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プロローグ

 二〇一三年三月二十二日金曜日の夜、S研究所M研究室を退職する谷村明の送別会がフグ料理専門店で行われた。

 中央奥の主賓席の隣に陣取り、イチゴの淡雪寒を食べていたS研究所副所長、港北こうほく忠夫は口に入れたばかりの上品なデザートを器の中に吐き出し、芋虫みたいな指でナプキンを摘んで口を拭った。

「何だ、これは! 味も素っ気もないじゃないか!」

 若干もつれた声で怒ったように言った。港北の出席により送別会の雰囲気は形だけのよそよそしいものになっていたが、座はさらに白け、一瞬皆沈黙した。しかし、いつもの事なので、直ぐに何事もなかったかのように小さな声で話を続けた。港北はそんな出席者たちに苛つき、送別会の主賓に同意を求めた。

「そうだろう、谷村君」

「そうですね。ちょっと味が薄いかも知れませんね」

 本当は美味しいデザートだと思っていたのだが、谷村はそう相槌を打った。港北はしばらく気持ちが収まらない様子であったが、そのうち正面を向いたまま静かになった。太い鼈甲模様の眼鏡の奥で、盛り上がった頬と瞼とに挟まれて細くなっている目は何を見るでもなく、自分の体内で生じている変化に対応しようと必死だった。


 突然、唸るような声に続き嘔吐する音が白けきった宴会場に響いた。

 港北の前に置かれていた空の器や皿だけでなく、テーブルの上にも嘔吐物が汚らしく散乱し、太いストライプが入った派手で腹回りの大きなスーツにもだらしなく付着した。港北は吐いた物を垂らしながら立ち上がろうとしたが、よろけてその場に倒れ込んだ。直前まで体内にあった未消化物が、脳天後部から進行中の禿げている頭皮とまだ髪が残っている部分との境界にもべったりと付いた姿は、港北の尋常ではない自己顕示欲を嘲笑っているかのように参加者たちには映った。

「どうされましたか?」

 谷村の問いかけには港北は答えなかった。

「お水でもお持ちしましょうか?」

 港北を挟んで谷村とは反対側に座っていた落合一郎がそう訊いた。

「大丈夫だ。デザートがまずいだけだ」

 港北はそう言ったのだが、言葉としての明確性を欠いていた。出席者たちは皆何が起こったのか確かめるように主賓席の方を見た。

「どうせ、飲み過ぎたんだろうよ」

「うん、そうに決まってるさ」


 そんな声を制するかのように落合が心配そうに言った。

「飲み過ぎではないかも知れませんね。港北副所長は酔われると決まって顔が真っ赤になるのですが、今はむしろ青白くなっています」

「そうですね。赤みはほとんどありませんね。どうされたのでしょう?」

 相槌を打った谷村が港北を見ると、何とか起きあがろうとしていたが、手足は麻痺したような状態で自分の意思を無視していた。それでも落合の腕に掴まろうとしたが、指も思うようには動かず、体はまるで軟体動物にでもなったかのようにぐにゃぐにゃしていて再び倒れ込んだ。盛んに何かを喋ろうとしているが言葉にはなっていなかった。尋常ではない変化に、これまで関わりを持ちたくないと思っていた周囲の人たちも怖くなってざわつき始めた。


 幹事の田丸徹が駆け寄ってきて、落合の腕の中に抱かれた格好で横たわっている港北を覗き込んで言った。

「ただの飲み過ぎじゃないみたいですね。ちょっと様子が変ですよ」

「確かにおかしいです。今日は料理に集中されていたので、いつもよりはお酒を飲まれていなかったと思います」

「こりゃあ、尋常な状態ではありませんよ!」

「もしかすると……、フグ中毒かも知れない」

 心配そうに落合はそう言った。田丸の顔に焦りが走った。

「直ぐに救急車を呼びましょう!」

 宴会場は騒然となった。田丸は自分の携帯電話で慌てふためいて消防署に電話した。

「港北副所長! しっかりしてください。直ぐに救急車が来ますから」

「頑張ってください!」

 先ほどまで疎ましく思っていたことはこの際忘れて、何人かが励ました。


 瞳孔が散大していた港北は、周囲の人たちからは意識が朦朧としているように見えたが、本人の感覚としては、皆の慌てて非効率な動きをしている様や、上辺だけで心配しているような言葉を発している様子などは平常時と同様に認識できていた。

「皆、何を慌てふためいているんだ。俺には皆の様子や喋っていることがよく分かっているぞ。しっかりせんか」

 本人はそう言っているつもりであったが、周りにはただ呻き声を出しているとしか聞こえなかった。


 救急車はなかなか来ない。


 しばらくすると、呼吸するのが難しくなり頬は青紫色になった。

 谷村は自分自身を落ち着かせてから港北の表情を観察した後、港北の左手首で脈を調べていた落合に尋ねた。

「チアノーゼが出ていますね。脈拍の方はどうですか?」

「いやー、困りましたね。ひどく弱くなっています」


 それから随分と長い時間が過ぎたように皆が感じていたところにようやく救急車が到着した。宴会の参加者たちの慌てぶりとは対照的に、救急隊員たちは落ち着いててきぱきと対応し、港北を担架に乗せ救急車まで運んだ。落合は救急隊員の一人に状況を訊かれ、手短にしかし漏れのないように説明した。するとこの救急隊員はフグ料理専門店の主人にやや命令口調で告げた。

「ご主人ですか? 残った器や料理、それに患者さんが嘔吐したものなどは警察が来るまで片付けないでそのままにしておいてください」

 店主はしぶしぶ頷いた。救急車の運転手はしばらく無線連絡を取っていたが、引き受け先が近くの救急指定病院に決まったようであった。

「どなたか付き添っていっていただける方は?」

 救急隊員の言葉を聞いた落合は谷村に向かって申し訳なさそうに言った。

「谷村君、私はここに残って警察の人が来たら対応しなくてはならないと思いますので、申し訳ありませんが付き添っていっていただけませんか?」

 谷村は頷くと救急車の後ろから素早く乗り込んだ。赤い回転ランプを点灯させると、サイレンの音はけたたましく鳴らしながら、それでも動きはあくまでも慎重に救急車は動き始めた。


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