3章14話 母の想い
「…………」
「…………」
しばらく姉弟の間で、無言の時間が続いた。
無言で、ただ見つめる間。何故だと問いかけているはずなのに、不思議と脳裏には過去の風景も同時に思い起こさせる。
奏音の結んだ口元が、少しだけ緩んだ気がして、そして、気の所為ではなく、ため息を、笑うようにして吐いて、奏音は空を見上げて言った。
「はぁ、あんたは昔から、頑固だったよね……施設に居て身を寄せ合ってた時も、お祖父ちゃんのところに引き取られた時も、小学校で茜ちゃんを助けたって聞いた時も、料理をやるって決めた時も。いっつも何かを話しても、何かをするにも、折れるのはあたしの方でさ」
「……そうだったかもな。でも姉貴だって大概自由人だったと思うぞ」
「まぁね…………はぁ、それにしても、まさか病院の近くだから引っ越して、働いてる店にまで突然来ると思わなかった。あの子の能力でも無理でしょ、どうやったの?」
「偶然と根性。後、詩音の想いでも通じたんだろ。俺はそう思ってる」
「……なにそれ」
そんな風にやり取りを交わしながら、奏音は何かを言葉に載せるのを、まだ躊躇っているようだった。
でも、俺はここまで来て、無言で逃がすつもりはなく、そして、それが伝わったのだろう。奏音は自転車を脇において、塀にもたれかかるようにして、観念した気配でぽつりと言った。
「あたしさ、記憶、消えてくんだよね」
「…………やっぱり、か。消えてくってのは?」
忘れない。忘れるな。
戒めのようなものなのかとも思った。
だが、元々恵美子さんは何の専門の先生にかかるためにこの病院に来ていたと言っていた。
そして、何故そこまで詩音に触れられるのを怖がっていた。
勿論どんな解釈だってあっただろう。
だけど、俺の頭の中には、その可能性が浮かんでいた。
「頭の病気なんだって」
奏音が、俺の質問にとつとつと答えていく。
「最初はね、軽い耳鳴りとかだったんだよね、発熱とか、手足が少し痺れる感じだったり、急に覚えてたはずのことを忘れちゃってたり」
「…………」
俺を見ながら、奏音は続けた。
「そんで母一人子一人だからさ、流石にやばいなって思って病院にかよって、統合失調症って最初は診断されてさ……でも薬飲んだりしても全然効かないし、他の症状、幻聴みたいなのはなくなったんだけど、特に健忘症状が酷くてね――――」
「記憶ってのは……実際どこまでなんだ? 俺のことも、茜のことも、詩音のことだって覚えてて、働けてもいるんだろ?」
何かを言わないといけないような気がして、俺は疑問を探して口にする。
それに、奏音は笑顔を作って言った。
「日常生活に関することは、覚えてるんだ。昔のことも。症状的には運がいいんだってさ…………そりゃね、忘れっぽくなってるけど、計算とかお客さんの応対とかは出来るし、お店の人も知ってくれてて、後、意外と忘れても身体が覚えてくれててね。病院に通いながら、ここで働かせてもらって、補助も貰いながら一人で暮らしていけてる」
「…………」
「なのにね。あの子との記憶。あの子との記憶から、消えてくの」
「…………っ」
俺は、その言葉の意味に、息を呑む。
「さっき言ったみたいにさ、最初はちょっとおかしいな、くらいだった。用意しないとって思ってた学校の用意が既にされてたりさ。それこそ統合失調症って言われて、疑うことも無かったし、働き過ぎだったかなぁとか思ったくらいだったわけ。でもね―――」
そして言葉を切って、乾いたように笑いながら、奏音は告げた。
「ある日さ、いつもの通りに詩音を学童に迎えにいったのよ。そしたら一瞬、出てきたあの子が、わからなかった」
「…………!」
「あたしは誰を待ってるのかもわからなくて、何でここにいるのかもわからなくて…………お母さんどうかした? って言われて、そこでハッと認識した。詩音は、あたしの子供だって、大事な、大事な息子だって」
「それは……」
「そして、あたしは怖くなってあの子を抱きしめたの……そしたらね」
『お母さん、凄く怖いことでもあったの?』
詩音はそう言ったのだと、奏音は言った。
「不味いと思った。おかしいと思った。バレちゃいけないって思った。それから急に、あの子を抱きしめるのが怖くて…………それでそこの病院で精密検査を受けて、抗NMDA受容体抗体脳炎って診断された」
「抗NMDA…………?」
俺が耳慣れない言葉に戸惑うと、奏音は笑って言う。「まぁ、さっき言った通り、頭の病気…………卵巣の腫瘍もあったらしいけど、そっちは手術も成功済。もしかしたらそれで完全に治ったらさ、迎えにもいくつもりだったんだよ? でも、記憶障害は、治らなかった。あたしは時々、詩音のことを、完全に忘れる」
「姉貴……」
「忘れてさ……思い出した時に、凄く胸が苦しくなるの。思い出した記憶が幸せで温かいほど――――」
「だから、詩音を手放したのか?」
「そうね……それが理由。だってさ、嬉しい時にさ、悲しい時に力いっぱい抱きしめてあげられない親なんて、駄目だよ。楽、私達は知ってるでしょ、親に抱きしめてもらえなかった子供が、どう心に傷を負うかなんて」
奏音の声は、乾いたものから湿ったものに変わっていた。
その言葉に、俺は胸が締め付けられる思いがした。確かに俺達は知っている。施設で見てきた。だからこそ、姉は詩音にその思いをさせたくなかったのだ。
しかし、それは本当に正しい選択だったのだろうか。




