一得一捨(2)
七課の現地エージェント――ナジブはマサダ入場口を眼下に望む高台から双眼鏡を覗き込み、ミミリ達の動向を監視していた。
駐車場の暗がりを歩く七人の小集団にピントを合わせて追い続ける。どうやら車に乗って移動するようだとあたりを付け、ナジブは通信機をオンにする。
「<バイパー>より<BE>へ。<パッケージ(確保対象)>が動いた。車で移動する模様」
『<BE>より<バイパー>へ。了解。監視を継続だ。こちらも動きは追跡している。オーバー』
現場を仕切るオフィサーには逐一動向を報告せよと命じられている。
そこまで神経質になる理由が<BE>にはあるのかと勘ぐったが、無用に事情を詮索しないのがこの世界の習わし。余分な情報を知れば自身の重要度が増す上、敵に狙われやすくもなる。それで作戦を破綻させる『地雷』になるなど以てのほかだ。そうした処世術を働かせる程度に、ナジブという男は業界にこなれた工作員であった。
「了解」とヘッドセットに吹き込み通信スイッチを切る。
<パッケージ>には未来視の力があるという。自身の一定半径にある事象を精査して将来を予知する性質だと<BE>は言っていた。
能力の最大有効射程は半径六十メートル程度。その範囲外であればこちらの動きは感知されないらしい。これは本国から派遣された詩翅という職員からの情報だが。
(罠とも知らず呑気な奴らだ)
<BE>の同僚が協力を要請したという勇士達に味方する詩翅が、最終的に<パッケージ>を確保するというシナリオは着々と終結に向かいつつある。『拾う者』による襲撃も、全ては嘘を実にするための演出。何もかもが計画通り。躍らされている協力者達――<パッケージ>の元仲間という勇士達には気の毒だがこれも仕事だ。同情する余地はあれ罪悪の感情など微塵も無い。それは<BE>も同じだろう。
見張られているとも知らず標的の一団が各々ジープに搭乗する場面を見、ナジブは舌なめずりの表情を心に浮かべる。
「<BE>へ。<パッケージ>が車両に搭乗。車種は紺のジープが五台。…………移動した。<パッケージ>は先頭から数えて三台目に搭乗した模様」
『了解した。追跡を<ウルフ>に引き継ぐ。ご苦労だった<バイパー>。撤退し、待機に入れ』
待機――つまりスリーパーとして普段の生活に戻れということ。連中が中東入りしてからここまでチームで代わる代わる尾行し、監視を続けていた。相手もそれを見越して警戒していたようだが、とうとうこちらに気づくことはなかった。これも軍で十年以上スカウター(斥候兵)として働いてきた経験の面目躍如といえる。
(これで今回の仕事は終わりだな)とほんの僅かに気を緩め、ナジブは淡々と了解の一語を返し通信を終えた。
期間は短かったが楽な任務ではなかった。相手は勇士だ。何が拍子で察知されるかわからない。常以上に神経をすり減らす繊細な任務だった。
(……疲れたな。ディモナのバーで一杯やってから帰るか)
仕事後の楽しみに酔いながら撤収準備を始めたナジブだったが、突如駐車場の照明が一斉に落ち、真っ暗闇に包まれた場面を目撃してぎょっとなった。
暗視スコープを使い駐車場を見渡す。標的を乗せたジープが姿を消していた。他の車両も。きょろきょろと周囲を探すが影も形も無い。
(そんな馬鹿な――!?)
この短時間で一体何が起こったというのか。突如起こった異変に動揺を禁じ得ず、ナジブは泡を食って通信機に手を掛ける。
が――。
宵闇のなかで明滅する稲光を目にし、胃が締めつけられる思いを味わうことになった。
存在を隠すこともなく悠然と土を踏む音に、ごくりと唾を呑む。手が震える。
こちらへと辿り着けないよう方向感覚を狂わせる幻覚結界マクロに、視認される姿を人間以外の生物に見せかける変化マクロ。それに念を押して光学迷彩シートも被り、これでもかとカムフラージュしていた。欺瞞は完璧に近かったはず。
それなのに何故と想定外を呪ったが、想定通りに行かないことを前提に作戦のプロットを組み立てろというのがこの世界の常識。起きてしまった以上は対処するしかないと頭を冷やす。
足音には明らかに意志がある。こちらへと向かってくる意志が。距離は近い。おそらく逃げても追いつかれる。息を潜めて自然と同化してやり過ごすのだ――。下手に動いて発見されるリスクを恐れ、この場に留まることを選択したナジブだったがこれが裏目に出た。
足音が止まった。
(どこだ、どこにいる……!?)
右か左か、それとも後ろか? いや違う。気を巡らすがどの方向にも人の温度を感じない。
(なら――)
正面――。
思い至り、ぞっと冷えついたナジブの直感に応えるよう、彼の目と鼻の先に人の輪郭が――ナイトブッラクにカムフラージュされた象術外装を纏う少女の姿が段々とあらわになる。
(馬鹿な、いつの間に回られた……!?)
<パッケージ>の元仲間だという勇士。確か名前はツツジといったか。今さっきまであの駐車場にいたはず。それが何故――。
光学迷彩シートが乱暴に曝かれる。
「ったく大丈夫、おっさん。真っ青な顔してるけど?」
立て続けに起こったトリックの謎が解けず、不可解に襲われたナジブの鼻筋に脂汗が滲む。焦りを浮かべる彼をツツジは感情を映さない目で見下ろし、槍の切っ先を突きつける。
「ま、いっか。おたく、七課のオフィサーに雇われたスパイでしょ。ちょっと色々お願いしたいコトがあるんだけどさ。――いいわよね?」
翠玉色の少女は、その可憐な貌に邪な笑みを浮かべる。
懐の銃を抜こうかと考えるが論外。間合いは三歩と待たず詰められる距離。こちらが引き金を引くよりも遙かに早く、あちらの槍が自分の眉間を穿つ。一息で抵抗する間も無く制圧されるだろう。よしんば撃てたとしても外装に弾かれて終わりだ。小娘とはいえプロの戦闘技術を持つ勇士。たとえ格闘戦の土俵に持ち込んでも勝てるわけがない。
(ど、どうする……?)
術で精神に誓約を施されている勇士は意志して人間を殺めることは不可能。だが相手を痛めつける程度の自衛は許されているし、故意以外の『事故』は条件からは除外される。
(つまりこの状況なら、俺を崖に立たせて崖崩れなどで自然に落ちるのを待つ――ぐらいのグレーな殺し方もできる。それを示唆して脅迫することだって……。なら――)
一か八かだとナジブは両の手を突き出し、こう言った。
「頼む、『こっちに近寄らないでくれ』……。『攻撃もするな』」
ぴくりとし、少女の体が硬直する。ほんの僅かエメラルドの光彩を湛える瞳から色が失われ、人形のように身振りがぎこちなくなる。
誓約マクロが発動したのだ。
(しめた――。『お願い』は誰でもできるのか)
勇士の脅威性を払拭する為のデマかと思っていたが事実だったようだ。人類を守護する超人といえば聞こえはいいが、所詮は対フ戦用のヒト型兵器。生み出した人類がその力を制御できなければ意味が無い。彼らの力から人間を庇護する安全機構があって当然なのだと、ナジブは引きつった笑みのまま後ずさった。
「あら……? しまったわねぇ」
攻撃の意志を封じられたにも関わらず、少女はさして困った様子でもなく冷めた調子で言う。
その余裕ぶった態度に何かあると罠の臭いを嗅ぎ取り、ナジブは注意深くツツジの全身を見渡しながら通信機をバッグにしまい込んだ。
「やぁねぇ。おっさん、ムスリムでしょ? 年頃の女性の体をそんなじろじろ見て、教えに反するんじゃない?」
ユダヤ教徒である自分には過ぎた世話だと思うが口にはしない。声や喋り方ですら情報。それを頼りに人格を分析される恐れもある。
雄弁は銀、沈黙は金だ。敵に何も与えてはいけない。
確かにツツジの肢体は少女とは思えぬほど艶めかしい。ボディラインを如実にトレースする外装の上からも彼女のスタイルは見て取れる。円錐型の乳房、ほどよい腰のくびれ、張りあるぴっちりとした肉付きの尻。鍛え上げられたうえ洗練されており、とても理想的だ。
こんな状況でなければ『お願い』してしまうのだがとナジブは邪念を抱いたが、相手は未成年。ガキ相手に何をバカなと気の迷いを振り払う。
「お願いだ。悪いが、『そこから動かないでくれよ』」
念押す一言に、ツツジは「分かったわよ」と両手を挙げ、無害をアピールする。
敵に居場所が割れた以上長居は無用。ナジブは身を翻し、滑るよう高台を降りる。岩場に隠したジープへ急がなくてはと焦り、ツツジが後を追ってこないかと怯え、背後を振りかえる。
そんな彼の内心を見透かしたのか、ツツジの「大丈夫。『お願い』されてんだから。追っかけたりしないわよ」の声が届きナジブは更に恐々として躓きかけた。
たかが小娘が悪魔に見える。
想像するまでもない。奴らがその気になれば人間など容易く蹴散らされる。勇士が歴史に登場した黎明期にはそうした『悲劇』があったとも聞く。それが切っ掛けで契約条項が堅く見直されたのだと。
噴き出す背中の汗に不快感を覚え始めたところだ。
きんと甲高く響いた音にナジブは我を取り戻した。
「なんだ……?」
更に一つ、二つ――。いや、数え切れないほど硬い何かが岩肌を跳ね、落ちてくる。
「これは……!」
銅貨――!?
思わずライトで照らす。数字の『一〇』と『稲穂』が刻印された銅製のコイン。それがナジブの足下から高台の頂きを点線上で結ぶよう、一定の間隔でばらまかれていた。
「まぁこっちは『近寄りもしないし、攻撃もしないし、動きもしない』けどさ」
少女の指に雷光が弾けて躍る。
「ったーく、『事故』だけはどうしようもないからねぇ」
ツツジの手からコインが放たれナジブの眼前に落下する。と同時にツツジの指先から鞭打つ稲妻が迸り、コインの上を跳ね回る。
(しまった、あいつの狙いは――ッ!)
見破ったときにはもう遅い。
胴は銀に次いで高い電気伝導率を誇る物質。一〇円玉で電気の経路を作り、対象へ届くよう配置してやればこの通り。電子操作の象術を先鋭特化させた固有の『能力』に――<電子の牧頭(フルミナント)>へと昇華させたツツジの手に掛かれば容易い芸当。
ツツジはあくまで地面に落ちた銅貨に対して電撃を放ったに過ぎない。そこにナジブに対する敵意や攻撃の意志は一切ない。
雷で編まれた蛇はコインを媒介とし、ナジブへと襲いかかる。正しくは彼の目の前で落ち行くコインに向かって。それを放電の点火装置とするべく。
(――ハナから自然現象による『事故』で俺を攻撃することかっ!!)
ナジブはコマ送りに流れる時のなか、コインに稲妻が宿る場面を目撃した。
蓄電。着火。雷が大気に漂う塵をプラズマに変え、眩く煌めく。
「――っあぐがががッ……!」
電光の鞭はナジブの全身を瞬く間に締め上げ、彼から肉体の自由を根こそぎ奪い去った。
びくびくと体を小刻みに痙攣させたナジブは陸に上げられた魚のよう身悶える。前後不覚に陥り意識を朦朧とさせる。そんな体たらくの彼だったが、耳は砂を踏みながら接近してくるツツジの声をしっかり拾い上げていた。
「暗視装置に何も映ってなくてビックリしたでしょ? あれって光を増幅して対象を観測するって仕組みじゃない。なら術で作ったぶ厚い空気の膜で車体を覆って光を屈折させれば――ってね。それにナイトビジョンは装置内の光電子倍増管内を通る光を電子に変換して映像を出力する仕組みだし、アタシの力で電子の位相をいじってやれば楽に欺瞞できる」
今までの優位に胡座をかいて敵の対策を甘く見積もった。それがナジブの敗因だった。
「脳に電気を打ち込んで自白させるってマネもできるんだけど。どう、体験してみる?」
2015/05/16 加筆修正