九.露木教授
翌日の午後、鹿子木は東京の所轄の刑事とともにT大学理学部の受付で露木教授との面会を依頼していた。露木への連絡は前日済ませていたので直ぐに研究室への入室許可が与えられた。
理学部の建物は昔の古びたレンガ造りから現代的な外観に改装されていて、T大学の伝統の重さは以前ほどは感じられなかった。それでも、東京では贅沢と思えるような広い敷地の中で、植物がその建物とずっと以前から一緒に生き続けて来たかのように感じられるほど、建物とそれを取り巻く景色とが一体化していた。中に入ると現代風の内装に変わってはいたが、空気は昔を思い起こさせるようにひんやりとしていて異様なほど静かであった。重厚な壁が外界の光や音や温度などの鬱陶しいものを遮断しているかのようであった。
露木研究室のドアをノックすると若い女性が中から出てきた。露木教授との面会を申し出ると、その女性は外に出てきて廊下を歩き、教授室と書かれた部屋に案内してくれた。部屋の奥に机と椅子が置かれ、書架で仕切られた手前側にはソファーと小さなテーブルがあって、そこで待つように言われた。
しばらく待たされた後、教授は現れた。
「やあ、お待たせしました。教授の露木健一です」
そう言って露木は手を出してきた。鹿子木はソファーから立ち上がり、思わずその手を握り返した。隣にいた所轄の刑事もそれに釣られて手を出した。身長は百八十センチ以上あり筋肉もしっかりと付いていて均整がとれた身体つきをしていた。頭髪はほんの少し白髪が見られたがまだまだ黒くて多く、女学生を気にしてかやや長髪にしていた。手足は長く、目は大きな二重瞼で近眼だがコンタクトレンズを着用し、鼻筋が通っていて女性にモテそうなタイプの男であった。ベージュ色のズボンに薄い青色のワイシャツを着た上に眩しいような若葉色のブレザーコートを颯爽と羽織っていた。
「茨城県のつくば東警察署刑事課の鹿子木康雄と申します。S研究所の港北副所長の件でお話を伺いたいと思いましてやって参りました。研究でお忙しいところにお邪魔致しまして大変申し訳ありません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。港北先生の件については私も大変気を揉んでいたところだったので、ちょうど良かったと思っていますからご安心ください」
「それをお聞きして少しほっとしました」
「狭苦しいところですけど、どうぞお座りください。ここはちょっと見は新しいのですが、古い構造物の上に内装を施しただけなので、使い勝手が悪くて困るんですよ」
「とんでもない。流石一流の大学の建物は伝統を感じさせる雰囲気があると思いました」
「いやいや、この建物は随分と昔に建てられたものなので、ここに新しい機器を置いて研究するには不便なのです。今は別棟に新しい研究施設ができていまして、ほとんどそっちで実験しているんです。今まで私もそこにおりましたのでお待たせしてしまいました」
「ああ、そうなんですか。きっと立派な研究施設なんでしょうね」
「何なら、お話が終わってから研究施設を見学されますか?」
「いえいえ、とんでもありません。露木先生の貴重なお時間を割いてお話を伺うだけでも申し訳ないと思っておりますので、それ以上はとても……。ところで、港北副所長が亡くなった三月二十二日、露木先生は港北副所長とお会いになっていたそうですね?」
「そうなんですよ。港北先生が亡くなったのが宴会中だったそうですが、その直前まで私たちはつくばの喫茶店で話をしていたんです。だから、ニュースを聞いて本当に驚いたんです」
「その辺の事情をもう少し詳細にお話いただけないでしょうか?」
「了解です。私は年に数回、つくば市にあるB大学へ集中講義に行っています。あそこが私の母校なものですから、頼まれるといやとは言えませんからね。ちょうどあの時も木金と二日間の集中講義をやりました。講義が終わった後で港北先生とお会いしたんです。前の日に電話でご都合を確かめて承諾していただけたので、港北先生が指定された喫茶店に行ってお話したんです」
「そうですか。差し支えなかったら、お話の内容もお聞かせいただけないでしょうか?」
「ええ、もちろん問題はないですよ。実は、私たちの最近の実験で素晴らしいデータが出たんです。私たちがずっと主張してきた仮説を証明できると思われる結果だったんです。港北先生たちは以前から私たちとは異なる仮説を提唱されていましてね、ずっと学会等で議論してきているんです。港北先生を始め他の研究グループには何も言わないで、いきなり学会で発表して度肝を抜いてもいいんでしょうが、あまりにも突然学会で港北先生に恥をかかせても申し訳ないと思っちゃいましてね。ちょうどいい機会だったんで、予め港北先生にお話しておこうと思ったんですよ。そうすれば、港北先生も事前にご自分の間違った仮説を取り下げることができると思ったのです」
露木は勝ち誇ったような表情を浮かべて言葉を一旦止めた。
「露木先生と港北副所長とはずっと対立関係にあったんですか?」
「ええ、学問上のね。でもね、港北先生が嫌いだからなんていう、世俗的ないがみ合いとは全く違いますよ。あれっ、もしかして私と港北先生とが対立していたからって、私があの先生を殺したとでも思っているんですか。それでわざわざつくばからここに来たんだ」
「いやいや、露木先生を疑っている訳ではありません。我々の捜査は事実を一つひとつ調べていくことが必要なんです。どうかご理解ください」
「あっははは。まあ、いいや。しかし、あの時は私の方が殺されるかも知れないような状況だったんですよ。こっちが勝つようなデータが出てきているのに、何で間違った仮説を唱えている人を殺さなきゃならないんですか」
露木の余裕のある表情は全く崩れなかった。鹿子木を若干見下したような態度で話を続けた。
「さっきも言いましたけど、あの時は私たちのグループの研究で大変良い結果が出たんです。それを港北先生にお見せして、先生の仮説を取り下げるよう説得するつもりだったんです。この結果は私たちの仮説を実証できたと言えるような素晴らしいものだったんですよ。だから、それを聞いた港北先生が逆上して変なことをする恐れもあったので、それに備えていたんです。つまり、私のほうが危害を加えられるような状況だったので、私が港北先生を狙うなんてことはあり得ないのです。私が話をしているうちに、案の定、港北先生は怒り出して喫茶店を飛び出してしまったんです。仕方がないから説得するのは諦めて、助教の山谷君と二人でつくば駅に出てTXに乗り、そのまま真っ直ぐこの大学に帰ったんです」
「助教の方もご一緒だったんですか?」
「ええ、そうです。もっとも、山谷君は私たちのテーブルからは少し離れた所に陣取っていましてね。万が一の事態に備えてもらっていたんです。つまり、私が危害を加えられるような事態が起こった時のことまで想定していたのです。結局、彼は何にもしないで終わってしまいましたがね」
「そうですか。それで、露木先生とその助教の山谷さんとはそのままどこにも寄らずに大学に戻られたんですね。その後はどうされたのですか?」
「私は研究室でしばらく仕事をしましてね、帰途に付いたのが午後十時頃だったと思います。その時、山谷君に声を掛けたんで、後で彼に確かめてみてください」
「それではこの後お訊きしてみます。それから、露木先生は港北副所長に何かをお渡しになったりしませんでしたか?」
「渡したものねー……。何もなかったと思いますよ。何せ、私のデータをよく見てもらおうと思って用意しておいたコピーを差し出したんですが、すごい剣幕で突き返されてしまったくらいですからねー」
「そうですか。よく分かりました。お忙しいところお手数をお掛けしました。ご協力有り難うございました」
鹿子木は全く隙を見出せない露木の態度にかなり落胆していた。しかし、一緒に来てくれていた所轄の刑事の手前、助教の山谷に面会せずに帰ることはできなかった。
最初にドアを開けた研究室の中にいた山谷を呼び出し、建物の外に連れ出して露木の言ったことを確認した。山谷は背も高く、筋骨隆々としたいかにも強そうな風貌の若者であり、露木が選んで喫茶店に連れて行った理由がよく分かる人物であった。
つくばの喫茶店で会っている間、露木と港北はお互いに反目しあっているのが一目で分かるくらい相手から距離を取って話していたので、二人が接触するような状況にはならなかったし、露木から港北に何かを渡したようなこともなかったということであった。山谷は露木に何かあるといけないと思い、二人から目を離さないようにしていたので間違いないと言った。つくばの喫茶店で別れてからは彼らと港北との接点は全くなかったようであった。
次の日の午後、ゴールデンウイークに入る直前の金曜日のためか、筑波ホビークラブはいつもより閑散としていた。科学万博が開催された一九八五年頃は、普段から多く目に付く県外ナンバーの車の数がこの期間だけ少なく感じられた。つくば市内の研究所や大学に他の地域からやってきた人たちは、ある程度まとまった休暇になると実家に帰ったり旅行をしたりする人が多く、そんな時は街全体が静かになった。しかし、最近はつくばに長く住んでいる人も増え、その子供たちが家族を連れてつくばに帰省する姿を見掛けることもあるようになり、以前程は寂しい感じはしなくなってきている。
洋介が受付でぼんやりしていると愛が入ってきた。
「神尾さん、一昨日の捜査でお疲れのようですね」
「えっ、ああ、何だ、愛ちゃんか」
「愛ちゃんか、ではありませんよ。ボーとしちゃって、腑抜けになったみたいですよ。捜査はうまくいかなかったようですね」
「いや、そんなことはないんだけど……。ちょっと考え事をしていただけですよ。ところで、愛ちゃんこそどうしたんですか? ゴールデンウイークに入るというのに、友達とどこかに遊びに行かないのですか?」
「この時期はどこに行っても混むでしょう。なので、私はあまり好きじゃないのです、出掛けるの。」
「だからって、こんなところに来なくても、他にいくらでもあるでしょう、若い女性が行くところは」
「意地悪なのね、神尾さんは」
睨みつけられた洋介は弁解がましく付け加えた。
「もちろん、私をはじめ、このクラブの会員さんたちは大喜びですけどね」
愛は洋介を睨んでいた顔を綻ばせてから外を見ると鹿子木がこちらに向かってやってくる姿が目に入った。
「神尾さん、お目当ての人が来られましたよ」
そう言うと愛は受付から出て行きながら鹿子木に笑顔で挨拶したが、鹿子木は微笑みもせずに頭だけ下げて中に入ってきた。
「あれ、鹿子木さん。何だか元気がなさそうですね。昨日露木教授に会われたんでしょう?」
「いやあ、露木にはやられました」
「やられたって、どういう意味ですか?」
「いやね、露木が怪しいと思っていたんですがね。彼は今回の中毒事件とは関係なさそうなんですよ」
「詳しく教えてくださいよ」
仕方なく鹿子木は昨日のT大学理学部での様子を洋介に話した。
「そうだったんですか。そうすると、露木教授は今回の事件に関しては白ということになりますね」
「そうです。それで昨日は署に帰って上司にそれを報告したんですが、こってりとしぼられてしまいました。上司たちは今回の事件は食中毒で、殺人事件なんかじゃないと考えたいものですから、責められる格好の材料を与えてしまいました」
「ああ、それで元気が出なくて、今日は来るのが遅かったんですね。朝一番ですっ飛んで来られるかと思っていたんですけどね」
「ところで神尾さん、M研究室の事情聴取で何か掴めましたか?」
「あっははは。鹿子木さん、そんなに早く糸口が掴める訳はないでしょう」
「まあまあ、そんなことを言わずに、神尾さんの鋭い観察眼で見られた感触を聞かせてくださいよ」
「しょうがない人だなー。それでは、現在の状況をお話しますよ。結論から言うと、この事件は非常に難しいですね。動機の点から言えば、あの研究室の全員に犯人の可能性があると言えますね。そして、犯人はあの研究室の人に限らないとも言えます。他の研究室にも同じような仕打ちを受けた研究者がいる可能性が大きいですね。新室長の落合さんは港北副所長のお気に入りだったと周りから思われていますが、彼だって随分と苦労をさせられていたようです。現状では動機の観点から犯人を絞り込むのは相当難しいですね」
「そうですか……」
鹿子木は非常にがっかりしたように言った。露木教授が的外れだったので、洋介の分析力に望みを託していたのであったが、先日までの自分の捜査結果と大した差はないように思えた。
「やっぱりダメでしたか。署ではさっきも言いましたように、上の方では単純なフグの食中毒事件として処理してしまいたいという考えがかなり強いんです」
「他の人たちも同じ考えなんですか?」
「いや、そうとばかりは言えないのですがね。私を含め若手の刑事には殺人事件かも知れないと思っている者もおります。ただ、殺人事件だというはっきりした根拠がまだ掴めていないので、我々もかなり苦しい立場になりつつあります。まあ、そんな状況を神尾さんに吹き飛ばして頂こうと思いましてS研究所に一緒に行って頂いた訳なんですが……」
「明確な根拠が掴めなかったので、がっかりされているんですね。でもね、鹿子木さん。一昨日S研究所に行って皆さんとお話して、私は殺人事件であるという確信が持てました。港北副所長という人は部下の人たちのほぼ全員から恨まれていたと考えて間違いありませんね。一人には絞れませんでしたが、動機という点では多くの人たちが持っていたと断言できますよ」
「そうですね。私も何となくそんなふうには感じているんですが、感じだけでは上司を説得できないものですからね」
「鹿子木さん、そう悲観的にならないでくださいよ。周囲の人たちに動機があることは分かった訳ですから、事件前後の状況を詳しく捜査すれば、きっと誰か可能性の高い人が絞り込まれてきますよ。焦らずにやっていきましょう」
「そうですね。もう少しきめ細かな捜査を続けてみましょう。あそこの人たちには嫌がられるでしょうがね。それも仕事ですから」
「よろしくお願いします」