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十五.横浜中華街

 愛が洋介の両親とハーブティーを飲んでいた時、洋介はいつものように受付で新聞に目を通していた。電話のベルが静けさを破った。

「また鹿子木さんかな。捜査は進展していないからなあ」

 独り言を言いながら、受話器を取った。

「はい、筑波ホビークラブです」

「あのー、私は神尾洋介さんと大学時代ご一緒させて頂きました清水茂樹と申します。神尾さんはいらっしゃいますでしょうか?」

 清水は洋介と大学の三年生から大学院修士課程まで合計四年間を一緒に研究した気心の知れた友人であり、修士課程終了後横浜にあるH化学の研究所に就職した。卒業後は数年に一度同期会で会う程度であった。


「いやー、お久しぶり。僕です、神尾です」

「良かった、居てくれて。相変わらず元気そうだね」

「ええ、お陰様でのんびりと暮らしています。清水はどう? 電話の声でよく分らないけど、何だか元気ないみたいに聞こえるね」

「うーん、今ちょっと悩んでいてね。神尾に相談に乗ってもらいたいと思って電話したんだよ」

「ああ、いいよ。どうせ僕はいつでも暇といえば暇なんだから。ところで、一体何なんだい、悩み事とは?」

「研究所の人間関係なんだ。部下の指導法と言ったほうがいいのかもしれない。神尾が筑波ホビークラブで会員の人たちの相談に乗ってあげていることを思い出したものだから、電話したんだよ。近い内に一度つくばに行くから、会ってくれないかな?」

「ああ、いいよ……。そうだなー、今回は僕のほうがそっちに行こうかな」

「いや、とんでもない。こっちがお願いしていることなんだから、当然そちらに行かなくちゃ」

「そんなに気にしなくていいよ。僕のような仕事をしていると、いつも同じ場所ばかりにいて外に出かけることが少ないものだから、たまには外出してみたくなるんだよ。清水は横浜だったよね。久しぶりに横浜の海も見たいし、そっちに行くよ」


「分かった。それじゃ、どこで会おうかな……」

「中華街にしよう。あそこで飲茶でもしながら話をしようよ。店は清水に任せるよ」

「飲茶か。そうだね、そうしよう。店はどこにしようかな……。ああ、そうだ。『R楼』にしよう。広東料理の店で、あそこは結構美味いって若い女の子たちが言っているから」

「分かった。『R楼』だね。店の場所は自分で探すよ、中華街も歩いてみたいから。そんなに難しくないだろう? その店を見つけるの」

「ああ、大丈夫だと思うよ。場所は、中華街大通りっていうメインストリートに面していて、中華街のほぼ中央部にあるよ」

「それで、いつが都合いいんだい、そっちは? こっちはいつでもOKだけどさ」

「そうだね、僕としてはできるだけ早い方がいいから、今週の木曜日、六月二十日の午後でどう?」

「ああ、いいよ。で、何時に行けばいいんだい?」

「研究所の方は、フレックスタイム制が導入されていて、三時以降だったら帰れるから、中華街まで三十分かかるとして、三時半くらいだったら、行けるよ」

「そう慌てて来なくてもいいよ。そうだな、四時ということにしよう」

「平日で悪いね」

「いや、こっちは平日の方が暇なんだ。気にしなくていいよ」

「それじゃ、よろしくお願いします」


 六月二十日、洋介は昼前に筑波ホビークラブを出た。愛用のペールグリーンのエクストレイルに乗り、内町下の交差点を通り越し、桜川を渡ってから左折して東大通ひがしおおどおりを走った後、西大通りに入り、更に右折して暫く走り、万博記念公園駅前の駐車場に車を入れた。TXつくば駅周辺の駐車場は料金が高いので二つ先の駅まで来て駐車することにしていた。万博記念公園駅から区間快速に乗ると、車内は空いていた。座席にゆったりと腰掛け、横浜の海のどことなくエキゾチックな風景を想像した。久しぶりに港の見える丘公園に行ってみたいななどと思っているうちに五十分弱で秋葉原に着いた。


 二〇〇五年八月に開業したつくばエキスプレス、通称TXは、快速電車ならつくば秋葉原間を四十五分で運行することが一つの売りとなっている。TXが開業する前のつくばは陸の孤島と呼ばれていて、中心部からでも東京方面に出かけるためには車を三十分以上走らせて常磐線の駅まで出た後、一時間程度電車に揺られて行かなければならなかったので結構大変であった。

 秋葉原で京浜東北線に乗り換え、関内で降りた。南口の改札口を出ると左側に横浜市役所があり、みなと大通りを挟んで正面に横浜スタジアムが見える。この日はプロ野球の試合の予定は組まれていなかったためひっそりとしていたスタジアムの周りに沿って歩き、大桟橋通りに架かる歩道橋を渡って中華街の北西に位置する玄武門から中に入っていった。先ず約束の場所を確かめてから街を歩いてみるつもりであった。


 流石に中華街である。当然のことながら漢字がやたらと多く、街の雰囲気も周囲のビル街とは全く異なっている。平日の午後で夜にはまだ間があるためか人影はそれ程多くなかった。R楼は直ぐに分かった。一安心して、他の店をいくつか眺めながらゆっくりと歩いた。飲食店の数はとにかく多い。二百店以上の中国料理店があるそうだ。店の入口にはメニューがスタンドの上に開いて置かれ、通りを歩く人が気安くページをめくってみることができるようになっていた。雑貨店にはいかにも中国らしい商品がこれでもかというくらい並べられていた。洋介は食料品が置いてある店に入った。ぎっしりと商品が並べられている棚に目をやった。各種の乾燥食材、雑貨品、中国酒や調味料の瓶などがあったのでいくつかを手にとって眺めた。

「今日は帰りの運転があるから残念ながら中国酒は飲めそうにないな。駅から歩いて帰れる距離に家があれば飲んでいけるのになあ。タクシーで往復する程の身分ではないし、仕方ないか……」

 そう呟きながら店を出た。


 中華街大通りの東の端まで行かないうちに右に曲がって上海路を歩き、いくつかの角を曲がって元町に出た。横浜一のファッショナブルストリートと言われているだけのことはあって、しゃれた雑貨販売店やレストランなどあまり間口の広くない店が通りに面して並んでいた。人気のあるバッグ店の前には長椅子が用意されていて、女性たちが店内でいろいろと物色している間、男性たちが時間を潰せるように灰皿まで置いてあった。

 感じのいい喫茶店でアメリカンコーヒーを飲んでひと休みした後、元町プラザの前を通り、右手のだらだら坂をゆっくりと上って港の見える丘公園に入っていった。確かにいい眺めだ。右手には横浜ベイブリッジが望め、左手には氷川丸を浮かべた横浜港が見える。展望台からくねくねと坂と階段を下って歩いた。何組かのペアが下から上ってきてすれ違った。ここはデートコースにはもってこいの場所である。


 しかし、何か変だ。

 さっきから期待していた横浜の街や海を見ているのに洋介は楽しめていない。何かが洋介の頭に侵入しているのだが、それが何だかまだ分からなかった。洋介は少し苛々してきた。いくつかの展示館に入ってみた。いつもの状態の洋介であれば、興味を抱くような展示があったはずであるが、上の空の状態になっていてほとんど頭に残らず、山下公園まで来た。公園の中を『心ここに在らず』の状態で歩き、『赤い靴履いてた女の子像』の前で歩みを止めた。

「いったい、いつからこんな状態になってしまったんだろう?」

 洋介は今日の自分の行動を振り返ってみた。つくばを出た時は普通であった。電車の中でも、横浜スタジアムの傍を歩いていた時もそうであった。

「そうだ、中華街だ。あそこを歩いているうちにおかしくなったのだ」

 場所は分かったが、理由はまだ分らない。

「とにかく、中華街に戻ってみよう」


 急に早足になった。中華街までそう遠くないのに、なかなか着かない。ほとんど小走りの状態で市場通りから中華街に入っていった。中華街大通りと交差する所でさっきの食料品店が目に入った。

「ここかも知れない」

 洋介は直感的にそう思った。その店に飛び込み、二時間弱前に眺めた瓶が置かれている棚に目をやった。中国酒が何種類も置かれている隣に中国の酢が何本か並べられていた。

「これだ」

 周囲に客がいることも忘れて大きな声で言った。さっきこの店に寄った時、ガラス製の中国酢のビンのラベルに書かれてあった『醋』という文字が頭に焼き付いていたのだ。『醋』という文字は日本語では『酢』を意味することに直ぐに気付かなかったのかも知れない。あるいは、『醋』という言葉と今回のフグ毒事件の『酢の物』とが自分の頭の中で別々に動き出し、交点を結ぶまでにかなりの時間が掛かってしまったのかも知れない。洋介は棚にある酢の瓶に貼ってあるラベルを凝視した。酒と比べて酢は何種類も置いてない。この店には四種類しかなかった。


 店主に聞いてみた。

「おじさん、中国の酢はこれで全部? 以前、中国の人に、あちらでは山西省が酢の生産地としては有名だって聞いたことがあるんだけど、ここには置いてないね」

「山西省のものは味が強くて色も濃いんで、日本では出足が鈍いんだよ。中国料理店の料理人は皆この江蘇省産の酢を使っているんだよ」

 店主はそう答えた。洋介は江蘇省産の酢を一瓶買った。店主が割れないようにパッキンにくるんで渡してくれたものをバッグに入れると、道の反対側にあるもう一軒の食料品店にも入ってみた。ここには中国酢は一種類しか置いてなかった。

「他の店も見てみよう」

 横道にも入ってみたが、中国酢を置いてある店はこの二軒の他には見つからなかった。腕時計を見た。四時を三分程過ぎていた。

「あっ、いけない。夢中になっていて遅刻してしまった」

 急いで約束のR楼に向かった。


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