3話 数学の壁
冬の気配が近づく午後、教室の空気は冷たく張り詰めていた。黒板に並ぶ数式は、まるで暗号のように難解で、悠斗の目にはただの記号の羅列にしか見えなかった。先生の声が響く。「梶蔵、ここを解いてみろ」指された瞬間、悠斗の心臓は跳ねた。立ち上がり、チョークを握る手が震える。頭の中は真っ白で、答えは出てこない。沈黙が続き、教室の空気が重くなる。先生のため息が落ちる。「まったく、基礎ができていないな」その言葉は悠斗の胸に突き刺さった。
席に戻った悠斗は、机に突っ伏すように座った。いつもなら軽口で場を和ませる彼も、その瞬間ばかりは言葉を失っていた。胸の奥に残ったのは、どうしようもない悔しさだけだ。チャラい見た目のせいで「勉強なんてできるはずがない」と決めつけられることは、彼にとって何よりも屈辱だった。笑ってごまかせばごまかすほど、「やっぱりそういう奴だ」と周囲に思われる。その烙印を押されることが、悠斗には耐えられなかった。彼は本当は真面目で、努力だってしたいのに――その思いが伝わらないことが、何よりも苦しかった。
葵はその姿を静かに見ていた。彼女自身も数学は得意ではない。だが、悠斗の落ち込む背中を見ていると、放っておけなかった。放課後、葵は数学の得意な友人に声をかけた。
「ねえ、お願いがあるの。私、数学が苦手なんだけど……どうしても教えてほしいの」
友人は驚いたように目を丸くした。「葵が?珍しいね」
「私自身のためじゃなくて……悠斗に教えたいの。彼、すごく悩んでて」葵は真剣な眼差しで言った。
その必死さに、友人は頷いた。「いいよ。じゃあ、この問題からやってみよう」黒板のようにノートを広げ、丁寧に説明を始める。葵は一言一句を逃さないようにメモを取り、何度も質問を重ねた。「ここはどうして割るの?」「この記号の意味は?」彼女の姿勢は、まるで自分が試験を受けるかのように真剣だった。
翌日、昼休み。悠斗が机に突っ伏していると、葵がノートを差し出した。「昨日、教えてもらったの。私も苦手だけど、一緒にやれば少しは分かるかも」悠斗は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。「お前、わざわざ?」葵は微笑んで「遊ぶ時間を削ったけど、あなたが困ってるのを見てる方が嫌だったから」と答える。
二人は机を寄せ合い、ノートを広げる。葵の説明はぎこちないが、真剣だった。「ここはね、分母をそろえるの。昨日、教えてもらったの」悠斗は首をかしげながら「え、分母って……ああ、これか」と呟く。葵は指先で数字を指し示し、何度も繰り返す。「ここをこうして……そう、そうやって計算すればいいの」
悠斗は何度も間違え、ため息をつく。「やっぱり無理だろ、俺」
葵は首を横に振り、少し笑った。「無理じゃないよ。私だって苦手。でも、一緒ならできる」その言葉に、悠斗は再び鉛筆を握り直す。二人の間に漂う空気は、教室のざわめきとは別の静けさを持っていた。
やがて問題が解けた瞬間、悠斗は思わず笑った。「できた……!俺、ほんとにできた!」その声は教室のざわめきを超えて響いた。周囲のクラスメイトが振り返り、驚いたように目を見開く。葵は静かに頷いた。「努力すれば、ちゃんと答えは出るんだよ」その言葉は数学だけでなく、二人の友情にも重なっていた。
午後の授業、悠斗は再び指される。黒板に立ち、震える手でチョークを握る。だが、昨日のノートの記憶が背中を支えていた。答えを書き終えた瞬間、先生の声が響く。「よし、正解だ」教室に小さなざわめきが広がる。悠斗は振り返り、葵と目を合わせた。二人の間に、言葉はいらなかった。
その日、悠斗は初めて「勉強も悪くない」と思った。葵と一緒なら、苦手なことも乗り越えられる。友情は、数字の壁さえも越える力を持っていた。




