十八.女神
洋介は読書室で雑誌の同じ頁ばかりを眺めていた。彼の頭の中はずっと一つのことで占拠されたままになっていた。
「源さん、神尾さんは一体どうなっちゃたんですか?」
田島幸夫が源三郎に心配そうな顔で訊いた。
「ここ二日ばかりずっとああなんですよ。神尾さんは何か考え事を始めるといつもあんなふうになるんです。心配しなくても大丈夫ですよ」
源三郎は笑いながらそう答えた。鹿子木からの電話があった後、鹿子木の窮状を想像していた洋介は周囲の人たちから何を訊かれても生返事ばかりで、まともな会話にならなかった。
「もう直ぐ今回の事件を終わらせるための捜査会議が開かれるのだろうな。きっと鹿子木さんは課長から厳しく糾弾されるに違いない。『だいたい、今回の事件は単純なフグ毒による食中毒事件に過ぎなかったのに、警察の捜査もろくに知らない素人に頼っていた鹿子木に大きな責任がある』なんて言われるかもしれない。私が期待できるようなことばかり言って鹿子木さんを引っ張り込んだのに、結局何一つ具体的な手掛りを見つけることができなかったんだから。本当に申し訳ないなあ……」
捜査会議の席で皆から刺すような冷たい言葉を浴び、肩を落として耐えている鹿子木を想像すると、洋介は自分の不甲斐なさに頭が割れそうな気持になっていた。
「洋介さん、洋介さんってば」
「ええっ。ああ、何だ、愛ちゃんか」
「一体どうされたのですか? そんなに上の空で。皆さん心配されていますよ」
「いやー、ご免ご免。ちょっと考え事をしていたものだから」
「ちょっとじゃないでしょう。ここ二日間はずっとそんな状態だったのですから」
「あはは、そんなに長かったかな」
「本当に神尾さんは考え出すといつもそうなのですから、仕方のない人。今日は少し頭を切り替えて私の言うことを聞いてくださいね」
「分かったよ。愛ちゃんの言う通りにするよ。それで、話って何ですか?」
「こんなことを神尾さんにお知らせしても役に立たないのではないかと思って、ちょっと躊躇っていたのですけど……。神尾さんが考えていることって例のフグの中毒事件のことなのでしょう?」
洋介は黙って頷いた。
「多分そうだろうと思って、私、お話する気になったのです。もし何の役にも立たないようでしたら、これからお話すること、全部忘れてください」
愛は洋介の気持ちを確かめるように顔を覘き込み、そんなにいやそうな表情ではないことに安心して言葉を続けた。
「私の友達に、高校の時クラスメートだった吉葉亜紀っていう人がいるのです。この間、その亜紀から電話が掛かってきて、久しぶりに会おうっていうことになりました。それで喫茶店で会っていろいろとお話しました。彼女は高校を卒業してからきちんと就職しないでアルバイトしている、いわゆるフリーターなのです。最初のうちはコンビニで働いていたのですが、彼女のご両親が、どうせなら堅い所で働いたらって、S研究所の話をもってきてくれたらしいのです。どうも彼女のお母さんは、つくばの研究所は結婚相手を探すのに打って付けの場所だと思っているらしくて、随分と勧められたので彼女もOKしたのですって。それで、S研究所M研究室の実験助手として、火、木の二日間、午後だけ勤務していたのです」
急に目が輝き始めた洋介は愛に先を続けるように合図した。
久しぶりに会った二人は最近自分がどうしているかを交互に話していたが、突然亜紀がこう訊いた。
「あたし、この頃、超気持ち悪いんだ。前にバイトで行っていたS研究所で偉い人が死んだの、知ってる?」
「ああ、フグ料理屋さんで宴会か何かしていて急に死んだ人の話でしょ、知っているわよ」
「あれって、研究所を辞める人の送別会だったんだ。あたし、あの送別会にちょっとだけ出ていたの。あたしなんかバイトだし、別に関係ないから送別会なんて全然出るつもりなかったんだけど、花束だけ渡してくれればいいからって言われて、送別会が終わるちょっと前に料理屋に行って、花束渡してきたの。それでね、渡した後、あの研究所の偉い人と話したのよ。そしたら、そのすぐ後でその人死んだっていうじゃない。もう、気持ち悪くて仕方ないんだよね」
「えー、ほんと! それは気持ち悪いわね。それで亜紀、それからどうしたの?」
「別に好きでバイトしてた訳じゃないから、直ぐにあそこ辞めたんだ」
「そう、辞めちゃったの。じゃ、今は何しているの?」
「何にもしてないよ」
「それじゃ、ご両親は心配されているのではないの?」
「そう。早く再就職しろってうるさくて困ってるんだ」
「そうでしょうね」
愛は亜紀の両親の気持ちを察して溜息をついた。
洋介には彼女達が救いの神に思えた。このどん詰まりの状態を打開してくれるのは愛の友達しかいないと確信した。
「愛ちゃん、できるだけ早くその友達に話を訊かせて欲しいんだけど。何とかならない?」
「私が亜紀から聞いたことは今お話したことで全てなのですけど、神尾さんのお役に立つのでしょうか?」
「もちろん役に立ちますとも。実は捜査が行き詰まっていて困っていたところだったんです。もしかすると、愛ちゃんの友達は救いの神になるかもしれない」
「本当ですか。それじゃ、直ぐに亜紀に連絡してみます」
愛は洋介の反応が想像以上のものであったため非常に嬉しそうに答えると、小走りに廊下に出て自分の携帯電話で亜紀としばらく話をした後、また走って読書室に戻ってきた。
「神尾さん、亜紀OKですって。初めのうちは何だか嫌がっていたのですけど、一人亡くなっているのだからって言ったら、彼女、いいって言ってくれました」
「そりゃ有り難い。それでいつ亜紀さんと会えるのかな?」
「神尾さんの様子からすると、早い方がいいと思って、明日、二十三日の午前十時に『サイエンス』っていう、私たちがよく使っている喫茶店で会うことにしました。神尾さんは大丈夫ですか?」
「今一番大事なことは亜紀さんに会っていろいろと話を訊くことなんだから、当然大丈夫ですよ」
洋介は今から待ち遠しいような顔をして答えた。
翌朝、洋介はペールグリーンのエクストレイルに愛を乗せ、街の中心部を目指した。事件発生から三ヶ月が過ぎた六月下旬の梅雨の時期ではあったが、この日は晴れて日差しが強く少し暑く感じられた。『サイエンス』という喫茶店は、つくば市では一番賑やかな中心街のデパートの北側にある各種のテナントが入っているビルの三階にあった。駐車場の二階に車を止め、同じ階にあるペデストリアンデッキに出た。約束の時間までまだかなり間があったので、二人は備え付けのベンチに腰掛けた。
つくば市内では歩道を歩いている人を見かけることは駅周辺部を除けばほとんどないし、自転車に乗っている人も通学の中高生以外には少ない。つくばエキスプレスが開通する前のつくば市は公共交通機関の便が悪かったので、車がないと生活できないと言っても過言ではない程であった。今でも基本的にはそれほど大きく変わってないが、中心部であるつくば駅近くのこの地区だけは特別で、市内で唯一のデパートの前に設置されている僅かなスペースの駐輪場には自転車がはみ出して置かれているし、デパートやホテルや各種テナントなどを繋ぐペデストリアンデッキ上には多くの人々がゆったりと歩いている姿が見られる。つまり、ここにはつくばの人たちが集まってきており、知っている人に出くわす確率が最も高い場所なのである。最近になって大型のショッピングセンターがいくつかオープンしたので、この場所だけに集中している訳ではなくなったが、洋介は何度も知人が家族連れで買い物に来ているところを見ていたし、自分では気が付かなくても何度も知人に目撃されていることであろうと思っている。
この日は日曜日ということもあって、午前中でもかなりの人が来ていた。
「こんな所で愛ちゃんとベンチに座っていると、誰かに見られて愛ちゃんに迷惑がかかるかな?」
洋介はほんの少しだけ申し訳なさそうに言った。愛は怪訝そうに聞き返した。
「どうしてですか?」
「僕みたいなおじさんと座っていると、数多いる愛ちゃんのファンが、『愛ちゃん何であんなおじさんといるんだろう? 愛ちゃんの趣味って随分悪いんだなー』なんて思うんじゃないかなって」
「何を言っているんですか、神尾さんは。誰もそんなこと、思いはしませんわ。それに……」
愛は言葉の最後を濁した。ほんの少しの間の沈黙であったが、二人には随分と長い時間のように感じられた。
そんな雰囲気を断ち切るかのように、派手な薄手の服を着た亜紀がデパートの前をこちらに向かって歩いてくるのが見えた。愛はベンチから立ち上がると亜紀の方を向いて手を上げ大きく振った。亜紀も愛の姿を確認すると同じようにしながら笑顔で応えた。
しかし、愛の傍らに自分たちとは全く異なるカテゴリーに属する人間が、目のやり場に困りながらも執拗に頭の天辺から爪先まで確認するように見ているのを発見して、急に態度が堅いものに変わってしまうのではないかと洋介は心配になった。ところが亜紀は、そんなことはいつものことでどうということはないという素振りで足早に二人の所に来た。
亜紀は少し痩せ気味ではあるが、上背がかなりありスタイルは抜群でちょっと見はかなりの美人である。目はくっきりとした二重瞼で、頭髪は金色に近いような色に染めていた。
「亜紀、今日はどうも有り難う。こちらがいつもお話している神尾洋介さん。神尾さん、こちらが私のお友達の吉葉亜紀さんです」
「初めまして、神尾と申します。今日はせっかくの日曜日なのに、わざわざ出てきて頂きまして申し訳ありません」
「どうせブラブラしているんだから構わないよ。私、あの事件の後、超気持ち悪くて、誰かに話を聞いてもらいたいと思ってたんで、ちょうどよかった」
「それは有り難い。とにかく上の喫茶店に入りましょう」
洋介の言葉に愛は直ぐに反応して先頭に立って三階に上がっていった。
喫茶『サイエンス』では時間が早いせいか、学生風の男二人がカウンターに座り、若い女店員と何やら楽しそうに話しているだけで、他に客の姿は見えなかった。三人はカウンターから離れた場所でペデストリアンデッキが下に望める窓際のテーブルに座った。洋介は初対面の人と話をする時は、先ず相手の気持ちを和らげるために世間話から始めるのであるが、下手なことを話すと亜紀のご機嫌を損ねてしまいそうな気がしたので単刀直入に始めることにした。
「早速ですけど、愛さんから聞いたんですが、亜紀さんはS研究所M研究室で実験助手として勤務されていたそうですね」
「勤務してたって言ったって、単なるバイトで、それも週に二回で半日しか行ってなかったんだよ」
「ああ、そうなんですか。で、何曜日に出勤されていたんですか?」
洋介は既に愛から聞いて知っていることを訊いた。
「火曜日と木曜日の午後」
女店員が注文を訊きに来た。洋介はアメリカンコーヒーを、愛と亜紀はチーズケーキと紅茶のセットを頼んだ。
「どんなお仕事をされていたんですか?」
「仕事って言ったって、ただ言われたことをしてただけ」
「例えば?」
「実験している人に付いて、数字をノートに書いたり、実験で使う器具なんかを準備したり、言われた物を運んだりする簡単な仕事だよ」
「そうなんですか。ところで、亜紀さんはS研究所の港北副所長がフグ中毒で亡くなったことはもちろんご存じですよね」
「知ってるって、愛から聞いてるんでしょう?」
この手の若い女性は洋介にとって最も苦手なタイプであった。非常にやりにくかった。
「ええ、まあそうなんですが……。一応ご本人から直接お訊きしようと思ったものですから」
先が思いやられたが、自分を奮い立たせながら質問を続けることにした。
「港北副所長が亡くなった時、送別会に亜紀さんも出席されていたそうですね」
「出席したなんて言えないくらいだよ。送別会の日にただ花束を渡せって頼まれたから、決められた時間に渡しに行っただけなんだから」
「それじゃ、お料理なんかは食べられなかったんですか?」
「だからあー、花束を渡しに行っただけだったの。本当は彼氏とカラオケに行くことになってたんで、あたし、行きたくなかったんだけど」
そこに注文したものが運ばれてきた。女店員がそれぞれの飲み物とケーキをテーブルの上に置き終わるまで、洋介は我慢して黙った。
「ああ、そうなんですか。それじゃ、亜紀さんが谷村さんに花束を渡された時、港北副所長の様子はいかがでしたか?」
「いかがって言われたって、港北さんのことなんてよく見てなかったし、覚えてないよ」
亜紀は洋介のようなおじさん臭い人と話すのは途轍もなく無駄をしているように思っているとでも言いたげに答えた。
「あなたが花束を渡した時には港北副所長はお元気だったんでしょう?」
「ええと……。そうだ、隣に座っていた落合さんと笑いながら話してた」
「そうですか。港北副所長に何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?……、特に無かったと思うけどー……」
あまりにも亜紀の答え方が素気ないのに、はらはらしながら聞いていた愛がしびれを切らせて口を挿んだ。
「亜紀ってさ、何か人と変わったとこがあるでしょう。いつものように何か変わったことをしたのではないの?」
「あたしが何か変わったことをしたって? そうーねー……。あっ、そう言えば、港北さんがいい物を持ってたんで、あたし貰ってきたんだった」
「えっ、何ですか、それは?」
洋介は興奮したような大きな声で訊いた。
「あたし、ソースとか醤油とかの入れ物を趣味で集めてるの。コンビニで売っているお弁当なんかによく入っているのがあるでしょう。最近はポリエチレンか何かの薄っぺらな袋がほとんどなんで、本当に面白くなくなっちゃったんだよね。あれ、魚の形なんかが多いんだけど、港北さんの所にあったヤツ、かなり珍しいものだったんだ」
「珍しいって、どんな形だったんですか?」
「女の子のお人形さんみたいな容器だった。あれは珍しいやつだったなあ。あの形してて壊れてないのは初めてだった。ずーと前に、穴があいて潰れてたのを見たことがあったんだけどー」
「それで、亜紀さんはその珍しいお人形さんの容器をどうされたんですか?」
「もちろん、しっかりと頂いて家に置いてあるよ。だって、あんな珍しいもの滅多に手に入ることないもん」
「そういえば、前に亜紀の所に遊びに行った時、一度そのコレクションを見せてもらったことがありました。神尾さんねー、亜紀ったらほんとに変わっているのですよ。お醤油だとかソースだとかが入っていた小さな容器を冷凍庫に入れてしまってあるのです。時々出して臭いを嗅ぐのが趣味だっていうのですから、変人としか言い様はないわね」
「それはいい。亜紀さんはそのお人形さんの容器に入っているものの臭いも嗅いだんですか?」
「当たり前でしょ」
「それで、どんな臭いでしたか?」
「そうねー、色はお醤油みたいに黒っぽかったけど、臭いは随分ときつかったな。鼻にツーンときたもの」
「お酢みたいな感じでしたか?」
「お酢ねー。ちょっと違う感じだったけど、似てるっていえば似てたかも」
「亜紀さんは中国のお酢の臭いを嗅いだことがありますか?」
「中国のお酢? 嗅いだことないかもな」
「中国のお酢は日本のお酢とちょっと違っていて、色はお醤油みたいに黒っぽくて、臭いもかなり強い感じなんですよ」
「あ、そうー。それじゃ、あれは中国のお酢かも知れないなー」
「それはすごい。中身は残っていましたか?」
「ほんの少しだったけど、残ってた」
「今もそれ、冷凍庫に保存されているんでしょう?」
「もちろん。それに、中国のお酢だったら珍しいんで、これからも大切にしなくっちゃ」
「亜紀さん、それを私に見せていただけませんか?」
「うん、いいよ」
洋介は直ぐに席を立とうとしたが、亜紀は残っていたチーズケーキをしっかりと食べてから紅茶を飲み干し、愛もそれに付き合った。洋介から見ると、若い二人の動きは非常に緩慢なものに映り、歯痒く感じられた。