09 一緒に過ごす夜
人類が魔王の脅威にいつから晒されているのか、ハッキリしたことは不明だ。
五千年前の粘土板で、すでに魔王が当たり前の存在として語られていた。なので、それ以前から戦っていたのは間違いない。
魔王とは、魔族を統べる王であり、魔族を生み出す母でもある。
魔王が前に現われたのは、約五十年前だ。
突然、海からその巨体を上陸させ、複数の村や町を踏み潰しながら、無秩序に歩き続けた。
集結した魔法師の総攻撃で崩壊するが、瞬く間に再生。
あらゆる攻撃は時間稼ぎにしかならない。
歴史上、魔王を殺せた事例はない。
魔王を止める方法はただ一つ。神に選ばれし『聖女』の命と引き換えに、次元の狭間に封印することのみだ。
五十年前の聖女の名は、セラーラ・アルビオン。パトラの曽祖母である。
パトラの曾祖母の命と交換に魔王を封印して以来、魔王は復活していない。封印は完全に成功していた。
が、油断は厳禁だ。
どんなに封印の儀式が完全であろうと、魔王はいつか必ず復活する。
数百年後か、数年後なのかは分からない。歴史をひもといても、規則性を見いだせない。
ただ、いつかどこかに復活するのだけは確実なのだ。
そして魔王そのものが復活しなくても、魔王の脅威は地上から完全に消えはしない。
魔王を次元の狭間に押し込んでも、戦いで飛び散った魔王の肉片は残り続ける。
封印完了後、人々は聖女の死に涙する暇もなく、肉片を探しだし、念入りに焼却する。
しかし、どうしても取りこぼしが出てしまう。
残った肉片は時間が経つにつれて結晶化し、どんな高温でも衝撃でも破壊不可能な、暗黒の球体と化す。
それが『魔王の欠片』だ。
『魔王の欠片』はほかの生物に取り憑き、膨大な魔力を与え、姿形を禍々しく変貌させる。
取り憑かれた生物は自我を失い、魔王に奉仕する『魔族』になってしまう。
魔族は強い。
森を吹き飛ばし、クレーターに変えてしまうほどの力を持っている。
しかし魔王ほどではない。
聖女がいなくても対処可能だ。
「かつては一匹の魔族を止めるために、多大な犠牲を払っていました。ですが、今の人類なら……」
パトラは、魔法庁レイラウド支部が用意してくれたホテルの部屋から空を見上げる。
雲一つない満天の星空だ。
その中に、不自然に点滅を繰り返す光が混じっていた。
飛行船の明かりだ。夜間でも飛行船同士がお互いの場所を視認し、衝突するのを防ぐために点滅させているナビゲーションライトである。
「それにしても、夜風が気持ちいいですね」
気持ちを落ち着けるため、独り言を呟いてみる。
パトラは緊張していた。
別に、この街のどこかにいる魔族を警戒してのことではない。
緊張の原因は、もっと至近距離にある。
夜の街の喧騒。銀髪と寝間着の布を揺らす優しい風。部屋を灯す品のいいランプ。
それらで気を紛らわそうとしても、無理。
耳が勝手に、壁の向こうから聞こえる水の音に集中してしまう。
ヘリック王子がシャワーを浴びているのだ。
裸で!
想像したパトラは、叫びたい気持ちになり、ベッドに飛び込み、枕に顔を埋める。
「落ち着くんです私……裸でシャワーを浴びるのは当たり前……当たり前のことを考えてこんな気持ちになってどうするんですか」
だが、パトラの気持ちを乱す材料はほかにもあった。
婚約者だからと二人一緒の部屋をあてがわれたのは、まだいい。本当はよくないが、よしとする。
問題なのは、ベッドが一つしかないことだ。
大きなダブルベッドが、ででーん、と。
男女が同じ布団で眠る。
愛する者同士ならそれは当然だ。
昔ならいざ知れず、近頃は貞操観念も変化し、結婚前にそういうことをするのも一般的になっているはず。
恋愛小説でそう学んだ。
ただ、具体的な描写はボカされていた。
ボカされていない小説は、本屋のアダルティなところに置いてあった。
自分にはまだ早い気がして、パトラは近づけなかった。
それがまさか、現実のほうが先にアダルティになってしまうとは!
「いえ、落ち着くのです、私。同じベッドだからといって、なにかするとは限りません。そうです、ヘリック様はお優しい人。私の気持ちを察し、なにもしないに違いありません……」
パトラは冷静に自分の気持ちを分析してみた。
そんなに嫌かと問われると、別にそんな嫌ではない。
興味があるかないかでいうと、結構興味がある。
ヘリック王子が強引に迫ってきたら……身を任せちゃう。
「ああ、駄目です。私の気持ちを察してはいけません。そうだ、察せられないように、三次元魔法陣による魔法の高速実行のことを考えましょう。暇なときに考えておかないと、いつまでも理論が完成しませんからね」
紙とペンを手に取り、自分にしか分からない速筆で数式と魔法陣を書き込んだ。
いいぞ。落ち着く。煩悩よ、さらば。
「パトラ。なにを書いてるんだい?」
風呂上がりのヘリック王子がやってきた。
しっとりと濡れた髪と肌。水も滴るいい男とはこいつのことだ。色っぽすぎる。
煩悩がかつてない質量となってパトラの中で渦巻く。
「あ、新しい魔法陣を考えてるんです。今までの魔法陣は平面ですが、立体的にすれば情報量が劇的に増えます。ただ、制御するのが難しくて――」
パトラはヘリック王子の顔を直視できないので、紙を見つめたまま、三次元魔法陣の構想を語る。
「なんだか分からないけど、パトラは本当に凄いな。自分で魔法の理論を作っちゃうんだから。俺は昔からある魔法を状況に合わせて使うことしかできないよ」
「これが私の仕事なので……それにヘリック様も凄いです。私に勝ちましたから」
「一度だけだよ。僅差だった。もう一回戦ったらまた別の結果になるかもしれない。パトラは頭がよくて、強くて、綺麗で……こんな素敵な人が婚約者だと思うたびに幸せを感じるよ」
「ヘリック様……えへへ。私もヘリック様が婚約者で幸せです」
ついつい視線を彼に向けてしまった。
顔面が綺麗すぎる! そして寝間着のガウンから見える鎖骨がいい形!
パトラは自分が茹で蛸みたいに赤くなっていると自覚した。
そう。目の前にいるヘリック王子のように。
「って、ヘリック様? お顔が赤いです……まさか熱でも!?」
「あ、いや、これは……その。パトラの胸元が……」
彼はプイっと目をそらした。
パトラは視線を落とす。
なんとガウンがはだけて、胸の谷間が露わになっていた。
「し、失礼しました! お目汚しを!」
「別に失礼もお目汚しでもないけど……むしろ意外と大きくて嬉しいというか……お、俺はなにを言ってるんだ!」
ヘリック王子は窓際に逃げた。
考えてみると、ヘリック王子がパトラの前に誰かと婚約していたとか交際していたという話を聞いたことがない。
女性に囲まれているのはよく見たが、あしらって遠ざけていた。
彼も、異性と同じ部屋で一晩過ごすのは初めてなのだ。
「それにしても、夜風が気持ちいいな……」
さっきのパトラと似たようなセリフで誤魔化している。
つまり、あれだ。
パトラのシャワーの音を聞いて、ドキドキしちゃったりしていたわけだ。
「えへへ」
向こうが緊張していると思うと、こっちは逆に和らいできた。
相手が赤面する姿をかわいいと思う余裕さえ生まれた。
パトラは踊るような足取りでヘリック王子の隣に立つ。
もっとドキドキさせてやろう、なんてイタズラ心が芽生え、腕と腕をくっつけてみる。
が、ヘリック王子は反応してくれなかった。
やはり腕では駄目か。胸じゃないと駄目か。しかし胸を押し当てたりなんかしたら、ヘリック王子がドキドキする前に、パトラがドキドキし過ぎて大変なことになる。多分、鼓動の衝撃で肋骨が折れると思う。
「あの五機の飛行船が描く大五芒星があれば『魔王の欠片』を本当に封印できるんだろうか……」
ヘリック王子は腕でも胸でもなく、この街の平和に想いをはせていた。
人間としての器が違う気がした。
「不安、なんですか?」
「この街に来るまで、飛行船をこの上なく頼もしく思っていた。けれど、あのクレーターを見てしまうとね。魔族の力を思い知った。クリフトンは魔族をその目で見たのに正気を保っている……凄いと思うよ」
「魔法庁が用意できる最大の封印魔法です。きっと大丈夫ですよ。あれで駄目だったときは……私がなんとかしてみせましょう」
「それはいい。飛行船よりも、パトラ・アルビオンのほうが百倍頼もしいな」
「ありがとうございます。ヘリック様は褒め上手ですね。頬が緩んでしまいます……えへへ」
「君は俺を和ませるのが上手だ。その笑顔を見ると安心する。さて、今日はもう遅い。眠るとしよう」
「あ。私はさっきの三次元魔法陣の続きをするので、まだ起きてます」
「まだって、どのくらい?」
「……日が昇るまで?」
「駄目だよ、パトラ。俺たちはこの街に仕事できたんだ。相手は魔族だ。体調を万全にしなきゃ」
「きゃっ! ヘリック様、そんな強引に!」
パトラはヘリック王子に抱きかかえられ、ベッドに運ばれていく。
お姫様抱っこ。
この強引さ。
間違いない。
やる気だ。
「あ、あの! この部屋に来てから随分時間が経つのにまだ心の準備ができていないのかと呆れるかもしれませんが、やはり、いざとなると恥ずかしいというか、怖いというか……している最中に恐怖のあまり攻撃魔法でホテルを破壊してしまう恐れがあるので、私がもう少し大人になってからにしていただけないでしょうか!」
「君はなにを言ってるんだ!」
パトラはベッドの上に放り投げられた。質のいいスプリングのおかげで痛くない。ぽよんぽよんと体が跳ねる。
「眠るというのはそのままの意味だ! 睡眠だ! 就寝だ! 目をつむって意識を落とし、頭と体を休める行為だ! 断じていかがわしい意味で言ったんじゃない! ただでさえ君と二人っきりで緊張しているのに、そんなことを言われたら眠れないじゃないか! 俺たちは先週婚約したばかりなんだぞ! そういうのは早すぎる!」
「は、はい! 私を大切にしてくださってありがとうございます! と、ところで……具体的に、いつぐらいなら早くないとヘリック様はお思いでしょうか……?」
「いつならって……それは……」
ヘリック王子は少し考え込む。
赤い顔がもっと赤くなった。
それを誤魔化すように叫ぶ。
「そんなこと聞くな! もう寝る! 本当に寝る!」
「わっ、ヘリック様!」
彼はヤケクソのようにベッドに飛び込み、パトラを抱きしめ、布団を被った。
「は、離してください! 同じベッドで寝るからって、どうして抱きしめるんですか!?」
「こうしないと君はこっそり起き上がって魔法陣を書いたり、魔法書を読んだりするんだろ。分かってるんだ」
「確かに! けれどこの姿勢は恥ずかしいです……ヘリック様は恥ずかしくないんですか?」
「恥ずかしいさ! けれどパトラに色々言われたせいで、一緒のベッドなのになにもしないのは男らしくない気がしてきたし、かといって……さ、最後までするのはやはり早いし。だからこうした。王子を惑わせた罪で、朝まで抱き枕の刑に処す!」
謎の罪により、謎の刑に処された。
しかし、こんなお互いドキドキした状態で本当に眠れるのだろうか。肋骨が砕けた死体が二つ、ホテルの従業員によって発見されるんじゃなかろうか。
パトラは不安だった。
が、人間、なんにでも適応するらしい。
大好きな人に包まれているという安心感は、やがて二人を眠りに誘う。
ただし、それは布団に入ってから三時間後だった。
パトラとヘリック王子の心臓と肋骨は、その間、強烈な負荷に耐え続けた。