十七.圧力
時計は午後十時少し前を示していた。ホビークラブの受付では愛がずっと玄関の方に顔を向けて洋介の帰りを待っていた。少し離れた所では源三郎が優しい眼差しで愛のことを見守っていた。洋介が玄関に入るのをいち早く見つけた愛が受付の小さなガラス戸を開けて言った。
「あっ、洋介さん。ようやく戻られたのですね。先程から鹿子木さんが何回も電話を掛けてこられていますよ」
足早に受付の中に入ってから洋介は答えた。
「そうでしょうね。それで、鹿子木さんは何か言っていましたか?」
「何となく、元気のなさそうな声でしたけど、神尾さんがお帰りになってからお話しますって言われていました」
「ああ、そうですか。どうも有り難う」
あまりいい捜査結果ではなかったようだなと思ったところに電話のベルが鳴った。
「神尾さんですね。ようやくお帰りになったようですね」
「先程から何回もお電話を頂いたようで、済みませんでした。ところで、どうだったんですか、捜査の結果は?」
「それがですね、結論から言えばダメだったんですよ。神尾さんから電話を頂いてから直ぐに別件の捜査を切り上げてM研究室に行きました。送別会の当日、誰か港北に小さな瓶に入ったお酢をあげた人はいなかったかを、落合室長、田丸、土井、谷田に訊ねたのですが、皆そんなことは全く知らないと言うんです。もちろん、その後他の研究員にも訊いてみたんですが、同じ答えでした。もちろん、谷村にも電話しましたが、こちらもやはり同じでした」
鹿子木は非常にがっかりしたような声で洋介に捜査結果を報告した。
「神尾さん、私はあの人たちに訊いているうちに思ったんですけど、今回の事件で酢の物やお酢は本当に殺人の手段として使われたんでしょうかね。これだけ調べても何も出てこないところから考えると、もっと別の方法で港北は亡くなったのではないのでしょうか。電話では埒が明かないから、今からそっちへ行きますよ」
洋介が疲れた表情で受付の椅子に座ると、愛がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。
「洋介さん。今日はちょっと遅くなりましたから、私はこれで失礼します」
「ああ、私のことを待っていてくれたんだね。本当に有り難う」
愛は微笑みを残して受付を出た。玄関の外には源三郎が待っていて二人で家路に就いたようであった。
それから十五分もしないうちに元気のなさそうな姿の鹿子木が筑波ホビークラブの受付に現れた。
「神尾さん、実はですね……、あの研究所を管轄する省庁の上層部からうちの署長のところに圧力がかかったようなんです。今日、午前中に上司に呼ばれましてね、お説教を食らいました。どうも土井への尋問が悪かったようで、犯人扱いされたと怒っている様子なのです。『今回の事件はもともと食中毒だと思われるのに警察では勝手に殺人事件として酷い捜査をしているのではないか』と抗議があったそうです。その首謀者が私ということで散々叱られてしまいました。そんな訳で、私もあの事件だけを捜査していられなくなってしまいましてね、別の事件の捜査の手伝いをさせられていたんです」
「そうでしたか、それは大変でしたね」
「私と同じように殺人事件の可能性があると思っている他の刑事からも、『こんなに切羽詰った状況なのに何故酢の物にこだわっているんだ。もっと他のことを考えた方がいい』なんて言われているんですよ。それに、課長はもともと業務上過失致死で処理したいみたいでしたから、私の行動が気に入らないんです。私がこの事件の捜査をすることができるのもあと数日かも知れません。来週中には捜査会議が行われて、この事件は終わりにされるような気がします」
「鹿子木さん、あなたのお立場はよく分ります。しかし、よく考えてみると、研究室の皆さんがお酢のことを知らなかったのは当然かも知れませんよ。港北さんを殺そうと考えている人は、わざわざ皆に聞かれるようにお酢を渡すようなことはしないと思うんです。きっと他の人には気付かれないように渡したんではないかと思います」
「でも、酢の物やお酢が今回の事件に関係あるという根拠は全くない訳ですからね。あるとしたら神尾さんの直感だけです」
「鹿子木さん、確かに何の根拠もありません。私の思い付きだと思われるかも知れません。しかしですね、私は思い出したんですよ、ある天然物研究者がフグ毒のテトロドトキシンを単離した時のことを……」
洋介はほんのしばらくの間、焦点の定まらない目をしていたが、思い直したように言葉を続けた。
「天然物のエキスなどから活性を示す化合物を綺麗にして一つの化合物にまでする作業を単離精製と言うんですが、とても大変な作業らしいのです。生体から抽出されたエキスには非常に多くの物質が含まれていて、いろいろな手段を使って少しずつ綺麗にしていきます。最初は粗く分けて活性を調べます。活性というのは、この場合は毒性があるということです。もちろん、活性という言葉自体は悪い意味だけに使われる訳ではなく、良い作用があるという場合に多く用いられる言葉ですけどね。それで、この場合毒性があるという意味での活性が認められた部分をさらに分けて、また活性を調べる。これを何回も繰り返していって、その中のたった一つの化合物に活性があることを確認するのです。活性の認められた化合物は次にどんな化学構造をしているのかをいろいろな分析機器を用いて決めるという、これまた大変な作業が待っています。
その研究者がフグの毒性を示す化合物を単離精製した時、精製が進むにつれて活性を示す部分を溶解させるのが大変になっていったそうです。それを溶かすためにいろいろな溶媒を試したそうですが、その中で一番よく溶かす溶媒が希釈した酢酸、つまりお酢だったそうです。要するにフグ毒の成分であるテトロドトキシンという化合物はお酢にだけ良く溶けるのです。逆に言えば、他の溶媒には大変溶け難いということになります」
「なるほど、そういうことだったんですか。犯人が研究所の人間で化学的知識があれば、このことを利用した可能性がある、ということですね」
「そう思います。化学的知識がある人が皆このことを知っているとは思いませんが、ちょっと調べれば本に書いてあることなので、直ぐ分ることだと思うのです。港北さんは酢の物が好きだったということとテトロドトキシンが希釈した酢酸に溶けやすいという事実から考えれば、犯人が港北さんにテトロドトキシンを溶かしたお酢をあげたという仮定はそれほど現実味のないものとは言えないと考えたのです」
「分りました。M研究室以外の人たちや送別会が行われたフグ料理専門店の従業員たちにも聞いてみましょう。今日はお疲れのところに押し掛けてきて申し訳ありませんでした」
鹿子木はそう言うと、来た時よりは少し元気を取り戻して帰っていった。
翌日の夕方、洋介が例によって筑波ホビークラブの受付で新聞を読んでいると電話のベルが鳴った。
「神尾さん、参りましたよ。誰に訊いても皆お酢のことなんか知らないって言うんですよ。今日は先ずフグ料理専門店に行って、例の店主の初沢に訊いてみましたが、相変わらずつれない返事でした。そこの従業員二人にも訊いてみましたけどやはり無駄でした。それで、仕方がないのでまたS研究所に行きましてね、M研究室以外の研究員にも訊こうとしたんですが、これまでと全く対応が違うんです。上の方から箝口令でも出されているみたいで、まともに答えてもらえない状況でした。昨日は神尾さんの説明を聞いて少し期待していたんですが、もう八方塞がりの状況ですよ」
「そうでしたか。困りましたね。私はお酢で間違いないと思ったんですけどねー。鹿子木さん、少し時間をいただけませんか? もう一度最初からよく考えてみたいんです」
「ああ、いいですよ。どうせ私には来週の最後の捜査会議で総攻撃を受けることしか選択肢が残されていませんからね」
鹿子木は元気のかけらもないような声でそう答えると電話を切った。
鹿子木があれ程追い込まれているということは、洋介にももう時間はいくらも残されていないということになる。このままでは真の解決を見ることもなく事件に終止符が打たれてしまうのかと思うと流石の洋介も著しく気分が沈んだ。この夜は、東側の廊下の突き当たりにある洋介専用の小さな部屋でチリ産のシャルドネ種の白ワインを一本空にしてから寝苦しい夜を過ごした。