十六.R楼
R楼の受付には清水茂樹が既に来ていた。
「いやー、申し訳ない。夢中で捜し物をしていたら約束の時間を過ぎてしまった。ご免」
洋介は息を弾ませて謝った。
「とんでもない。わざわざ来てくれてどうも有り難う」
「あのー、遅れて来た上にこんなことを言って申し訳ないんだけど、ちょっと知り合いに電話しておきたいんだ。悪いけど先に座っていてくれない」
「ああ、いいよ。それじゃ、飲茶コースを頼んでおくよ。こっちは気にしないで、ゆっくり用事を済ませてしまってくれよ」
「申し訳ないけど、そうさせてもらうよ」
洋介はそう言うと、店の外に出て鹿子木の携帯に電話したがなかなか出てくれない。一旦切って警察署の方の番号を押そうとしていると、鹿子木から電話が入った。
「ああ、神尾さん。どうしたんですか?」
「鹿子木さん、今どこですか?」
「例の事件とは別の事件の捜査先で電話しているんですよ」
「そうですか。私は今、横浜中華街に来ているんです。ここでいい物を見つけましたよ」
「横浜中華街でいい物? 一体何ですか、それは」
「中国のお酢です。中国語では日本語の酢とは違う字を使っていますけどね。酉偏に昔という字を書きます」
「神尾さん、中国のお酢がどうしていい物なんですか? 私には皆目分りませんがね」
フグ毒の事件とは別の捜査をさせられていた鹿子木の機嫌はよくなかった。
「鹿子木さん、今まで酢の物についていろいろと捜査してきて頂きましたよね。今日ここに来て、私は直感的に思ったんですよ。酢の物ではなく、酢だって。つまり、今までは予め何らかの方法で酢の物にフグ毒を入れておいたものを港北さんが食べたのではないかと考えていたのですが、誰かが毒を入れたお酢を港北さんに渡し、それを料理に掛けて食べたのではないでしょうか。それも、きっと珍しいお酢を。私はさっき買った中国のお酢の瓶を持っています。お酒の四合瓶よりちょっと小さめですから、二合瓶くらいの大きさかな。もっとも、そんなに沢山のお酢は必要ないでしょうから、もっと小さな瓶に入っていたかも知れませんけどね。港北さんは喜んで何かの料理にそれを掛けて食べたために中毒死したんではないかと思うんです」
「うーん、それは面白い考え方ですね。有り得そうです。何しろ、港北の酢の物好きは皆がよく知っていたことでしたからね。お酢で渡せば一人だけを確実に狙うことが可能ですから。分りました。まだ、四時少し過ぎなので研究所の人たちも帰ってないでしょう。こっちの捜査をできるだけ早く切り上げてあそこに行って、小さな瓶に入ったお酢を渡した人がいなかったかどうか聞いてみますよ」
「申し訳ありませんが、そうしてください」
「ところで、神尾さんは今晩筑波にお帰りになりますか?」
「ええ、ちょっと遅くなると思いますが、今日中にはホビークラブに戻ります」
「それでは、必ず結果を今日中にお知らせします。楽しみにしていてください」
電話を切ると洋介は安心したような顔をして受付に戻り、店員に清水が待っている場所を訊いた。
二階の階段を上がって直ぐのテーブルで、清水は手持ち無沙汰を絵に描いたように自分の手帳を何度もパラパラと捲って時間を潰していた。
「いやー、申し訳ない」
「片付いた? 神尾も相変わらず忙しそうだね。わざわざ横浜まで来てもらっちゃって本当に済まなかったね」
「いや、いつもは暇でしようがないくらいなんだけど、今ちょっとした事件で相談されているんだよ。清水のお陰で横浜に来られて、中華街を歩いているうちに閃いたことがあってね。それで、相手の人に電話だけでもしておこうと思ったものだから……。さてと、今日の本題に入る前に、飲茶の方の注文はもう済んだの?」
「ああ、適当に選んでおいたよ」
そう言うと、清水は近くに待機していた若い女店員に目で合図した。
「お酒はどうする? 紹興酒でも貰おうか?」
「紹興酒か。うーん、非常に飲みたいところだけど、清水の相談にも素面で乗りたいし、帰ってからも頭を冴えさせておかなければならなくなってしまったから、今日は残念だけど中国茶だけにしておくよ」
「それじゃ、そうしよう。お茶は何にする? ウーロン、ジャスミン、プーアル茶があるんだけど」
「そうだなあ、ウーロン茶とジャスミン茶は時々飲んでいるから、今日はプーアル茶にしてみようかな」
清水はテーブルの脇で二人が注文を決めるのを待っていてくれた女店員にプーアル茶を注文した。
直ぐにお茶が大きな急須に入れられて運ばれてきた。少し待ってから茶碗に注ぐように伝えると、女店員は料理を取りに行った。洋介は喉が乾いていたので待ちきれずに少しだけ茶碗に注いだ。お茶はまだ十分に抽出されておらず、薄赤い色の透明で綺麗な液体が出てきた。洋介が旨そうに飲み終えると、海老入り蒸し餃子、フカヒレ入りシュウマイ、スペアリブの黒豆蒸し、鳥肉入り春巻き、海老の包み揚げが次々と運ばれてきた。二人は一度に沢山の料理が運ばれてきたので思わず顔を見合わせて微笑んだ。
「今日はあまり長居はできそうもない感じだね」
洋介はそう感想を述べた。
「大丈夫だよ、気にしなくて。料理の方は先に頼んでおいたからどんどん出てきただけで、早く追い出そうという意志表示ではないと思うから」
清水はこの店をよく利用しているような口ぶりで言った。
「さて、そろそろ本題に入るとしようか。この間の電話では、研究所の人間関係か何かで悩んでいるようだったね。少し詳しく話してくれない?」
「それじゃ、よろしくお願いします。簡単に言ってしまえば、組織の中でうまくやれない後輩をどう指導したら良いのか、ということなんだ。神尾なら分かってもらえると思うけど、研究所では自己完結型の研究を行うことは希で、チームを組んで研究することが当たり前になっているんだ」
「ああ、よく分るよ。僕がいた研究所もそうだった」
「うちの研究室でも一昨年までは皆もそれが当然だと思っていて、あまり問題はなかったんだ。ところが、昨年新人が配属になってね。新人と言ってもH大学の博士課程を修了した後、アメリカの大学でポスドクを二年間やってきた人で、それなりの成果を上げてきたようなんだ」
「その新人さんの人柄はどうなんだい?」
「ちょっと見は悪くないんだけれどね。専門領域に関する知識も広く確実だし、文献などの調査もよくやるし、研究に対する情熱も人並み以上にあるんだな」
「そこまでは申し分なし、っていう訳だ」
「そうなんだ。ただね、他の人が自分より劣っているように見えるみたいでね。年下の人ばかりか、同僚や上司、酷い場合は研究所長の言動まで、まるで嘲笑うような口調で非難するんだよ。それが独り言で済んでいるうちはいいんだけれど、他のグループとの研究打ち合わせの時に出てしまうんだ。彼の指摘していることはそう間違ってはいないと思うんだけれど、所詮独り善がりの範疇を出ることはできてないんだ。その上、相手と話し合ってお互いの了解の下にいい方向に進んでいこうという意思は全くと言ってよい程見られない。やられた方は怒って、『もう彼とは一緒に研究をしたくない』ということになってしまうことが結構あるんだよ」
「なるほどね。清水としては、その新人さんがもう少し上手くやってくれれば、彼の優秀さを周りが認めてくれて、彼も随分とやり易くなると思っているので、大いに悩んでいるという訳だね」
「そうなんだよ。その上、上司には僕が上手く指導するようにって言われてしまったし、本当に困っているんだ」
「大変だね。大体理解できたよ。ところでさ、せっかくの飲茶だし少し食べながら話そうよ。しかし、飲茶といっても、かなり食べ出があるねえ、食べきれないかも知れない」
洋介は酢の捜査を鹿子木に依頼できたのと、清水の悩みがおおよそ理解できたのとで一安心したのか、急に空腹感を覚えた。二人はしばらくの間出てきた料理を食べることに専念した。自分たちの胃袋がある程度満たされたところで、話題を元に戻した。
「ところで、その新人さんは学生時代に何かスポーツをやっていたんだろうか? それもチームプレイが必要な種類のものを」
「詳しくは知らないけど、何かの個人戦の格闘技を少しやっていたようなことを言っていたね。」
「そうだとするとチームプレイの経験はあまりなさそうだね。それじゃ、二段階の対応策を取る必要があるね」
「えっ、あるの? 対応策が」
「うーん、対応策と言えるかどうか分らないけど、清水がその新人さんに接していく方法とでも言ったほうがいいのかも知れない」
そこに、硬い麺を使った五目焼きそばが大盛りで運ばれてきた。
「うわっ、随分と量が多いな。二人で食べきれるかな」
洋介はそう言うと直ぐに五目焼きそばを小皿に取り分け、美味しそうに食べ始めた。
「どんなことをすればいいんだい?」
「一段階目は、新人さんの生き方が確立されてしまったものかどうかを判断することだと思うんだ」
「どんなふうにやればいいんだい?」
「とにかく、一度その新人さんと話し合いを行なった後でチャンスを与えてほしいんだ」
「チャンスと言うと?」
「今やっている研究では、もう同じグループのメンバーとスムーズにやれてないんだろう?」
「ああ、そうだよ。あっという間にトラブルが起こった」
「それでは、今やってもらっている研究への参加は中止してもらって、グループで進めてゆく研究テーマを新たに彼に与えてほしいんだ。ただし、それを始める前に、チームワークを発揮しなければ研究が進まないことを彼によく説明してあげるんだ。彼が自分の考えとして本当に納得するまでじっくりと話し合うことが必要だね。その際、決して押し付けにならないように十分注意しなければいけないと思うんだけれどね。人間というものは、自分自身が判断し結論を出した事でないと結局は本当には納得しないんだと思う。つまり、他人が言ったことだと、表面的には同意したとしても心の底からそう思ってはいないんだね。清水の粘り強い説明に対して、新人さんの反発が酷くて受け入れてくれない場合は、残念ながら、その時点で新人さんの生き方は確立されてしまっていると判断していいと思うよ。
もし首尾よく清水の言うことを受け入れてくれて新しいグループでの研究が始まったら、清水はそれにできるだけ密着し、彼に問題があったら直ぐにアドバイスしてあげてほしい。ただし、皆の前では彼にアドバイスしてはいけない。彼と二人だけになる機会を作っていろいろとアドバイスしてもらいたいんだ。それがうまくいって、彼がチームの皆と何とかやっていけるようであれば、そのまま見守っていけばいいと思う。その状態が続けば、もうその新人さんは大丈夫だろうと思うよ。しかし、清水の努力にも拘わらず新人さんがどうしても皆とやっていけないようなら、新人さんの生き方は確立されてしまっている可能性が非常に高いと思うんだ。そう判断したら二段階目の対処法を取らざるを得ないだろうね」
「なるほどね。今、新しい研究テーマを始めるところなので丁度良いタイミングだと思う。それで、彼の生き方が確立されてしまっているかどうかは、どのタイミングでどうやって判断するんだい?」
「それは、清水の感性で決めるしかないだろうね」
「そうか。チームプレイが必要な研究を彼ができるようになるかどうかという重要なことについては僕が判断しなければいけないんだ……。それでさ、一人でする仕事って、一体どんな仕事のことを言っているんだい?」
「彼の生き方が確立されてしまっていると判断したら、彼にはチームワークを必要としない研究をやってもらうしかないと思うよ。例えば、特命研究ということにして、ある狭い範囲のテーマを与えてあげてそれに専念してもらうとか、一人でやってもいいようなごく基礎的な研究に取り組んでもらうとかするんだね。これが二段階目の対処法なんだ」
「なるほどね」
「まあ、新人といっても、その人はそんなに若い方じゃないから、生き方を変えてもらうのは、かなり難しいとは思うね。ここからは一つの考え方として聞いて欲しいんだ。この話は昔僕が何かの研修の時に講師の方から聞いた話なんだけど、面白かったのでよく覚えているんだ。
ある組織に一人の研究者がいるとするね。その人が自分の属している組織の風土を理解し自分でも納得して仕事を進める人であれば、もちろん申し分ないよね。でも、もしその人が組織の風土を理解できなくて皆とも一体化してやってゆけない場合は、できるだけ早くその組織から離れてもらうのが一番いいのだそうだ。特に、仕事がよくできるにも拘らず組織の風土が理解できない人は、最も早く出ていってもらわなければいけないんだそうだよ」
「仕事がよくできる人程、早く出ていってもらうのかい?」
「始めの内は、チームに貢献してくれるんだが、次第に皆の足を引っ張るようになっていくと言われているんだね」
「そういうものなのかねー」
「もちろん、これは一つの考え方なんだから、別の考え方があってもいいと思うけど、僕はこの考え方を支持したいね。清水は、その新人さんがチームから出ていってもらうべき人かどうかを判断するという、非常に重要な役割をこなさなければいけないのだから、是非慎重にやって欲しいんだよ。何せ、一人の研究者の人生を決めかねない判断になるんだからね。ただね、その新人さんがチームワークを必要とする研究に向かないとしても、決して研究者として生きてゆけない訳ではないと思うんだ。もしかすると本当に独創的な研究はそういう研究者にしかできないかもしれないからね。だから、清水が二段階目の対処法を実施する時は、その新人さんの特性を熟慮した上でテーマを決めてほしいんだ」
「よく分かったよ。判断する前に彼に十分なチャンスを与えてできる限りのアドバイスをするつもりで取り組むよ。それでダメだったら、彼に一番相応しいと思われるテーマを見つけるように努力するよ。本当に参考になったよ。どうも有り難う。やはり、神尾に相談して良かった」
飲茶コースの最後に、甘い点心である饅頭が出てきた。清水は対処法が見出せた安心感と、これから直面するであろう困難に立ち向かう覚悟とで、少し興奮状態になったままお茶と饅頭を口に入れた。一方の洋介は自分の役割が一応果たせた安堵感とつくばに帰ってから起こるであろう事態への期待と不安とで、清水と同じように気分が高まっていた。
横浜からの帰り道は洋介にとって本当に長かった。鹿子木と直ぐにでも連絡をとって先程の捜査結果を聞きたいところであったが、恐らくじっくりと話を聞かなければならない状況だろうと思い、電話をするのは止めておいた。
関内から京浜東北線に乗り、秋葉原で降りてTXの改札のところの掲示を見るとつくば行きの区間快速は出たばかりで、十五分程待たされてから電車に乗った。洋介の頭の中では、先程中華街で清水と話したことと鹿子木の捜査のこととが交互に湧くように出てきて、勝手な妄想となって広がっていった。
こういう状態になると妄想はどんどん一人歩きする。自分でもとんでもないと思えるような方向に展開していって、ふっと我に戻って、『これじゃいけない、現実に戻さなければ』とは考えるのであるが、いつの間にかまた妄想に支配されている自分がいた。
万博記念公園駅で電車を降り、駐車場まで洋介にしては珍しく足早で歩き、エクストレイルに乗り込むと急いで筑波ホビークラブに向かった。