202508??~0829_この美しき世界を
「島」「犬」「暗黒の中学校」
悲恋
鳥の鳴き声が頭上を通り過ぎるのを聞きながら山道を登る。初夏の風が頬を撫で、前髪を揺らす。木陰は涼しいが、木漏れ日でさえも眩しい。身体を動かすと汗がじんわりと額ににじむのを感じる。少女は首を振って視界から髪の毛を追い払う。
道が途切れ、森の中に開けた空間が現れる。少女が周囲を見渡すとどこからともなく茂みを探る音が聞こえた。それは徐々に近づいてくる。やがて音が少女に迫り、黒い影が飛び出す。
「クゥちゃん!」
現れた小さな犬に少女は駆け寄り、頭を勢いよく撫でまわす。嬉しそうに鳴きながら犬はお返しとばかりにその手を舐める。
「あぁ、もう汚いよ! ほらごはん出すから待って」
急いでバッグからツナ缶を取り出し、開ける。彼女が手の平を突き出して「待て」のポーズを取ると大人しく座る。食事の前の儀式をこなし、解除された途端、待ちきれないとばかりに彼女が持ってきた食事にありつく。
「学校……はぁ……」
今日初めてのため息が出る。手に伝わる毛並みと温もりを何度も確かめる。それでも彼女は立ち上がろうとしなかった。
不意に犬が彼女の手からすり抜けていく。左右に振られる巻き毛の行方を追うと、茂みが揺れた。
現れたのは男の子だった。それに制服の襟章から同学年であることがわかる。
「「うげ」」
どちらからともなく心のつぶやきを口にする。クゥちゃんだけが彼の足元を嬉しそうに跳ねまわっている。
「ほらタイヨウ、飯だぞ」
食欲旺盛な子犬は本日二回目の朝食を取り始めた。彼女は彼のその言葉に思わず憤慨して詰め寄る。
「勝手に変な名前つけないで! クゥちゃんなの、この子は!」
少女の抗議を聞いて、彼は明らかに馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「クゥちゃん? なんだそれ。そんなガキっぽい名前じゃねえよ、こいつは。なあタイヨウ?」
問いかけられた張本人は二人の顔を交互に見るが、食事に戻ってしまった。
「ガキっぽいですって!? あんたのはセンスなさすぎよ! 何よそのダッサい名前」
「ケッ、ガキっぽいお前にセンスなんてわかんねえよ」
「また言った! 同い年に言われる筋合いなんてないんだから!」
「めんどくせえなお前……大体なあ」
彼が口を開くと同時に遠くでチャイムが鳴る。学校が始まる五分前の予鈴。二人は顔を見合わせて慌てて来た道を戻る。
山道を転がるように下り、砂利道を疾走する。大通りを行く十数分の道を大胆にショートカットする。少年はこの道を知らないのか、おとなしく少女についていく。木々のざわめきと鳥の声以外には二人が粗い砂利を蹴り出す音だけが世界を支配する。だが、校舎が近くなるにつれて少女の走るペースは落ちていく。
「大丈夫か?」
もはや完全に前後が逆転したとき、少年が声をかける。
「この先まっすぐ行ったら着くから」
「もう走れないのか?」
「ううん、大丈夫。大丈夫だから」
「でもこのままじゃ遅刻するだろ。おんぶしてやろうか?」
心配そうな少年に少女は微笑んで首を振る。
「いいから行って。私のことはいいから」
彼はまだ何か言いたそうだったが、駆けていった。
「サンキュな!」
それだけ残して姿はすぐに見えなくなった。
授業はいつも眠たい。少女は揺れる頭を必死に抑える。黒板の前では午後一の一番眠い授業、世界史の先生が半ばお経のような口調で話している。
「1789年7月14日、バスティーユ監獄がパリ市民によって襲撃されました。発端は先ほども出てきた国民議会──つまり第三身分ですね。彼らを鎮圧する目的でルイ16世が軍隊を集結しつつありまして、それに対抗するために武器や弾薬を奪い取ろうとしたわけです。この鎮圧には当時王妃だったマリーアントワネットも関与しておりまして、まあそれはまた後で話しましょう。この監獄というのはですね、当時の政治犯、つまり王政に反対する人々が収容されておりまして──とはいっても襲撃時はほとんどいませんでしたが、そういう反王権的な人物を捕まえておくところでした。何はともあれ、この襲撃事件は成功し、フランス革命の始まりとされ、後のテュイルリー宮殿襲撃、そして近代において重要な思想となる人権宣言が採択されました。これは三週間前……かな、アメリカ独立宣言とかルソーの啓蒙思想についてお話ししたと思いますが、そのあたりに影響を受けてますが、現代の民主主義につながる最重要な出来事になります。まあ、後々どころか現代に続くまで色々な独裁者が出現してこの出来事は何だったんだ、という話になりますけどね。先生的に補足しておきたいのはこの時想定されていた人権を付与する対象者です。それはずばり、”白人の男性”です。つまり、黒人や女性はその想定に含まれてませんでした。我々イエローモンキーなんて言わずもがなです。当時の詩人が─もちろん女性ですが、この人権宣言に倣って女性の人権宣言を唱えましたが、全く相手にされませんでした。これは結局、19世紀後半から20世紀にかけての女性の参政権、1960年代の公民権運動などで徐々に権利が拡大されていくまで待たなければなりません。現代につながる民主主義はこうして絶対王政の時代から数百年をかけてゆっくりと構築されてきました。そしてそれを破壊するのは一瞬、ひとりの人生のうち、数か月もあれば可能なのです。みなさんにはそのことをよく考えてほしい」
そこでキリよくチャイムが鳴った。彼は「復習を忘れずに」とだけ残すと教室を去っていく。
先生が教室を出ていくと少女の机を数人の男女が囲んだ。
「おい、昨日の飯代返せよ」
八島亮平。この産業の乏しい島で唯一の工場を持つ水産会社の支社長を父に持つ。有体に言えばこの狭い世界で一番の資産家だ。そんな金に困ってもない男が因縁をつけて恫喝をするのは日常茶飯事のことだった。
「え? わ、私お昼は家から……」
「ちげえよ」
亮平がぐいと顔を近づけてくる。周りに会話内容を聞こえないようにするためだ。
「昨日オカンがテメエんとこに何かあげただろ。それ俺のなんだわ」
昨日の夜、母親が店や加工には回せない、足の早い魚を彼の母からもらって来た。彼女は工場を取り仕切り、機会があれば従業員に廃棄予定の魚などを分けている。それは大いに助かることだ。だが善意というものはいつも一方的なもので利用されやすい。
「ごはんを食べさせてもらうのにお金は必要でしょ? 無銭飲食ってハンザイなの、わかる?」
彼の隣にいる少女─稲本皐が明らかに蔑みの色を目に浮かべて追従する。彼女の母親は島の中心街でバーを営んでいる。ちなみに八島の父親と不倫関係にあることは公然の秘密だ。知らないのは彼の母親くらいなものだろう。少女を囲むもう二人の少年は高橋康秀、安野誠也。どちらも漁師の息子だ。いつも八島の後ろについて回っている腰巾着だ。
「い、いくらですか」
「ん~、そうだな、二万だ」
「え?」
「聞こえなかったのか? 二万だよ二万円。当然だよなあ、人から食い物横取りしたんだからよ。誠意を見せてもらわねえとよぉ」
お小遣いを一年分貯めても遠く及ばない金額。彼女は俯いて唇をかんだ。
「おい、払わねえって選択肢はねえぜ? この写真ばらまかれたくなければな」
八島のケータイの画面には過去が映し出されている。喉の奥から何かがせりあがってくるのを抑えながらようやく言葉を放つ。
「払えません……そんな大金持ってないです」
少女の絞り出すような声を聞いて彼らは低く笑う。
「だとよ。かわいそうになあ。片親じゃあ子供のしでかしたことの責任も取れねえとよ」
「そんな、お母さんは」
「おい、お前がしでかしたことだろ。自分で責任取るのは当たり前だろ」
八島が少女の髪を引っ張り、顔をあげさせる。
「いいか、今日のHR終わったら」
「おーい、八島」
彼が言葉を続けようとすると誰かが声を掛けてきた。
「なんだ」
彼は声の主に見られないように少女の髪から手を放し、声の方を向く。
「先生が呼んでたぞ。配布物を運ぶの手伝ってもらってほしいって」
「あ? なんで俺が」
「いや、今日の日直お前だろ」
文句を言いながら八島とその一行は教室を出ていく。後に残ったのは少女だけ。向けた視線の先には少年が親指を立ててウインクしているのが見えた。
「ねえ、ああいうことやめて」
少女はいつもより真剣な面持ちだ。子犬と遊ぶ手を止めて少年が彼女を振り返る。
「何だよ、ああいうことって」
「だから、私と八島が話している時に邪魔するの」
「なるほど、邪魔だったか。それはすまんかった……けどお前たちが普通に話してるようには見えなくてさ」
「普通の話よ。ただ会話してるだけ」
少年は興味なさそうにボールを投げる。子犬が拾いに走っている間に彼は立ち上がり、彼女に近寄る。
「な……何よ」
彼は彼女の肩を掴み、髪の毛をそっと払う。普段隠している左目が彼の姿を鮮明に映す。
「こんなあざ作ってさ。どう考えてもまともな関係じゃなさそうじゃん」
「あんたには関係ないでしょ。放っておいてよ」
「否定しないんだな」
咄嗟に出る拒否の言葉さえも彼は軽くいなす。
彼はボールを拾って来た子犬を抱き上げ、少女へ渡した。
「この子には俺たちの人間関係なんか関係ないからさ。せめて笑顔でいてあげなよ」
「……勝手なことばかり言って」
少女の頬を慰めるように舐める舌はいつもより温かい気がした。
「俺は傍観する気はないから。いつだってちょっかい出し続けるぜ」
夕暮れの山から吹き下ろす風が半袖の白い開襟シャツを揺らす。彼の微笑みを誰もみたことはない。
夏休みが終わり、島はまだ熱気に包まれていた。教室で見かけなかった彼の姿を少女は探していた。まだ痛みの残る身体を引きずり、山道を上る。砂利から砂や土が交じり、貧相な下草が生き生きとし始めたころ。彼女はあることに気が付いた。あの子犬の声がしない。いつもならば一目散に駆け寄ってくる姿が一向に見えない。
いつもの開けた場所にたどり着いたが、彼の姿はおろか、子犬の姿もない。だが、どこからともなくハエが飛んでくるのを見かけた。その小さい羽虫は彼女のことなど意にも介さず一目散に木々の奥へと進んでいく。心の底にうずまく嫌な予感を抑えながらあまり行くことのない山道の先を進むことにした。
道を進めば進むほど下草が勢いを失くしていく。あるのは極相を迎えた大ぶりなスギの立木だけだ。道は整備されていないが、不思議と山の頂上に導かれるように進むことができている。積もったスギの枝や葉を踏みしめ、小高い丘の頂上を迎える。吹き下ろす風に交じって不快な臭気が交じる。
ハエの発生源はどうやらここだったらしい。彼女の姿を認めると跳ねるように駆け寄って来るのに使った手足にはもはや意志が通っていない。頬や手の甲を悪戯っぽく舐めていた舌は完全に乾ききっている。少女は空を覆う木々を見上げ、目を閉じた。少年ももはやここにはいない。
瞼の裏にかつて血が通っていた生命の跳ね回る愛らしい姿が浮かぶ。木に寄りかかり、少年の姿も思い返す。子犬を撫で、ボールを取ってこさせ、肩を掴んだ、あの手を。少女は木登りが苦手だ。スギのような真っ直ぐな類なら尚更。だから地上を選ぶことにした。通学鞄から包丁を取り出す。刃は赤く塗れている。この美しき世界を去るのは名もなき者たちでいい。
首筋に当てた刃を勢いよく滑らせる。