十三.動機
「いったいどうしたんですか? そんなに慌てて」
「神尾さん。分かったんです、強い動機を持っている男が」
「それは良かった。詳しく話してください」
洋介はこの二週間、フグ中毒事件のことを忘れていた。久しぶりに奈津江と会い、昔と変わらない理知的な彼女と自分との幼い頃の思い出が彼の頭を占拠していた。鹿子木の来訪で突然現実に引き戻された。
「この前、神尾さんに言われたように、あれから何回もあの研究所に話を聞きに行ったんです。随分と嫌みを言われましたけれどね。でも、足繁く通った甲斐がありましたよ。神尾さんも土井孝雄という研究者とこの前会われましたよね。彼についてどんな印象を持たれました?」
「ああ、土井孝雄さんね。短い時間でしたけれど、随分と体格の良い方でしたね。それと、何となくアメリカの匂いがする人でした。あと、自信満々な感じの話し方をする印象がありましたが、その他の点では特に他の研究者の方々と違う印象はなかったように思えましたけど……」
「確かにあの時は特別な印象を与えなかったかも知れませんが、土井という男は他の人たちよりずっと港北のことを恨んでいたようです。最初のうちは皆なかなか本当のことを話してくれなかったのですが、とうとう幹事だった田丸が教えてくれましたよ。
土井という男は現在三十四歳で、以前、アメリカの有名な大学に留学していたそうなんです。そこではなかなか良い環境で研究していたようで、研究業績も沢山上げ、専門誌に何報もトップネームで投稿していたそうです。三年前に帰国してあの研究室に戻ってきたんですが、神尾さんもご存知のように、自分の業績がほとんど全て当時の港北室長のものになってしまうことに相当腹を立てていたらしいんです。それでも随分と我慢をしていたようなのですが、とうとう一年半程前に、港北に直談判したらしいのです」
「ほう、なかなかやりますね、土井さんという人は。もっとも、それが当たり前のことなんですけどね……。それで、直談判の結末はどうだったんですか? 恐らく逆効果だったと思いますが」
「神尾さん、そう先を読まないでくださいよ。やりにくいんだから」
鹿子木は口を尖らせて言った。自分が必死の思いでようやく訊き出した重要な情報を、ろくに努力もしないでのほほんとしていた人に簡単に言って欲しくないとでも言いたげに。
洋介は笑いながら先を促した。
「直談判した直ぐ後、土井は重要な研究チームから外されてしまい、成果がなかなか上がらない地味な研究をしているチームに回されてしまったんだそうです。それで、土井は再び港北に直談判したのですが、事態を良くすることはできなかったそうです」
「そうですか。それで、この話はご本人の土井さんにも確認したのですか?」
「いいえ、もちろん未だですよ」
「それにしてはずいぶんと詳しい状況を掴みましたね」
「それがですね、田丸によれば、土井が相当怒って研究室の人たちに直談判の様子をこと細かに話したそうなんです」
「なるほどね。それで、土井さんに関する情報は田丸さんからしか得られなかったのですか?」
「いいえ。田丸に聞いた後、何人かの人にも彼から聞いた情報を少し臭わせてみたんですよ。もちろん、田丸の名前は出しませんでしたけれどね。そうしたら、同じようなことを言ってくれましたよ。皆、周りの人を陥れたくないという気持ちが相当強かったようですね」
「そうでしたか……。やっぱり、強い動機を持っていた人が現れましたか」
「神尾さん、新たな情報がもう一つあるんですよ」
鹿子木は得意そうに言った。
「いったい何ですか、それは?」
「酢の物ですよ」
「えっ、酢の物に関して何か掴んだのですか?」
「送別会のメニューを決める前に土井が酢の物のことを口にしたそうです」
「そうですか。それについても詳しく話してください」
「田丸から土井に関する情報を聞いた後、何人かの人に確かめたって話しましたよね。その中に谷田もいたんです。谷田は土井とかなり親しかったらしくて、土井はいろいろなことを谷田に話していたようです。田丸が研究室の皆に、落合室長に港北の意向を訊いてほしいと頼んだということを話した後で、土井と谷田が二人だけになった時、土井が悔しそうに、『どうせフグ料理かカニ料理か四川料理にして、それに酢の物を付けろと言うに決まっているじゃないか』と言ったそうです」
「なるほどね。谷田さんもこの前お話を伺った時には特に印象に残ることは言われなかったように思いますけど。うーん、でも、皆さんのお話だと、港北副所長の好みの料理については研究室の人なら誰でも知っていたということでしたよね。メニューが決まる前に話したって特におかしいということにはならないのではないですか?」
「確かにその通りなのですが、谷田の話では、土井がそう言った時の口調というか雰囲気は凄まじいものがあったようです。谷田の言葉を借りれば、『もう許さん』といった感じだったそうです」
「うーん、土井さんが受けた仕打ちからすれば、まあ当然とも言えるなあ。でも、直談判したのは一年半前でしたよね。その後落合室長に代わった訳だから、土井さんは研究がやり易くなったのではないのですか?」
「ところが、土井の場合も谷村のケースと同様、港北が遠隔操作していて土井のやりたい研究はできず、相変わらず基礎的な研究を続けざるを得なかったそうです。だから、恨みは更に募ってきたと考えられます。やはり土井が怪しいと思うでしょう?」
「なるほど、そうだったんですか。しかし、今のところ動機はしっかりあるとしても、証拠になるものは何もないですよね。相当慎重に事を運ばないといけませんね」
「おっしゃる通りですが、ここまで分かってきた以上、土井には明日の日曜日に任意で署にきてもらって詳しく話を訊く予定です。それで、今日は神尾さんに何かアドバイスをいただけないかと思いまして来たような訳です。ひとつよろしくお願いします」
「アドバイスですか。うーん、そうですねー……。それじゃ、一つ土井さんに訊いて頂こうかな。土井さんが釣りを趣味にしているかどうかって。特に海釣りをやるかどうかを訊いていただけますか?」
「そんなことは簡単ですが、酢の物といい、海釣りといい、いったい今度の事件とどう関わりがあるって言うのですか?」
「いや、単なる私の勝手な推測なので、話が繋がったらきちんとお話しますよ。それまで待ってください。そうでないと、私の思い込みのために他の人が迷惑するようなことになったら申し訳ないでしょう」
「まったく、いつも神尾さんは本当の狙いを話してくれないんだからなー。まあ、しょうがないか。やってみますよ」
「鹿子木さん、土井さんが犯人だとは決まっていないんです。くれぐれも配慮して事情聴取してくださいよ」
「分かっていますよ。これでも刑事の端くれなんですからね」
鹿子木は事件が少し動いたような状況になったので、興奮したような口調で答えると、筑波ホビークラブを後にした。
飾り気というものを全く感じさせない部屋である。整理整頓など考える必要がない程物が置かれていない。あるのは部屋の中央にグレーの四角い小さなテーブルとそれを挟んで対面するように置かれた二脚の椅子のセット、机の上の一番安い灰皿とこれまた一番安い電気スタンド、部屋の隅にある事情聴取の内容を書き留めるための小さな机と椅子だけである。土井孝雄はつくば東警察署刑事課の取り調べ室にいた。正面には鹿子木が湧き出る意欲を何とか覆い隠そうとするような表情で座っていた。
「土井さん、今日はお忙しいところ、わざわざお越し頂きまして申し訳ありません。電話でもお話しましたように、港北副所長の中毒死に関して土井さんに詳しくお話をお訊きしたいと思いまして来て頂いたような訳でして、どうかご協力ください」
「はあ、研究所のほうで鹿子木さんに何回もお話した以上のことを私は知りませんので、何の為にここに呼ばれなければならないのかよく理解できませんが、私にできることでしたら協力するつもりで今日は参りました。ただ、以前申し上げた以上のことは何も出てこないと思いますけど、何なりとお訊きください」
土井孝雄の言い方は静かではあるものの、相手を拒絶しているのが鹿子木にも十分に感じられるものであった。
「ご協力、感謝します。私も何回もそちらの研究室に伺って同じことばかり訊いているように受け取られていると思いますが、皆さん直ぐには本当のことを言っていただけないものですから。正直申し上げて、我々警察でも今回の中毒事件が単なる料理人のミスによる業務上過失致死事件なのか、そうでないのか、よく分かっていないのです。ただ、いろいろと皆さんに事情をお訊きしておりますと、港北副所長は随分と周囲の方々に良く思われていなかったようですね」
「そんなことはずっと以前からお分かりになっていたことでしょう」
「その通りですが、私たちのような立場から言わせていただければ、もしこれが殺人事件だとすれば動機を持っていた人は周りに何人もいるということになります」
「そんな人たちの中で、一番強い動機を持っていそうなのがこの私ということになって、今日ここに呼ばれたという筋書きだった訳ですね」
「いや、そういうことではありませんが……」
鹿子木は土井の言うことが図星だったので、少し怯んだ。
それでも鹿子木はほんの少しの間を置いてから切り返した。
「それでは土井さん。さっきあなたがいみじくもおっしゃいましたが、港北副所長のことを一番恨んでいたのは土井さんだったのですか?」
「そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。確かに私は副所長のことを恨んでいました。でも、それは私に限ったことではないと思います。私のような思いをしていた人はいくらでもいたと思います」
「そうですか。ところで、土井さんはどうして港北副所長に対してそういう気持ちを持たれるようになったのですか?」
鹿子木は田丸や谷田から得ていた情報など全く知らないような顔をしてそう訊いた。
「アメリカに留学していた時の状況と日本に帰国して今の研究所で研究している状況とがあまりにもかけ離れていたからです。鹿子木さんはとっくにご存知でしょうが、私は、アメリカのかなり有名な大学に留学していたのです。そこはなかなかいい雰囲気で研究できる環境だったのです。今から思うと、あそこは最高だったなあ……。
研究業績も随分と上げることができました。そして、何よりも良かったのは、実際に研究した人がその成果を世の中に発表できる環境にあったことなのです。ですから、専門誌に何報も私がトップネームで投稿できたのです。私は自由の国、アメリカを満喫して帰国したという訳です。もちろん、アメリカが全てこういう環境にあるとは思っていませんが、当時の私のボスはそういう人だったのです。後で分かったことなのですが、あのようにできるかどうかはほとんど全てボスの人間性によって決まるようですけど。とにかく、三年前、私は意気揚々と帰国して、今の研究室に戻ってきた訳です」
土井はここまでは目を輝かせて話した。研究者の世界がほとんど分かっていない鹿子木でさえ、どんなに彼のアメリカでの研究生活が素晴らしかったかが想像できるように思える程の表情が土井にはあった。
しかし、その生き生きとした表情は直ぐに消えた。
「帰国したばかりの頃の私は研究に没頭していました。一年くらいはそんな状態でいられたので、アメリカにいた時と同じくらいの研究成果が得られたのです。その後です、自分が置かれている状況が全く異なっていることを思い知らされたのは……。
私は帰国後に得られた結果をまとめて専門誌に投稿する準備をしていました。当然私がトップネームで、協力してくれた人だけを共同研究者として名前を載せようとしていたのです。ある程度論文が纏まったので、当時副室長をされていた落合さんに一応お話しておいた方がいいと思って、原稿をお見せしたのです。その時の落合さんの顔は今でも忘れることができません。一瞬でしたが、顔面蒼白になられました。そして直ぐにご自分を取り戻されてこう言われたのです。『土井君、著者には港北室長のお名前を加えていただけませんか。ここでは、そういうことになっているものですから』と。その時、私は思いました。『著者の最後に港北室長の名前を加えるくらい、まあいいか』とね。それで、『はい、分りました。港北室長のお陰で研究できている訳ですものね』と答えて、その日は終わったのです」
土井はその時の情景がありありと蘇ってきたようで、目に涙が溢れそうになっていた。
「翌日、落合副室長に呼ばれました。副室長が暑くもないのに額に汗をかいているのがはっきりと分りました。そして辛そうにこう言われました。『土井君、本当に申し訳ないのだけれど、トップネームは港北室長にして頂きたいのです』と。私は直ぐには状況が飲み込めませんでした。それで、『えっ、何ですって』と聞き返したのです。普通の人だったら、そんな時自分の持っている権力というか、地位というかをちらつかせるのでしょうが、落合さんは本当に善良な人なのですね、益々申し訳ないという顔をされて、同じ言葉を繰り返されたのです。私は『そんなこと、無茶苦茶ですよ。だいたい、港北室長はこの研究にほとんどタッチされていなかったではありませんか』と思わず叫んでしまいました。
今から思えば、落合さんはどんなにか辛い思いをされながら私に説明していたのでしょう。でも、その時の私にはそんなことは理解できなかったのです。だから、ありったけの文句を言いました。一時間以上抗議を続けていたと思います。結局、落合さんはご自分の主張を変えようとはされませんでした。もちろん、私も直ぐには従う気持ちにはなれなかったものですから、落合さんとの険悪な状況が一週間程続いたのです。最後に、『港北室長をトップネームにしない限り、この研究室ではその論文の投稿許可が出ない』と言われてしまい、結局、私が折れざるを得なかったのです。それで、しぶしぶ港北室長をトップネームにして専門誌に投稿したのでした」
土井の目から我慢しきれなかった一粒の涙が頬を伝わって流れた。
「それから半年後に私の堪忍袋の緒が切れたのです。帰国後の第二報目の投稿準備がほぼ終わり、また、トップネームを誰にするかの問題になりました。この第二報目は、私にとって研究者生命を賭けると言ってもよいほど大変重要な内容だったのです。これまでまだ誰も提唱したことのない新たな概念を打ち立てるための基礎となる研究内容です。その後に続く一連の研究を的確に行うことによって、最初の論文でトップネームとなっている著者が学会で大きく評価されることになると思われるのです。ですから、私はどうしても自分がトップネームで投稿したかったのです。あの手この手で落合さんと交渉したのですが結果は前回と同じでした。私は我慢できませんでした。それで、とうとう港北室長に直談判をしたのです」
その時のやるせない気持ちが土井に蘇ってきたのが鹿子木にもはっきりと分るような顔つきになっていた。
「きっと、私はものすごい形相で港北室長の部屋に入っていったのだと思います。高圧的な態度に出てくると予想していたにも拘わらず、室長はにこにこと笑って迎えてくれました。そして、『まあ、そんなに恐い顔をしないでください。君みたいに一所懸命に仕事をしてくれる人は他にはいません。私は君の業績を認めておりますよ。次からは、君をトップネームにして雑誌に投稿することを承認するとお約束しましょう』と言われたのです。
私は完全に機先を制されてしまいました。正に私が引き出そうとしていたことを先に相手に言われてしまった訳ですからね。それまでの決死的とでもいうか、思い詰めていた感情は瞬く間に消えてしまって、微笑んでさえいました。どうも何か変だなという不安な気持ちを押し殺していたのです。『もう何も要求することはない』、そう感じて、『どうかよろしくお願い致します』と言って自分の研究室に戻ってきたんです」
土井はフウーと溜息をついた。
「それから数日後に研究室内のグループ編成替えがありました。もちろん、定期的なものではありません。むしろあまりに突然だったので研究室の皆が大変驚いたのです。私はそれまでAという研究グループに属していたのですが、Dという研究グループに異動になっていました。Dグループは研究室の中で最も基礎的な研究をしているグループで、一年や二年で世の中に発表できるような成果を出すことはとても無理だと皆が考えている研究をやっていたのです。従って、このDグループには他のグループに課せられている『二年間で五つ以上の学術論文を投稿して掲載されなければならない』というノルマは免除されていました。もちろん、長い目で見れば非常に大事なことを研究している訳ですから、私もDグループの研究そのものがいやだったのではありません。ただ、そこに異動すれば、私が打ち立てようとしていた新しい概念に関する研究はできなくなってしまいます。それに、新たな研究で成果を上げ、それをまとめて専門誌に投稿することは、少なくとも数年の間はほとんど無理だと思われたのです。
港北室長の意図が私にはよーく分りました。その発表があった日に私は港北室長の所に行って、二度目の直談判を行ったのです。港北室長は『今度君に担当してもらうようになった研究チームは非常に重要な研究を行っているチームなので、君に加わってもらって是非とも実績をあげて欲しい。今まで成果が上がらなかったのは、君のような優秀な研究者が加わっていなかったからだ』と言われたのです。私はせめて第二報目の論文だけでも私をトップネームにして投稿させて欲しいと懇願しましたが、『私が以前お約束したのは次回の新たな投稿からという意味でしたが、あなたはそれに喜んで同意されたではありませんか』と言われたのです。私は、第二報目の論文からだと理解して同意したつもりだったので、もう喋る気力が残されていませんでした。そのまま何も言わずに戻ってきたのです。結局、その論文は今でも投稿できずにいるありさまです。それからです、私が港北副所長のことを恨むようになったのは……」
「土井さんのお気持ち、よく分りました。本当に酷い仕打ちですね。私など研究の世界をよく知らないものだから、研究者の人たちは、皆、頭が良くて人格もすこぶる良い人ばかりだと思っていたのですがね。中には悪い人もいるんですね」
鹿子木はこの瞬間は心から同情してそう言った。
土井は鹿子木の言葉を聞くと再び深い溜息をつき、しばらくの間沈黙してしまった。鹿子木は静寂を壊さないようじっと我慢した。土井の心が現時点に戻るまでそれしか方法がなかった。
しばらくして、土井の表情がかなり平常に戻ったと判断した鹿子木が口を開いた。
「さてと、土井さん。谷村明さんの送別会が決まった頃のお話を伺いたいのですが」
「えっ、あっ、済みません。頭の中がすっかりあの頃に戻ってしまっていたものですから」
「谷村さんの送別会に港北副所長が参加されると聞いた時、土井さんはどんなふうに思われたのですか?」
「鹿子木さん、どうして谷村君がS研究所を辞めてX株式会社の研究所に転職するようになったか、ご存知ですか?」
「いいえ、詳しいことは知りません」
「鹿子木さんは、私のことを最も港北副所長を恨んでいた人間として見ているのでしょうが、そうとばかりは言えないと私は思います。現に、谷村君だって港北副所長のことを私以上に恨んでいた可能性は大なのです。谷村君の送別会に港北副所長が出席されるようになった経緯をご存知ないんでしょう?」
土井はやや挑戦的な態度で質問した。
「落合室長のお話ですと、谷村さんは、亡くなった港北副所長がM研究室の室長だった時に入所されたとかで、随分と研究室の業績に貢献されたらしいですね。それで、港北副所長も谷村さんを可愛がっておられて、X株式会社の研究所に転職するに当たっては、かなり残念がられておられたとか。落合室長が港北副所長に谷村さんの送別会の話をしたところ、港北副所長も是非参加したいと言われた、とお聞きしましたけれど」
「まあ、表面的には、そうなるのでしょうね。でも、それは落合室長らしい表現なのです。鹿子木さん、『随分と研究室の業績に貢献した』とか、『港北副所長が谷村さんを可愛がっていた』とかいう表現が、実際はどういうことを意味しているか、お分りですか?」
「そうですね、これまでの土井さんのお話からすれば、あまりいい意味ではなさそうですね」
「その通りです。谷村君という人は、研究センスのとてもいい人で、研究のやり方がエレガントなのです。つまり、ポイントを突いた研究を行うことができる人で、当然、研究成果もかなり上がるようなタイプの人なのです。問題はその成果の配分です。彼も私と全く同じ目に遭っていたのです。つまり、谷村君の業績は全部港北副所長のものになってしまっていたということです。これが、『随分と研究室の業績に貢献した』や『港北副所長が谷村さんを可愛がっておられた』という表現の本当の意味です。谷村君は、私とは違って、どちらかと言えば気が弱い方に属する人で、私みたいに港北副所長に直談判することはできなかったのです。S研究所を辞めてX株式会社の研究所に転職することを決心したのは、谷村君としては精一杯頑張った結果だったと思うのです。
谷村君が転職した研究所で新たに行う研究は、それまで彼がやってきた研究内容とそう離れたものではないそうです。我々研究者はかなり専門的なことに特化していますので、大きく異なる分野で研究するのは非常に難しいことなのです。つまり、X株式会社の研究所で谷村君の周りにいるのは港北副所長と同じような研究分野の人たちなのです。港北副所長は心配だったのだと思います。谷村君が転職した研究所の人たちに真相をばらしたら、港北副所長の学会における権威も薄らいでしまうかもしれないですから。私は、港北副所長が送別会に出席した理由はここにあったと想像しているのです。きっと、谷村君にプレッシャーをかけたかったのだと思います。『もし、X株式会社の研究所の人たちに港北副所長にとって不利なことを言ったら、谷村君の研究者としての将来はない』とか何とか言ったに違いありません。だから、『港北副所長は谷村君の口封じに来たなと思った』というのが、さっき鹿子木さんが私に質問されたことに対する答えなのです」
「そうだったんですか。なるほどね。その後、幹事の田丸さんが、落合室長に送別会の料理について港北副所長のご意向を伺ってもらうようにお願いしたそうですね。そして、それを田丸さんは皆さんにお話した。その時、土井さんはどう思われたのですか?」
「『どうせフグ料理かカニ料理か四川料理にして、それに酢の物を付けろって言うに決まっているじゃないか』と思いましたよ。ただ、こんなことは研究室の人だったら誰でも当然考えつくことですからね。鹿子木さんが考えておられるような、私だけが思ったことではありませんよ」
「そのようですね。ただね、それを口に出して言ったのは、土井さん、あなただけだったのではありませんか?」
「そうだったのかも知れません。確かに私はそれを言ったと思います。でも、口に出したかどうかだけでしょう」
「いや、違いますね。土井さん、あなたが、それを口に出された時、あなたの口調というか雰囲気は凄まじいものがあったようですね。『もう許さん』という感じだったそうですね」
「刑事さん、そんなことまで調べていたのですか。谷田さんがそう言ったのですね。悲しいことだ。刑事さんのせいで、皆が『疑心暗鬼を生ず』になってしまった。あの谷田さんまでが……」
土井は先程まで使っていた、鹿子木さんではなく、刑事さんという言葉を無意識に使った。
しばらくの間、土井は言葉が出て来なかった。鹿子木は土井が話し始めるまで静かに待った。土井は自分の感情の起伏が静かなものになってから、口を開いた。
「刑事さん、あなたは私を犯人だと思って、今日警察に呼んだのですね。でもね、私は犯人じゃない。確かに動機は十分にありました。でも私は殺してない。港北副所長のような人のために自分の人生を棒に振るなんてことは絶対やりたくありませんからね」
そう言うと土井は再び沈黙した。
これ以上の追求を今行うのは無理だと思った鹿子木は、仕方なく洋介からの宿題を切り出した。
「ところで土井さん、土井さんの趣味は何なのですか? いやね、研究者の人たちは、私が夜遅くに伺ってもいつも忙しそうに実験したり、コンピューターの前に座って難しい顔をしたりしているでしょう。趣味なんて持っているのかなあって思っているんですよ」
「そりゃ、我々だって普通の人間ですから、たいがい趣味らしきものは持っていますよ。以前お話したと思いますが、私の場合は、学生時代にやっていたアメリカンフットボールを今でもやっているのです。クラブチームに属していましてね、週一回の練習に参加して思い切り汗を流すのが唯一の楽しみです」
「そうですか。釣り、特に海釣りなんかはやらないのですか?」
「釣りですか。小さい頃川で近所の子供達と一緒に遊びで釣りをやったきりで、今は全くやっていませんね」
「そうですか……。研究室の他の人で、海釣りをやる人はいませんか?」
「海釣りですか……。あっ、そうだ。谷田さんと落合室長は時々鹿島灘の方に釣りにいっているようですよ。沢山釣れたからと、研究室の皆が彼等から何回か魚をもらったことがありました」
「ほう、谷田さんと落合室長ですか。そう言えば、谷田さんは渓流釣りをするのではなかったのですか? 確かそう言われていたような気がしますが……」
「谷田さん一人で釣りに行く時は久慈川の鮎釣りをしに大子町の方に行っているみたいですが、落合室長と一緒の時は海釣りに行くことが多いと思います」
「そうだったんですか。谷田さんも当然のことながら、港北副所長を恨んでいたのでしょう?」
「そりゃもちろん、ある程度は恨んでいたのではないでしょうか。ただ、谷田さんは淡々としている人ですから、私程は恨んでいなかったと思いますね。それに、彼はそんなに雑誌に投稿しようとはしていませんでしたからね。悔しい思いをする機会も少なかったのではないかと思います」
「それでは落合室長はいかがでしょう?」
「落合室長は私たち以上に港北副所長から酷い目に遭ってきたと思います。しかし、あの人は港北副所長に逆らうようなことをする人ではありません。私たち若手の研究者と港北副所長との間に挟まれて随分と辛い思いをされていたとは思いますが、あの人は本当に良い人なのです。私のように港北副所長を酷く恨むようなことはしないのではないかと思います」
それからしばらくの間、補足的な質問を受けてから、土井はつくば東警察署を後にした。
鹿子木は困っていた。また、この事件の落ち着き先が分からなくなった。単純な食中毒事件なのか、それとも殺人事件なのか。殺人事件を前提に考えた場合、話を聞くまでは土井が有力な容疑者であると考えていたが、今はその確信は消えていた。