4話 海の絵
芸術祭の準備が始まった教室は、いつもより少し浮き立った空気に包まれていた。廊下には絵の具の匂いが漂い、机の上にはスケッチブックや色鉛筆が並ぶ。生徒たちはそれぞれのテーマを決め、思い思いに筆を走らせている。葵は窓際の席で、真剣な眼差しをスケッチブックに落としていた。彼女が描こうとしているのは「海」。広がる青と、波のきらめきをどう表現するか、頭の中で構図を練っていた。
「やっぱり、実際に見ないと駄目ね……」葵は小さく呟いた。写真や記憶だけでは、波の動きや光の揺らぎを捉えきれない。彼女の中で、海はただの風景ではなく、心を映す鏡のような存在だった。
しかし、準備の最中に葵は体調を崩した。熱を出して寝込んでしまい、芸術祭の絵を描くために必要な「海」を見に行けなくなった。ベッドに横たわりながら、窓の外の空を見つめる葵の心には焦りが募っていた。「このままじゃ、私の絵はただの想像になってしまう……」
その様子を知った悠斗は、迷わず行動した。日曜日の朝、まだ眠気の残る街を抜け、彼は電車に乗り込んだ。片道二時間近い道のり。人混みに揺られ、窓の外を流れる景色を眺めながら、悠斗は「葵が見たかった海を、俺が届けるんだ」と心の中で繰り返した。
海辺に着くと、潮風が頬を撫で、波の音が絶え間なく響いていた。だが、写真を撮るのは簡単ではなかった。風が強く、スマホを構える手が揺れる。砂浜に立つと足が沈み、バランスを崩しそうになる。波が寄せては返し、靴の先を濡らす。悠斗は何度も位置を変え、水平線が真っ直ぐに写るように試行錯誤した。
「くそ、光が反射して見えねえ……」夕陽が水面に映り込む瞬間を狙っても、画面は白く飛んでしまう。悠斗はしゃがみ込み、角度を変え、時には砂に膝をついて撮影した。潮風で髪が乱れ、指先は冷え、ポケットの中の小銭が心細く鳴る。だが、彼は諦めなかった。葵が見たかった景色を届けるために。
水平線、波が砕ける瞬間、砂浜に残る足跡、夕陽に染まる水面――一枚一枚に葵のための思いを込めた。動画も撮り、波の音や風の揺らぎを記録する。彼は砂浜に座り込み、しばらく波を眺めながら「これなら、葵に伝わるはずだ」と呟いた。
数日後、葵の風邪が治り、学校に戻ってきた。昼休み、教室のざわめきの中で、悠斗はスマホを取り出し、撮った写真と動画を差し出した。葵は驚いたように目を見開いた。「えっ、これ……全部撮ってきたの?」
悠斗は少し照れくさそうに笑った。「まあな。お前、海行けなかっただろ。だから俺が代わりに見てきた」
葵は画面を見つめ、波の音に耳を澄ませた。目の奥に光が宿り、頬に微笑みが浮かぶ。「……ほんとにありがとう。行けなくて悔しかったけど、これ見たら気持ちが軽くなった。私、絶対いい絵にするから」その声は柔らかく、けれど心からの感動と決意を含んでいた。
二人は机を寄せ合い、スマホの画面を覗き込みながら、波の形や光の反射を語り合った。悠斗が「この辺、夕陽がすごかったんだ」と指差すと、葵は「ここ、絵の具でどう表現しようかな」と呟く。まるで共同作業のように、二人の言葉が重なっていく。
その日、葵のスケッチブックには新しい線が刻まれた。悠斗が届けた海の記憶が、彼女の手を通して形になっていく。風邪で倒れていても、友情は景色を共有し、夢を描く力を与えていた。
昼休みの教室のざわめきの中、二人の笑い声は静かに響いた。恋人のように見えるかもしれないが、そこにあるのは純粋な友情だった。互いのために動き、互いのために時間を使う。その関係は、誰よりも爽やかで、誰よりも強い絆だった。




