ハンカチは7歳の誕生日にもらった。
その途端、確かに目があった。
蒸し暑い音楽室で、合唱大会の練習をしていた音楽の時間、
ピアノの前に座った私は、歌い終わったみんなと先生の指摘を聞き流していた。
男声が全然聞こえません、などと、私にも指摘できそうな言葉の数々。
得意げに喋り捲る先生の声に交じって
つ。
と、確かに彼と目があった。
交差する直線のように、視線はもう二度と交わらなかった。
*
「ねぇ」
帰り道で、遠くから聞き覚えのある声がした。
後ろから足音がする。呼吸が聞こえる。走ってくる。近づく。
「ねぇ、高橋さん。」
私の名を呼ぶと同時に、隣をすべりぬけて木田くんが現れた。
息をととえている。
「私?ごめんね、なに?」
「あ、これ、おとした、この、」
息と言葉を継ぎながら、懸命に彼は私に差し出した
「ハンカチ。」
かっと紅が上った。ポケットをさぐる。「うっ…そ」
「みたの?」
「みたよ。」
ようやく息が整ってきたようだ
「ちゃんと名前書いてるなんて、いまどき珍しいね、高校生なのに。」
言葉がなくて、私はハンカチを奪い取り走った。
私を呼ぶ声は聞こえなかった。
*
蒸し暑い音楽室で、むさくるしい先生の声を遠く聞きながら、
私はうつむいた。
彼がハンカチを拾ってくれた日以来、私は彼と言葉を交わしていない。
やっと交わしたはずの視線も、湿度の中に通り過ぎてしまった。
本当はちゃんとお礼が言いたかった。
ハンカチ一枚であんなに走ってくれた彼に、一言お礼を、そしてお詫びを言うべきだった。
聞いた話では、あのあとは部活に行ったらしい。
あんなに走らせた後、さらに部活に向かった彼を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
彼の所属しているバスケ部は、練習が厳しいと有名だった。
しかし、あんな失礼なことをしておいて、今さら彼に何て言おう?
どうすれば彼は私と話してくれる?
心が締め付けられている間に、
生徒たちは音楽室を出て行った。
曇り空に重く響く。チャイムはとっくに鳴り終わっていた。
「電話でもしちゃえば?」
由美はあっさりと答えた。由美は私の中学からの親友である。
私たちは、高校の最寄り駅のロビーで、焦げ茶色のソファに腰掛けていた。
「本気で言ってる?」
「もちろん。だってお礼が言いたいんでしょ?」
「お詫びも。」
「直接言うのが無理なら、メールすればいいのに、それじゃ嫌なんでしょ?」
「うん。ちゃんと声で言いたい。」
「じゃあ電話しかないじゃない。」
私はしばらく黙り込んだ。
「ハンカチなんだから、そんな構えなくてもいいんじゃない?そもそもどうして逃げたの?」
「だって高校生にもなって、ハンカチに名前書いてるなんて恥ずかしいよ。」
「恥ずかしいって…。もしかして彼のことが好きなの?」
さすが、私の親友である。
「わかんない…」
私はまた黙り込んだ。
由美は私の顔を覗き込む。
「好きなんでしょ?好きならそう言えばいいじゃない。」
「言うって…何を?」
「何をって!ああ!もうじれったいなぁ!」
言うが早いか由美は私の手から携帯を奪い取り、素早く操作し始めた。
「ちょっと!」
手元に返ってきた時には、もう発信を始めていた。相手は、
“木田 祐樹”
「頑張ってね!じゃーね!」
そのまま立ち上がると手をひらひらさせながら由美は走り去った。
るるるる、るるるる、るるるる、るるるる、
なおも電話はかかり続ける。
私は電話を耳につけたまま、石のように立ち尽くしていた。
るるるる、るる『はい』
低い声が届いた。
「もしもし、あの、えっ、木田くんですか?」
『うん。高橋さんだよね?』
「あ、はい。うん。あの」
『急にどうしたの?』
「あの、」
言葉が続かない。木田くんは言葉を待って、黙り込んでいる。
「あの、話があって」
『今、駅にいるよね?』
「えっ、うん。」
慌てて見回す。
『時間大丈夫?』
「時間?え、うん、え?」
『行くからさ、30分、や、20分そこにいて。』
「え?」
つー、つー、つー。
展開が飲み込めず、私はソファに座り込んだ。
その後、空はゆるやかに崩れて、やがて大雨になった。
*
40分は待っただろうか。彼は一向に現れない。
私は何度か電話をかけたが、彼は応答しなかった。
そもそも何故私の居場所が分かったのだろうか。
20分と言った彼は、いつものように自転車で来るつもりだったのだろう。
こんな雨の中で、一体どうしているのだろうか。
50分待った。
さすがに、私は彼を疑いそうになる。
本当は来る気は無かったのではないか。
ソファに深く腰掛け、私はうなだれた。
やっぱり、一方的でもいいから、メールにしておけば良かった。
1時間経った。
私はゆっくりと立ち上がる。
雨は全く弱まらないまま、世界を濡らしていた。
“京都線は、車両故障の影響により、しばらく運転を見合わせておりましたが、
先ほど、運転を再開致しました。次の、京都行き、快速急行は、18:35分、発でございます。”
駅のアナウンスが聞こえる。
今は18:02分。私が帰る電車は、もうしばらく先のようだ。
再び私はソファにこしかけた。
同時に、私の座っている隣に、水滴が落ちてきた。
びくっとして見上げると、そこには、
ずぶ濡れの木田祐樹が立っていた。
「待たせて、ごめん」
下げた頭から、ぱたた、と水滴が落ちた。
私は首を横に振った。
「何があったの…傘は?なんでそんなに濡れてるの…?」
「ああ、家を出たら、降りだしたんだ。」
木田くんは整わない息で説明した。私はまだ状況が掴めず、ハンカチを探して鞄を探った。
「電話で、駅のアナウンスが聞こえたから、高橋さんがここにいるのはわかってたんだけど、
来る途中で携帯水没しちゃって。雨が思ったよりも強くて。」
「まさか走ってきたの?」
「うん。電車、動いてなかったし。チャリ高校におきっぱにしてたし。」
慌ててハンカチを差し出す。
「いいよ帰りまた濡れるから。」
木田は息を整えて私の隣に座った。
「で、話は何?」
木田くんは私の顔を見た。
私は顔を真っ赤にして、ハンカチを握りしめた。
木田くんは、私が話し始めるのを待っている。
「…話は、この前、ハンカチ拾ってくれて、その、お礼が言いたくて、」
ぽつ、ぽつ、と私は言葉を選んでは、こぼした。木田くんは小さく相槌を打つ。
「でも、お礼だけじゃなくて、謝りたくて。」
「謝る?なにを?」
「ちゃんとお礼も言わずに、逃げてごめんなさいって言いたくて。せっかくハンカチ拾ってくれたのに。」
木田くんは私の目を覗いた。
「ごめん、それだけ…」
木田くんはうつむいた。
「ごめんなさい、ちゃんと謝ろうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて、
だから今日電話で謝ろうと思って、そしたら、来てくれるって言ったから、
自転車で来てくれるんだと思って、でもすぐに雨で…
また走らせてしまって、本当にごめんなさい。」
「いいよそんなこと」
私は顔をあげた。木田くんは笑っていた。
「そんなの仕方ないじゃん。雨なんて、自然現象なんだから。
それとも、高橋さんが降らせたの?」
私は慌てて首を振った。
「それに、ハンカチは、俺も悪かったと思ってるよ。
あんなの指摘されたら嫌だよな。長く使ってるハンカチだなと思ったよ。」
木田くんが、私を馬鹿にしていないのだとわかってホッとした。
「でも本当は、あのハンカチは俺が拾ったんじゃないんだ。」
「え…?」
木田くんは立ち上がった。
「あの日、頼まれたんだ。斉藤さんに。」
由美のことである。
「ハンカチを渡してきて、これを、届けてくれないかって。
持ち主は、少し前に校門を出てしまって、走らないと追いつかないって。」
そう言って、木田くんはまた笑った。
「あの時疑えばよかった、というよりも、全部見透かされてたんだ。俺。
ハンカチには、タグのところにひらがなで名前が書いてあったし、
ハンカチを届けて学校に戻ると、斉藤さんが問い詰めてきたんだ。
授業中の視線でわかるって言ってた。」
そこまで言うと、木田くんは笑顔をやめて、私をまっすぐに見た。
「俺、高橋さんのこと、ずっと好きだった。」
その瞬間、雨の音も聞こえなくなって、私は頭が真っ白になった。
「俺は、それが言いたかったから、ここへ来た。」
彼は、そう言ってまた笑顔を作った。
「でも、聞いた話では、高橋さんは恋煩っているそうです。」
斉藤由美は一体どこまで話したのだろう。
「そういうわけだから、返事はいらない。伝えたいことを伝えたから、帰るわ。」
彼は伸びをすると、外を見やった。
「まだ降ってるけど、夕立だよ、すぐに止むと思う。気を付けて帰れよ。」
彼はくるりと体を翻すと、手を振って軽やかに走り出した。
少しずつ遠ざかっていく。
広い構内をまっすぐに出口へと走る。その影に、私は思わず叫んだ。「ねぇ!」
構内に声が響きわたる。影は立ち止まった。
「ひとつだけお願いがあるんだけど!」
影はゆっくりと振り返った。乾きかけていた髪が再び濡れている。
「雨がやむまで一緒にいてくれませんか」
影は動かない。代わりに声が聞こえた。「なんで?」
「だって」声の大きさはもう気にならなかった。
「あなたがすきだから。」
音のない時間がゆっくりと流れた。
遠くから小さく、はっきりと、声が届いた。
「ハンカチ、貸してくれる?」