにはならなかったけれどね」

「その室長が樺戸のことを信頼してくれていて良かったね」

「本当にそうだな。その後も港北さんはいろいろと難癖を付けてきているんだよ」


「どうしようもないなあ、あの人は……。もしかすると、港北さんは樺戸のことを自分の後継者になる人だと思って期待していたのかもしれないね」

「そうだろうか」

「以前、うちの研究所にも港北さんにえらく気に入られた研究者がいたんだよ。その人は確かにすごく優秀で、港北さんには従順な態度をとっていたんだ。港北さんは彼を自分の後継者と考えていたのではないかと思えたね。しばらくの間は順調だったんだけど、彼は港北さんから特別扱いされることに耐えられなくなってしまったようなんだ。そりゃそうだよね。彼だけが特別扱いで可愛がられれば、周りの人たちは彼のことを良くは思わないよね。彼はその重圧を跳ね返すことができなくなったんだと思う」

「それで、その人はどうしたんだい?」

「彼はうちの研究所を辞めて他の研究所に逃げるように転職してしまったんだ。そうしたら、港北さんの彼に対する態度は豹変したんだよ。港北さんはいろいろな手を使って彼を追い込んでいった。転職して二年後に彼は日本にはもう居られないと判断したようで、アメリカの研究所に行ってしまったんだよ」

「そんなことがあったんだ。流石の港北さんでもアメリカの研究所までは手を出すことができなかったんだね」

「そうなんだ。その人は今もアメリカでしっかりと研究者としての道を歩んでいるらしい。彼が転職した後だよ、僕が港北さんからあの研究室の副室長に指名されたのは。ちょうどその頃、僕が博士号を取るのを諦めたことも別の要因としてはあったとは思うんだけれど。ただね、僕に対しては転職した研究者のような自分の後継者として見てくれたのではなく、若い研究者たちを自分の思いのままにコントロールする際の手先くらいに考えていたようだけれどね。樺戸のケースもこの研究者の場合とよく似ているような気がするな。『樺戸のことを非常に期待していたのにも拘わらず、自分を裏切るようなことをするなんて絶対に許せない』、そんなふうに港北さんは思ったのではないのかな」

「そうかもしれないな……。あの人の追及の手から逃れるためには僕も外国に行かないといけないのかな」

「確かにそうすれば確実かもしれない……」

 その後の会話は続くことはなく、二人は寂しい気分のままつくばと水戸に帰っていった。


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