十.小川奈津江
話が一段落付いたところに来客があった。
「こんにちは。お約束通り打ち合わせにやって参りました」
理知的でほっそりとした二十代半ばのように見える女性が受付の前に立っていた。
「やあ、なっちゃん。連休が始まるというのにわざわざ来てもらっちゃって、申し訳ない。どうぞ中へ入ってよ」
「でも、いいんですか? お客様とお話されているんでしょう?」
「今、ちょうど終わったところなんだよ。どうぞ、どうぞ」
小川奈津江。旧姓は佐藤といい、洋介の小学校の同級生であった。奈津江は小学生の頃からしっかりとした少女で、勉強もよくでき、男子生徒からも一目置かれていた。東京の美術系の大学を卒業後つくばに帰ってきた。しばらくすると市内にある企業の研究者と結婚し、二人のかわいい娘を授かった。夫の理解もあって子育ての傍ら彼女の美術的センスを生かしてシルクスクリーンの仕事をしている。
シルクスクリーンという技術は、版画、印刷技術の中では孔版に分類されるものである。基本的には、絹糸や合成繊維で織られた布目を様々な方法で塞いでインクの透過しない部分を作った後、デザインされた部分だけを溶かし、そこに適量のインクを載せて種々の模様、文字、絵などを印刷する技術である。ポスターやTシャツなどへの印刷もこの技術で行える。
奈津江はつくば市内のカルチャーセンターでシルクスクリーンの教室を開いていて、週に二回教えに行っている。一年程前、東京のデパートが主催した美術展の版画の部で最優秀賞を獲得して、つくば市の美術関係者の間ではちょっとした有名人になっていた。
鹿子木は洋介に別れを告げ、受付の入り口で奈津江とすれ違いながら簡単に会釈してからホビークラブを後にした。中に入った奈津江は木製のあまり上等ではない椅子に座ると、ぐるりと見回してから口を開いた。
「洋ちゃんが筑波ホビークラブを始めたっていうことはお聞きしていましたけれど、ここに来たのは今日が初めてです。洋ちゃんらしいことを始めたんですね。ここの雰囲気は昔の洋ちゃんそのものっていう感じですよ。昔と全く変わっていないんですね」
「何だか全然成長してないみたいに聞こえるけれど、自分でも『なっちゃん』の言う通りだと思っているんだよね。おっと、いつまでも『なっちゃん』なんて言っていてはいけないんだっけ。小川先生とお呼びしなければ失礼ですよね」
「そんなふうに言われると、ちょっと変な感じだわ」
二人は、心地良さそうに笑った。
「改めまして、本日はお越しくださって有り難うございます。連休に入ろうとしているところなのに本当に申し訳ありません。ご家族のほうは大丈夫なんですか?」
「ええ、今日はまだ幼稚園がありますし、今年は遠出する予定もなくて、子供たちと一緒に洞峰公園で遊ぶことくらいしか計画してないので、ご心配には及びませんわ」
洞峰公園とは、つくば市二の宮にある茨城県立の大きな公園のことである。洞峰沼を中心に四季折々の樹木が立ち並び、太陽熱を利用した温水プール、アリーナ、テニスコート、野球場、フィールドアスレチックなどのスポーツ施設も充実されていて近隣の人たちが大勢利用している。また、この公園から南北に遊歩道も整備されており、ジョギングや散歩をする人の姿もよく見られる所である。
「そうですか。それを聞いて少し安心しました。それでは本題に入る前にここの紹介をしておきましょう。先日電話でちょっとお話したように、このクラブはアスレチッククラブとは相当趣が異なっているんです」
洋介はいつものようにこのクラブの設立の目的を嬉しそうに説明した。
「最近、このクラブの会員の方でシルクスクリーンをやってみたいという人が出てきたものですから、小川さんにお願いして、何とかこのクラブでもできるようにならないだろうかなんて思いましてね。一度クラブを見て頂き、ご協力いただけるかどうかご判断願おうということで、今日お越し頂いたのです」
「はい、よく分りました。私にとってシルクスクリーンは、何て言ったらよいか、もう趣味を通り越して、なくてはならない存在になってきています。生き甲斐と言ったら大袈裟かも知れませんけど、シルクスクリーンを夢中でやっていると嫌なことはみんな忘れてしまいます。このクラブでシルクスクリーンをやりたいという方が出てきたということは私にとってもとても嬉しいことですわ」
「それでは、クラブの中を一通りご案内しましょう。こちらへどうぞ」
洋介はそう言いながら奈津江の先に立って歩き出すと、奈津江も興味深そうな顔で後に続いた。西側の音の出るウイングから案内を始め、東側の静かなウイングに移り、最後に自由趣味室に入った。
「ここも、一応何でもやれる自由趣味室です。東と西とで合わせて三つの自由趣味室がありますので、それらのうちの一角をシルクスクリーンの作業用に使ったらどうかと考えているんです。西側は作業する際音が出るホビー用の部屋で、東側は静かな環境を確保できるようにしてある部屋です。シルクスクリーンの作業では音はほとんど出ないのでしょう? 静かなウイングである東側の自由趣味室を使われたらどうでしょうか」
「そうですね。それ程大きな音は発生しないと思いますわ。この部屋は思ったより広いですね。換気扇の下にあるあの工作台を一つ二つお借りできれば何とかなると思います」
二人は話しながら受付に戻った。
「それでは、今回のお話、引き受けていただけるんですね?」
「もちろんですわ。私としても大変嬉しいことですので是非お願いします。ところで、このクラブの営業日と営業時間はどうなっているのですか?」
「一応、平日は昼の十二時から夜中の十二時まで、土日祝日は、朝九時から夜十時となっていますが、あまりきちんと守られていません」
「そうすると休館日とかはないのですか?」
「一応、ありません。私が三六五日全て勤務しているという訳ではありませんけど」
「どういう意味ですか?」
「私はよく調査と称してここでの勤務をずる休みするんです。そんな時は小野村源三郎さんたちがしっかりと管理してくれています。時にはここの会員の方が管理者みたいになってくれることもありますけど」
「そうなんですか。それではシルクスクリーンに必要な機材は私の方で一式揃えてお届けするようにしますね。でも機材だけでいいのかしら……。最初の何回かは私が来てお教えしましょうか?」
「それは有り難い。そうしていただけると皆も大喜びでしょう。小川さんは家庭を抱えているのだから、あまり遅い時間は無理ですよね。いつがいいでしょうか?」
「平日は皆さん働いていらっしゃるのでしょうから、平日の午後という訳にはいかないでしょうね。土曜日の午後二時頃はいかがでしょうか?」
「もちろんOKですよ。よろしくお願いします。希望している人の他にもシルクスクリーンをやってみたい方がいるかも知れません。シルクスクリーン講習会のポスターを作ってどこかに掲示しておきましょう」
「それでしたら、私がシルクスクリーンで作ってお持ちしましょう。そのうちお届け致します」
「本当ですか! それは有り難い。小川さんのデザインだったら希望者もきっと増えるでしょう」
そこにタイミングを見計らっていたように、愛がお盆にマグカップ、コーヒーカップ、さらに緑茶を淹れた茶碗を載せて入ってきた。
「小川先生はコーヒーとお茶のどちらがよろしいでしょうか?」
「はい、私はお茶を頂きます」
愛は受付のガラス戸の内側にある細長いカウンターの上にお茶とマグカップを置いてから目礼をして出て行った。
「随分と気配りのできる人ですね、お若いのに」
「ああ、あの娘はここの土地を提供してくださった小野村壮一郎さんという方のお孫さんの愛さんです。花の女子大生なんですけど、ここに遊びがてら来て手伝ってくれているんです」
「相変わらず洋ちゃんはモテるんですね、うふふふ」
「そんなんじゃありませんよ。変なこと言わないでくださいよ」
洋介は顔を赤くして否定した。
講習会の日程を調整し、奈津江とシルクスクリーンとの深い関わりについての話を聞いた後、心からお礼を言って奈津江を送り出した。