盗賊ギルドの掟 ~ダルムさんの場合~
寒さが、ひどく身に沁みる夜でした。
かちかちと歯が鳴ります。頬を貫くように、冷たい空気がきんきん突き刺さります。ブーツが雪を踏む度にきしきしというのすら、何だか拒絶の意思がこもっているように思えてしまいます。いつもなら温かい湯気を立てている屋台に近付いて、ほかほかの夜食を買って手を温めるんですけど、今日は――いえ。ここしばらくは、その気にもなれないんです。
ダルムさんが人を殺した。
元日の、夜に。
あたしといつも通りに別れた、すぐ後に。
わざとでは、なかったそうです。目撃したギルド員の話では、ダルムさんが被害者の人からお財布をスろうとして、見つかってしまったのが発端だったとか。そのまま酔っぱらっていたダルムさんと、やっぱり酔っていた被害者の人は揉み合いになって、そのはずみで転んだ時に頭を打って――事故に近い、殺人でした。
それでも、ダルムさんの盗賊行為によって、その人は死んだんです。そして、盗賊ギルドでは、盗賊行為に伴う殺人は絶対のご法度。冒険者が敵対したパーティと戦闘を行った時や、特別な任務を受けて暗殺に赴くのは別としてですけど、スリが見つかったのが原因で、なんてのは考慮する余地もないってされちゃいます。
そして、もっと悪いことには――ダルムさんは、そのまま逃げてしまったんです。
同じ掟違反でも、逃げずに盗賊ギルドで罪を告白していたら、その分罰が軽くなることもあるんです。盗賊ギルドに長いこといるダルムさんは、それをよく知っているはずなのに、逃げることを選びました。
容赦する必要はない、手向かうなら殺してでも連れて来るように。そう言ったギルド長の顔は冷静そうに見えましたけど、いつもの間延びした口調が消えていて、それがひどく苦しげに聞こえました。盗賊ギルドの力を以ってすれば、ダルムさんは遠からず見つけられるでしょう。そのダルムさんに処罰を下すのは、ギルド長の役目です。時には同じカードゲームの卓を囲み、ギルド員とギルド長として長い時を共にした、ダルムさんを断罪しなければいけないんです。
秋にも、処刑がありました。けれどそれは、ギルド員ではない掟破りの人達でしたから、身近な人を失うかもしれないというあたし達の、そして自分の手で失わせなければいけないというギルド長の苦しみはありませんでした。
――ずっとぐるぐると考えている間に、あたしはいつの間にか銀の箸亭の勝手口をくぐり、階段を下り、そしてギルドの扉に手を掛けていました。けれどそこで、一度手が止まります。
もし今、処罰の最中だったら。もしここに、ダルムさんがいたら。処罰のときはわざわざ人を呼び集めることこそしませんが、その時ギルドにいたギルド員は必ず処罰を見ていなければいけません。――知らないところでいつの間にか処罰されて、いなくなっていた、なんていうのも辛いですけど、身近な人が断罪されるのを見るのだって、苦しいものがあります。
深呼吸。2度、3度。ようやく覚悟を決めて、あたしはギルドの扉を開きます。あの日から、ひどく重く感じる扉を。
「こんばんは、アリカさん」
顔を上げてそう言ったのは、受付に座っていたハレスくんでした。返事をする前に、あたしはそっと鼻から息を吸い込みます――血の臭いは、しません。
「こんばんは、ハレスくん」
笑顔を作ったつもりでしたけど、どこかぎこちなかったかもしれません。けれどそれは、ギルド員ならば誰でも一緒。
いつもならもう盛り上がっていることもあるカードゲームは、カードの箱が開かれてすらおらず、テーブルの隅っこにぽつんと置かれています。それを除けば普段通りにたむろし、言葉を交わしているかのようなギルド員達ですけれど、会話もすぐに止まりがちで、いつもの暖かな空気が感じられません。
太陽の復活祭の宴会を盗賊ギルドのみんなで祝うように、ギルド員は家族同然……いえ、家族なんです。その家族を自分の手で探し出し、裁かなければいけない。その事実が、誰の胸にも重くのしかかっているんでしょう。
ハレスくんと少ない会話を交わして、あたしは受付の椅子に座ります。いつもは楽しい受付の仕事も、こんな時は気が重いばかり。
けれどいつも通り、音もなく扉は開きます。
1つそっと深呼吸してから、あたしは何とか口の端を吊り上げて、笑顔らしきものを作って。
いつも通りを心がけて、口を開きます。
「ようこそ、盗賊ギルドへ!」
「お邪魔する。……あの、ココットさんからここに来るようにと連絡をもらったんだが」
最初に顔を出したのは、リンドさんでした。元々はワイザリック自由都市の冒険者パーティの一人なんですけど、そこで悪事を働いていた邪術士を追ってクレドランスに来たとのことです。その後なかなか足取りが掴めなかったらしくて、しばらくクレドランスで冒険者としていくつか仕事をしていたみたいです。何度か上納金を払いに来た時に、そう教えてくれました。
「ええ、わかりました。――ココットおばあちゃん」
あたしが振り向いて声をかけると、それだけでココットおばあちゃんは用件がわかったみたいです。個室の鍵をあたしから受け取って、「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」とリンドさんを案内していきました。
そのすぐ後にやって来たのは、ナナリちゃんでした。「ようこそ、盗賊ギルドへ!」といつもの笑顔で迎えたつもりだったんですけど、ナナリちゃんは眉を寄せて首を傾げます。
「アリカさん、どうしたんですか? アリカさんも、ギルドのみんなもなんだかおかしいです……」
――そういえばナナリちゃんは、今年に入ってからギルドに顔を出したのは初めてでした。ということは、まだダルムさんのことを知らないはず。
「あ、そういえばダルムさんはまだ来てないんですか?」
そしてタイミングよく――というか悪くというか――ダルムさんの話題を、口に昇らせるナナリちゃん。
ナナリちゃんだって立派なギルド員ですから、知らせないわけにはいきません。それがあたしの口からってのは気が重いですけど……誰かに任せるのも、ギルド員として無責任です。
そう心を決めて、あたしが口を開こうとしたところでした。
「あ、でもダルムさん歓楽街の方に行ったみたいだから、今日は来ないのかも……」
「っ!?」
がたん、と椅子が倒れる音がしました。いつの間にか、あたしは立ち上がってたんです。
「ナナリちゃん、それ、見たの?」
「あ、はい……」
「いつ?」
「あの、私がここに来るときです。そんなに前じゃありません」
あたしが振り向いた時には、何人かのギルド員は既に身支度を終えていました。
ある人は軽い胸当てや籠手を身に着け、ある人はマントだけを羽織り、得物は大抵は短剣か小剣――戦いの準備を、整えて。
その中には、リュンスさんの姿もあります。ダルムさんとは、いつもカードゲームをしたり飲みに行ったり、何かとつるんでいたリュンスさん。
目が合うと、いつもの穏やかな笑みを浮かべてくれます。その様子からは、長年の友人をギルドの裁きにかけるため捕えに行くことへの悩みや辛さを、感じ取ることはできないように見えます。でも、わかりました。リュンスさんが、ダルムさんの身を案じていることが。
なぜならリュンスさんが持っていたのは、鞭だったのです。ただ振るうのですら扱いの難しい鞭。けれど熟練の腕で振るえば、その鞭は相手を傷つけず捕えることすらできるんです。
もともとリュンスさんは、いくつかの武器を使い分ける人でした。冒険者として活動していたこともあって、魔物ごとに使う武器を変えなきゃいけないときもあるからな、って小さかったあたし達にいろんな武器の型を見せてくれたこともあります。その多くの得物の中で鞭を選んだのは、少なくともダルムさんに、ギルドの掟以上の傷を与えたくないということ。
ギルド員達が、受付を通りぽかんと目を瞬かせているナナリちゃんの横を通り、扉の外へと出て行きます。その最後尾で振り返り、リュンスさんはあたしを安心させるように笑うんです。
「連れて、帰ってくるよ」
――それが一番辛い役目なのは、十二分にわかった上で。
「いってらっしゃい」
精一杯、あたしもリュンスさんと同じ笑顔が出来るように心がけて頷けば、リュンスさんも頷き返してくれて――扉が、音もなく閉まりました。
「…………アリカさん。一体どうしたんですか? ダルムさんは……!?」
あとに残されたのは、戦闘のできないログロ爺さんやハレスくん、それに今来たばかりのナナリちゃん。
我に返って詰め寄ってくるナナリちゃんに、あたしは静かにこれまであったことを話し始めました。
話し終えたときナナリちゃんは、まだ呆然とした様子で椅子にぺたんと座り込んでいました。
「ダルムさん、が……」
街で美人局をしていた女の子が処罰されたとき、ナナリちゃんは当然だと言っていました。けれど、流石に知り合いであるダルムさんが処罰されることを、そしてそれを間近で見なければいけないかもしれないということを、受け入れることができないみたいで――それにナナリちゃんは、その処罰の時には立ち会っていなかったらしいですし、残酷になることも多い処罰への恐怖もあるんでしょう。そしてそれを間近で見なければいけないこと、それも知っている顔が苦しんでいるところまで。
しばらくの沈黙の後、ナナリちゃんはぽつり、と吐き出すように呟きました。
「……盗賊ギルドの掟は、ギルド員を守るためだけじゃ、ないんですね……」
「そりゃあ違うぜ、ナナリ」
そしてその言葉にゆっくりと立ち上がったのは、ログロ爺さんでした。義足を踏みしめ、ゆっくりとナナリちゃんのそばに来たログロ爺さんは、俯くナナリちゃんの顔を腰をかがめて覗き込み、口を開きます。
「厳しい処罰もな、ギルド員を守るためなんだ」
「だって……ダルムさんを、守ってくれないじゃないですか……」
「だったらナナリ、考えてごらん。もしどんなに凶悪な犯罪を犯しても、そいつが処罰されなかったら、盗賊ギルドはどうなる?」
何か言おうとしたナナリちゃんの唇が、はっとしたように動きを止めます。代わりに頷いたログロ爺さんが、答えを告げます。
「そうだ。止めるもんがいなきゃあ、手軽に稼げる方法に走るだろうよ。財布をスるより殺して身ぐるみ剥いちまった方が早い奴もいる。人質取って金持ちから金を引き出すことだってできる。だがなぁ、それじゃ盗賊ギルドは憲兵に目ぇ付けられて、一網打尽さ」
「……でも」
俯いたまま話を聞いていたナナリちゃんが、おずおずと問い返します。
「ダルムさんは、わざとやったわけじゃないです……」
けれどログロ爺さんの答えは突き放すようで、けれど限りなく正確でした。
「それを許しちまったら、わざとじゃないって言い逃れする奴が出るのさ。盗賊ギルドにいるのは、少なくとも善人じゃない。人様の持ち物を不当にかすめ取って生きてる奴らだ。厳しいこと言うなら、ナナリだってそうだ」
だからこそ、盗賊達を守るためには、縛らなければいけないんです。
それも、ただの決まりなんかじゃなくて、厳格な刑罰によって。
――あたしにも最初の処刑を目の当たりにして、泣きながらどうして、どうしてって言ってたときに、ログロ爺さんが語ってくれたことでした。
「そういう奴らを度を超えた犯罪に手を染めちまうことから守り、そしてそういう奴らから盗賊ギルド自体と、普通に暮らしてる表の奴らを守る。そいつが、盗賊ギルドの掟の役目だ」
ナナリちゃんは、長いこと黙ったまま何も言いませんでした。――きっと、何も言えなかったんです。
あたしだって、そうでした。今だって本当に受け入れきれているかといえば……ダルムさんが処罰されるのも仕方ないという理性と、一度逃げてしまったからにはどうにか逃げてほしいという気持ちが、ぐるぐるしたままです。受付という仕事をしている以上、誰とでも会話し誰とでも仲良くなるあたしにとっては、身近なギルド員が処罰されるのを目の当たりにするのは、その人の死の次にか、それと同じくらい辛くて仕方ないことなんです。
けれどその混乱したままの思考を断ち切るかのように、扉が開きます。
ようこそ、と言おうとしたあたしの声が、ぐっと喉で詰まって痛みます。
「よ、アリカちゃんにナナリちゃん。久しぶり」
そうにっと笑って言う顔も、仕事の稼ぎを持って来たときみたいな声も、驚くほどにいつも通りで。
ただ、手首に縄を掛けられ、周りを武装したギルド員達に囲まれたことだけがいつもと違うダルムさんは、その手を軽く振って受付を通り過ぎ、座るよう指示された椅子にどっかりと腰を下ろしました。
ダルムさんの体をギルド員が椅子に縛り付ける間に、他の椅子やテーブルが片付けられ、そこには広い空間が出来ます。その間にあたしは階段を昇り、盗賊ギルドに誰も通さないように銀の箸亭のマスターに言づけます。「野鴨が檻に入ったので」と符丁を耳に囁くだけで、マスターは無言で軽く頷いて、焼き鏝を暖炉に放り込み、ギルドを訪れる人を、今日はお相手できないと帰してくれます。
それを終えて下りていく階段で、リンドさんとすれ違いました。薄暗い階段の、ランプの僅かな灯りでもわかるくらいに顔を蒼ざめさせたリンドさんは、きっとあまり良くない情報をココットおばあちゃんから聞かされたのでしょう。けれど「そちらのギルドも大変そうだな、あまり気に病むなよ」とかけてくれた言葉には、同じように盗賊ギルドに所属する者としての労りが感じられて、あたしは素直に「ありがとう、リンドさんもあまり無理しないでね」と頷き返すことができました。
階段を下りきったところで、深呼吸して扉を開きます。中にはすっかり大きく空いた空間ができ、その真中にダルムさんが椅子にしっかりと縛り付けられています。傷はないようなので、リュンスさんが鞭を使い捕えたのか……それとも、ダルムさんが手向かいしなかったのか。
「ダルムよォ。一体何で逃げ出したんだいィ?」
リュンスさんが、しゃがんで視線を合わせてダルムさんに問いかけます。はは、と笑ったダルムさんは、縛られたまま肩を竦めるようなしぐさをしてみせます。
「この前ふと女くらい抱いとこうと思って買った娼婦がね、俺くらいしか客がいないって泣き言言うのよ。あのおやっさんを殺っちまった後に、ふいとそのことが浮かんでね。ああ、誰か殺して死ぬんなら、あの女の一人くらい幸せにしてから死にてぇなぁ、って思ってね」
そういえば少し前、カードゲームで珍しく勝ったダルムさんが、「いやー奢っても金が余るっていいねぇ」と言いながらほくほく帰ったことがありました。きっと、その時のことでしょう。
「じゃあそいつを身請けでもしてやったのかァ?」
「そんな甲斐性はねぇからなぁ。ま、遠いところに引っ越すからって金を渡してやったさ。2年くらいは食うに困んねぇだろうし。ああアリカちゃん、俺の懐に上納金があるからよ、取ってってくれ」
リュンスさんがダルムさんの懐から麻袋を引き出し、「こりゃ稼いだねぇ」と言ってあたしに渡してくれます。袋の中身を覗きこめば、そこにはかなりの量の銅貨と銀貨、そして数枚の金貨。
「20枚盗ったら1枚のけときゃいいんだろ。俺は計算はできねぇが、せっせと数えてよけといたのさ」
そうダルムさんが言ったときでした。ギルド長の部屋の扉が開き、ダルムさんを除く全員が立ち上がったのは。
「アリカ、そのお金は記録しないで置いといて。あとで使う」
ギルド長は表情を硬くし、右手には大きな斧を持っています。刑罰に使う血の染み込んだ斧に、隣にいたナナリちゃんがごくり、と唾を飲み、あたしの服の裾をぎゅ、と掴みます。
「娼婦にかける情は結構なことだ。その分被害者へかける情は思いつかなかったようだけど――被害者ローレム・ディバルド48歳。王の傍仕えとしての待遇を有してはいたが、一代限りの準貴族に過ぎず、殺された今ディバルド氏の妻子は年金を受けることが出来ない。自分の生きている間にと思って、息子を全寮制の学校に通わせているため貯金もなく、これからの困窮は目に見えている――」
ゆっくりと、事務的な口調で被害者の人となりが語られます。ダルムさんは、目を閉じたまま黙ってそれを聞いています。
こうしてギルド長が被害者のことを語るのは、掟を犯したギルド員に反省を促しているわけではありません。盗賊ギルドの掟は厳しいですが、罪状に応じた罰が下されます。相手がどうしようもない悪党だったり、何も落ち度がないのに襲われて応戦したら相手が死んでしまったときなどは罪は軽く、面白半分に殺した時や今回のダルムさんのように自分の失敗がそもそもの原因の時、また相手が必死に生きている善良な人だったりすれば、罪は重くなります。
しんと静まり返った、という表現すら躊躇われるような、空気が鉛と化したような沈黙。その中でただダルムさんだけが覚悟を決めたように目を閉じ、ギルド長だけが口を開き、全員に聞こえるようはっきりと告げます。
「ダルム。右手と、右足を斬り落とす。稼ぎ手を失った家族のように不自由な体のまま人の慈悲にすがって生きるか、償い代わりに命を絶つか、それはお前の心に任せよう」
ナナリちゃんが息を呑む、ひゅ、という音が聞こえてきました。服の裾を掴んだ手が、かくかくと震えだします。
「……はい」
目を開いたダルムさんがギルド長を見つめ、そしてゆっくりと頷きます。
右手と右足。盗賊としてやっていくのに必要な利き手利き足を斬り落とす。一思いに殺された方がましかもしれない、ひどく重い刑でした。
「右手から。リュンス、斧を頼む」
一瞬の逡巡の後、リュンスさんが頷いて、ギルド長から斧を受け取ります。斧を預かるということは、処刑の執行人となること。盗賊ギルドの中でも斧を扱える人は多くないので、リュンスさんが執行人を引き受けることが多いのですけれど――あまりにも、残酷でした。
ギルド長もそれがわかっていて、けれどリュンスさんに頼まざるを得ないのもわかっているのでしょう。ぎゅっと引き締められた唇が、きつく噛み締められています。
銀の箸亭のマスターが下りてきて、焼き鏝とお湯を医者でもある情報屋のセドラさんに渡します。その他にも清潔な布、包帯といった、手当に必要なものが並べられます。ギルド長が死を宣告した場合を除けば、処罰によって殺してしまうことは絶対に避けたいことですから――そうでなければ、手足を斬り落とす刑の意味がありません――盗賊ギルドで唯一医者の技能を持つセドラさんは、処刑が行われる時ギルドにいなければ誰かが呼びにやられるくらい、大切な人なんです。
「準備が出来ました」
その言葉にギルド長が頷いたのが、始まりの合図。傷の手当の準備の間に、ダルムさんは清潔な布を口に噛まされ、右足はもう一つの椅子にくくりつけられてあります。そしてその膝に、斧が振り下ろされます――!
一瞬、でした。
ぐうううう、とダルムさんの押し殺した呻き声が上がります。素早くセドラさんが動き、清潔な布で傷口の近くを縛って焼き鏝を押し当てます。じゅうう、と血の焼ける嫌な臭いと同時に、さらに大きくなる呻き声。徐々に濃さを増す、鮮血の臭い。ぎゅっと目を閉じようとしたナナリちゃんに、ログロ爺さんが静かに声を掛けます。
「見てやれ、ナナリ。これが――盗賊ギルドだ」
そう。
明るくカードゲームをしたり、宴会で盛り上がったりするのだって、もちろん盗賊ギルドの本当の姿です。けれど、それは本当の姿の1つにすぎなくて――盗賊ギルドは、その内側に深い深い闇をも、抱え込んでいるんです。
「手当て、終わりました」
セドラさんが、感情を感じさせない声で言います。膝で切断された傷口は、既に布と包帯でしっかりと覆われていました。
処罰されるダルムさん。断罪したギルド長。斧を振るったリュンスさん。死んだ方がましなほどの苦痛を、けれど死なせないために手当てするセドラさん。そして、周りで見ているギルド員達――全員が、苦しいんです。辛いんです。中には人を殺すことは何とも思わないギルド員だっていますけど、『家族』が殺されるなら話は別ですから。
言われた通りに必死に目を見開くナナリちゃんの瞳から、涙が零れ落ちます。崩れ落ちそうになった体を、あたしは自分の体で支えました。――あたしだって、そうでしたから。
「では、右手を」
ダルムさんの右手が椅子の背に縛り付けられ、再び斧が上がります――!
あまりの痛みに気絶していたダルムさんは、目を覚ましたところで一本の杖を与えられ、外へと放り出されます。そこまでが、盗賊ギルドの処罰なのです。
片付けが行われている間に、あたしは気を失ったナナリちゃんを抱えて、銀の箸亭に部屋を1つ取ります。部屋代はギルド長が出してくれましたし、傍についている許可ももらいましたので、あたしはナナリちゃんを部屋のベッドに寝かせて、開いたままだった目を閉ざしてから、椅子を持ってきてベッドの傍に腰掛けました。
時折うなされていたナナリちゃんが目を覚ましたのは、明け方でした。
「……ダルムさんは?」
「行ったわ」
短く言ったあたしに、ナナリちゃんは目を見開きます。
「あの怪我で?」
「それが、掟だから」
ナナリちゃんは黙ったまま、じっと前を睨むように見つめていました。やがて、ぽつりとその唇が開きます。
「アリカさんは、全部掟だって言って、納得できるんですか。自分の大好きな人が、裁かれても」
大好きな人。
ナナリちゃんの言葉を聞いた瞬間に、浮かんできた面影。そこに振り下ろされる斧が重なって、血が飛沫く――あたしは軽く首を振ってその光景を振り払ってから、静かに言いました。
「それが、盗賊ギルドに所属するってことよ」
「でも、やめたくてもやめられないんでしょう?」
――あたしが最初に処刑を見たときに、ログロ爺さんが言ってくれた言葉がありました。
それをナナリちゃんに伝えるのは、あたしの役目でしょう。
「もしも逃げたかったら、遠くに遠くに逃げなさい。家族も連れて、絶対に戻って来ない場所に逃げなさい。元々盗賊ギルドは、上納金を納めない人を追ったりはしないわ。それでも、ギルドの裁きを受けたくないなら、ギルドの目が届かないところまで逃げなきゃいけない」
そう、それは、あたしが最後に与えられた、盗賊ギルドに所属するかどうかの選択肢でした。
あたしには家族もおらず、縛るものはありませんでした。ナナリちゃんには養わなきゃいけない家族がいますけど、それなりに貯めたお金があるはずです。逃げることは、不可能ではありません。
それでもあたしは、この血なまぐさい掟を持つ盗賊ギルドに所属することを選びました。――ナナリちゃんは?
「……逃げません」
そう、小さな声でしたけど、はっきりとナナリちゃんは言いました。
「私はアリカさんに捕まる前から、どんな犯罪に手を染めてでも、家族を食べさせなきゃって思ってました。それを助けてくれたのは、全部盗賊ギルドです。ギルドの掟に助けられたんだから、ギルドの掟に裁かれるかもしれなくても、大切な人が裁かれたとしても、家族さえいい生活ができるなら……」
文章にしてしまえば、支離滅裂な言葉かもしれません。ですけどあたしには、ナナリちゃんの言いたいことが、泣きたいくらいの覚悟が伝わってきました。
ナナリちゃんはあの日、誓約書にサインした日、もうとっくに決断していたんです。そしてそれをひっくり返せるほど、そしてもう一度お日様の下に堂々と戻れるほど、器用じゃないんです。
「でも……」
ナナリちゃんの声が、涙を帯びます。布団で顔を隠しながら、ナナリちゃんは涙声で言いました。
「今は、泣いても、いい、ですか」
「うん、もちろん……」
何に対して泣くのか、あたしにはナナリちゃんの心の中はわかりません。けど、あたしも初めて知り合いが処刑されたとき、ログロ爺さんに言われたとき、そして盗賊ギルドにいることを決めたとき、泣きました。処刑された人のことを思って、逃れられない掟に縛られた自分を思って、そして将来処刑されるかもしれない可能性を思って――いろんな感情がぐるぐる回って、わけがわからなくなるくらい泣いて――全部、心の中に収めてしまうことができました。
ナナリちゃんも、きっとどうにもならない感情が、涙になって溢れて来るんでしょう。だったら泣けばいいんです。もっともっと、気が済むまで泣けばいいんです。
静かな部屋に、ナナリちゃんの泣き声だけが、響き続けました――。
ダルムさんの最後の上納金は、ギルド長の手によってそれなりの金額を足され、色んな人の手を渡って、そっとディバルド家に届けられました。
その報告で、盗賊ギルドではその事件は終わりました。血の臭いも消えた部屋に、再び喧騒が帰ってきて、ダルムさんがいない以外はすっかり元の盗賊ギルドに戻ったのです。
でも――その事件は、まるで小さな木の玉を弾いて他の木の玉に当てる遊びみたいに、次々に他の玉を動かし、やがてとんでもない事件へとつながってしまったんです。
だけどあたし達はまだそんなことは知らず、ただ普段通りの日常を過ごしていたのでした――。