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ハンカチは7歳の誕生日にもらった。

作者: こき

その途端、確かに目があった。


蒸し暑い音楽室で、合唱大会の練習をしていた音楽の時間、

ピアノの前に座った私は、歌い終わったみんなと先生の指摘を聞き流していた。

男声が全然聞こえません、などと、私にも指摘できそうな言葉の数々。

得意げに喋り捲る先生の声に交じって


つ。


と、確かに彼と目があった。

交差する直線のように、視線はもう二度と交わらなかった。



「ねぇ」

帰り道で、遠くから聞き覚えのある声がした。

後ろから足音がする。呼吸が聞こえる。走ってくる。近づく。

「ねぇ、高橋さん。」

私の名を呼ぶと同時に、隣をすべりぬけて木田くんが現れた。

息をととえている。

「私?ごめんね、なに?」

「あ、これ、おとした、この、」

息と言葉を継ぎながら、懸命に彼は私に差し出した

「ハンカチ。」

かっと紅が上った。ポケットをさぐる。「うっ…そ」

「みたの?」

「みたよ。」

ようやく息が整ってきたようだ

「ちゃんと名前書いてるなんて、いまどき珍しいね、高校生なのに。」

言葉がなくて、私はハンカチを奪い取り走った。

私を呼ぶ声は聞こえなかった。



蒸し暑い音楽室で、むさくるしい先生の声を遠く聞きながら、

私はうつむいた。


彼がハンカチを拾ってくれた日以来、私は彼と言葉を交わしていない。

やっと交わしたはずの視線も、湿度の中に通り過ぎてしまった。


本当はちゃんとお礼が言いたかった。

ハンカチ一枚であんなに走ってくれた彼に、一言お礼を、そしてお詫びを言うべきだった。

聞いた話では、あのあとは部活に行ったらしい。

あんなに走らせた後、さらに部活に向かった彼を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

彼の所属しているバスケ部は、練習が厳しいと有名だった。


しかし、あんな失礼なことをしておいて、今さら彼に何て言おう?

どうすれば彼は私と話してくれる?


心が締め付けられている間に、

生徒たちは音楽室を出て行った。


曇り空に重く響く。チャイムはとっくに鳴り終わっていた。


「電話でもしちゃえば?」

由美はあっさりと答えた。由美は私の中学からの親友である。

私たちは、高校の最寄り駅のロビーで、焦げ茶色のソファに腰掛けていた。

「本気で言ってる?」

「もちろん。だってお礼が言いたいんでしょ?」

「お詫びも。」

「直接言うのが無理なら、メールすればいいのに、それじゃ嫌なんでしょ?」

「うん。ちゃんと声で言いたい。」

「じゃあ電話しかないじゃない。」

私はしばらく黙り込んだ。

「ハンカチなんだから、そんな構えなくてもいいんじゃない?そもそもどうして逃げたの?」

「だって高校生にもなって、ハンカチに名前書いてるなんて恥ずかしいよ。」

「恥ずかしいって…。もしかして彼のことが好きなの?」

さすが、私の親友である。

「わかんない…」

私はまた黙り込んだ。

由美は私の顔を覗き込む。

「好きなんでしょ?好きならそう言えばいいじゃない。」

「言うって…何を?」

「何をって!ああ!もうじれったいなぁ!」

言うが早いか由美は私の手から携帯を奪い取り、素早く操作し始めた。

「ちょっと!」

手元に返ってきた時には、もう発信を始めていた。相手は、

“木田 祐樹”

「頑張ってね!じゃーね!」

そのまま立ち上がると手をひらひらさせながら由美は走り去った。

るるるる、るるるる、るるるる、るるるる、

なおも電話はかかり続ける。

私は電話を耳につけたまま、石のように立ち尽くしていた。

るるるる、るる『はい』

低い声が届いた。

「もしもし、あの、えっ、木田くんですか?」

『うん。高橋さんだよね?』

「あ、はい。うん。あの」

『急にどうしたの?』

「あの、」

言葉が続かない。木田くんは言葉を待って、黙り込んでいる。

「あの、話があって」

『今、駅にいるよね?』

「えっ、うん。」

慌てて見回す。

『時間大丈夫?』

「時間?え、うん、え?」

『行くからさ、30分、や、20分そこにいて。』

「え?」

つー、つー、つー。

展開が飲み込めず、私はソファに座り込んだ。


その後、空はゆるやかに崩れて、やがて大雨になった。



40分は待っただろうか。彼は一向に現れない。

私は何度か電話をかけたが、彼は応答しなかった。


そもそも何故私の居場所が分かったのだろうか。

20分と言った彼は、いつものように自転車で来るつもりだったのだろう。

こんな雨の中で、一体どうしているのだろうか。


50分待った。

さすがに、私は彼を疑いそうになる。

本当は来る気は無かったのではないか。

ソファに深く腰掛け、私はうなだれた。

やっぱり、一方的でもいいから、メールにしておけば良かった。


1時間経った。

私はゆっくりと立ち上がる。

雨は全く弱まらないまま、世界を濡らしていた。

“京都線は、車両故障の影響により、しばらく運転を見合わせておりましたが、

先ほど、運転を再開致しました。次の、京都行き、快速急行は、18:35分、発でございます。”

駅のアナウンスが聞こえる。

今は18:02分。私が帰る電車は、もうしばらく先のようだ。

再び私はソファにこしかけた。

同時に、私の座っている隣に、水滴が落ちてきた。


びくっとして見上げると、そこには、

ずぶ濡れの木田祐樹が立っていた。

「待たせて、ごめん」

下げた頭から、ぱたた、と水滴が落ちた。


私は首を横に振った。

「何があったの…傘は?なんでそんなに濡れてるの…?」

「ああ、家を出たら、降りだしたんだ。」

木田くんは整わない息で説明した。私はまだ状況が掴めず、ハンカチを探して鞄を探った。

「電話で、駅のアナウンスが聞こえたから、高橋さんがここにいるのはわかってたんだけど、

来る途中で携帯水没しちゃって。雨が思ったよりも強くて。」

「まさか走ってきたの?」

「うん。電車、動いてなかったし。チャリ高校におきっぱにしてたし。」

慌ててハンカチを差し出す。

「いいよ帰りまた濡れるから。」

木田は息を整えて私の隣に座った。

「で、話は何?」

木田くんは私の顔を見た。


私は顔を真っ赤にして、ハンカチを握りしめた。

木田くんは、私が話し始めるのを待っている。

「…話は、この前、ハンカチ拾ってくれて、その、お礼が言いたくて、」

ぽつ、ぽつ、と私は言葉を選んでは、こぼした。木田くんは小さく相槌を打つ。

「でも、お礼だけじゃなくて、謝りたくて。」

「謝る?なにを?」

「ちゃんとお礼も言わずに、逃げてごめんなさいって言いたくて。せっかくハンカチ拾ってくれたのに。」

木田くんは私の目を覗いた。

「ごめん、それだけ…」

木田くんはうつむいた。

「ごめんなさい、ちゃんと謝ろうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて、

だから今日電話で謝ろうと思って、そしたら、来てくれるって言ったから、

自転車で来てくれるんだと思って、でもすぐに雨で…

また走らせてしまって、本当にごめんなさい。」

「いいよそんなこと」

私は顔をあげた。木田くんは笑っていた。

「そんなの仕方ないじゃん。雨なんて、自然現象なんだから。

それとも、高橋さんが降らせたの?」

私は慌てて首を振った。

「それに、ハンカチは、俺も悪かったと思ってるよ。

あんなの指摘されたら嫌だよな。長く使ってるハンカチだなと思ったよ。」

木田くんが、私を馬鹿にしていないのだとわかってホッとした。

「でも本当は、あのハンカチは俺が拾ったんじゃないんだ。」

「え…?」

木田くんは立ち上がった。

「あの日、頼まれたんだ。斉藤さんに。」

由美のことである。

「ハンカチを渡してきて、これを、届けてくれないかって。

持ち主は、少し前に校門を出てしまって、走らないと追いつかないって。」

そう言って、木田くんはまた笑った。

「あの時疑えばよかった、というよりも、全部見透かされてたんだ。俺。

ハンカチには、タグのところにひらがなで名前が書いてあったし、

ハンカチを届けて学校に戻ると、斉藤さんが問い詰めてきたんだ。

授業中の視線でわかるって言ってた。」

そこまで言うと、木田くんは笑顔をやめて、私をまっすぐに見た。

「俺、高橋さんのこと、ずっと好きだった。」

その瞬間、雨の音も聞こえなくなって、私は頭が真っ白になった。

「俺は、それが言いたかったから、ここへ来た。」

彼は、そう言ってまた笑顔を作った。

「でも、聞いた話では、高橋さんは恋煩っているそうです。」

斉藤由美は一体どこまで話したのだろう。

「そういうわけだから、返事はいらない。伝えたいことを伝えたから、帰るわ。」

彼は伸びをすると、外を見やった。

「まだ降ってるけど、夕立だよ、すぐに止むと思う。気を付けて帰れよ。」

彼はくるりと体を翻すと、手を振って軽やかに走り出した。

少しずつ遠ざかっていく。

広い構内をまっすぐに出口へと走る。その影に、私は思わず叫んだ。「ねぇ!」

構内に声が響きわたる。影は立ち止まった。

「ひとつだけお願いがあるんだけど!」

影はゆっくりと振り返った。乾きかけていた髪が再び濡れている。

「雨がやむまで一緒にいてくれませんか」

影は動かない。代わりに声が聞こえた。「なんで?」

「だって」声の大きさはもう気にならなかった。


「あなたがすきだから。」


音のない時間がゆっくりと流れた。

遠くから小さく、はっきりと、声が届いた。


「ハンカチ、貸してくれる?」




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[良い点]  誤字脱字が見当たらないこと。読みやすく、わかりやすいこと。 [気になる点]  段落の頭はスペース一個空けましょう。セリフの末尾でカギ括弧で閉じる場合は、「。」は要りません。 [一言]  …
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