25 マーシア
日が沈み、燭台にともるわずかな光だけが部屋の中を照らしていた。
わずかな明かりに金色の髪が照らされて、淡く光る。
美しい金糸の髪がさらりと揺れた。かすかに震えるマーシアの目の前には、黒衣をまとった気味の悪ほど美しい風貌の男がいた。
細くて優美だがどこか骨張った男らしい体躯に、美しい風貌。闇をまとったその男の姿は、女なら誰でも見ほれてしまいそうなほど美しいのに、彼女は男に見ほれる様子もない。
それどころかマーシアはその美しい相貌に恐怖の色をにじませ、耐えるようにたたずんでいた。
男からは何の感情も読み取れないのに、その異様な存在感と冷徹な瞳が彼女の恐怖心をあおっていた。
マーシアの瞳が伏せられる。
あの目を見てはいけないと彼女は思った。まるで深淵をのぞき込んだような闇色の瞳。底のない恐怖心が止めどなくわき上がる。
マーシアには、魔物の力がどれほどのものかなど計り知る術がない。ましてや魔王など。ただ、それがそこに存在しているというだけで、本能的な恐怖が彼女の体を縛り付けていた。
「……私を、どうなさるおつもりですか」
せめて己の尊厳は保とうと、マーシアは気丈にも冷静を装って訊ねた。意識をしなければ奥歯すら咬み合わなくなる。今この瞬間にでも叫んでしまいたいほどの恐怖と向き合っていた。
けれど屈服などしたくはなかった。
叫んだりはしない。
マーシアの奥歯がかみしめられる。体全体に己を保つための力がこもっていた。
黒衣の男はこわばったマーシアを無感動に見下ろし、つぶやいた。
「……まだ、思い出さぬか。まあいい。私は約束を守った、それだけのことだ」
「……約束?」
似つかわしくない言葉に、マーシアは眉をひそめた。
魔王が「契約」ではなく「約束」とは。
「そうだ」
マーシアは初めて魔王の言葉に感情がこもったように感じ、思わずその顔を見上げた。魔王の瞳が彼女をとらえていた。その冷酷な瞳が、先ほどより少しだけ和らいでいるようにマーシアには見えた。しかし、映し出しているのはマーシアの姿であっても、彼女には魔王が自分を見ているようには見えなかった。マーシアを瞳に映しながら何か別のものをその向こうに見ているようにも見えた。
「……どなたとの約束……」
マーシアの質問を遮るように、魔王は身を翻してマーシアのもとを去った。
「自由にしているがいい。しかし城の外には出るな。魔物がいる。知能の低いものはそなたでも襲う」
闇をまとった男が部屋から出て行くと、とたんに部屋が明るくなったように感じた。
マーシアは力なくその場に座り込む。
「……魔王、なぜ、私を……」
扉の向こうから答えが返ってくることはない。分かっていても、つぶやかずにはいられなかった。
冷徹な声、瞳。あの黒い瞳をのぞき込むと、心が闇に塗りつぶされるのではないかとすら思う。精神をつぶしてしまいそうな恐ろしいほどの存在感。どれをとっても恐ろしかった。
マーシアは、魔王が彼女を害する気がないだろう事は感じていた。しかし、それは、興味がないだけのように見えた。関心がないから害することもない。「害する気もおきないほど興味がない」の裏を返せば、害されても興味を引くことはないだろう、と。
しかし、時折、魔王が口にする言葉がきにかかる。「思い出さない」とマーシアを責めるかのように。
その時だけは、魔王の興味がマーシアに向かっているように感じた。
しかし、マーシアには何のことだか分からなかった。自分は何かを忘れているのだろうかと記憶を探るが、全く何のことかさえ想像もつかない。魔王の言う「思い出す」事が出来れば、自分はこの恐怖から逃れられるのだろうかと、マーシアは必死に記憶を探る。
あの、人を物のように無感動に見つめる視線を思い出して、背筋がぞっと震えた。
一刻でも早く逃れたかった。
誰か、助けて……。
マーシアは心の中でつぶやいた。
私は、こんなに弱い人間ではなかったはずなのに。
早く城に戻りたい。
思い出すのは、大切な異母妹の笑顔。あの笑顔が自分の戻っていく居場所。
そうして思い至る。
ずっとあの笑顔に支えられてきたのだと。あの子を護りながら自分を支えていたのだとマーシアは気付く。
あの子がいたから自分は強くいられた。あの子を守るために自分は強くなれた。
ああそうだ、とマーシアは思う。
私は帰らなければ、と。
きっとあの子が待っている。私がいなくなれば、あの城の中で誰があの子を守ってくれるのだ。
マーシアは自分を奮い立たせた。
フリーシャ、私は、必ずあなたのもとに帰るから。