ルールとロマン
1.
以下は、若島正によるエッセイ「書物の森の中へ」(「乱視読者の新冒険」所収。また、学術機関リポジトリデータベースから見られる「西洋文学この百冊」に収録されており、オンラインで閲覧可能)からの引用である。
「わたしがかつて前任校の神戸大学に勤めていたころ、書庫の本にはすべて、過去に借り出した人間の名前まで書いたカードがはさまれていた。そして、わたしが借り出す本にはどれも、ある同じ名前がカードに書いてあった。要するに、わたしが読みたいと思った本は、ある人が前に全部読んでいるのだった。わたしはそこに記されていた「池内紀」という名前をしっかりと記憶にとどめた。それ以来、わたしは池内さんが書くエッセイの大ファンである。かつては池内さんと同じ本を――それもまさしく同じ本を――何冊も読んだことがあるというだけで嬉しくなる。」
一冊の本を通じて人物と結びつくという大変興味深く、憧れるような出来事だが、このような話になると、なまじ知識があるために、無粋ながら、気になってしまう点がある。「これは個人情報の漏洩と見なされるのではないか?」と。
2.
図書館が、利用者の秘密を守る(べき)という考えについては、「図書館の自由に関する宣言」の第三番目にあげられている。なお、この項目は1979年に追加されたものである。この「宣言」は日本の、少なくとも公共図書館においては有効なものと思われる(法律ではないので、法的な拘束力があるわけでもないのだろうが)。
上記の事例は大学図書館であるが、この点について公共図書館と大きく異なるとは思われない。「過去に借り出した人間の名前まで書いたカードがはさまれていた」という形で貸し出しを管理するのは、相当に古い方式だと思われる。しかし若島正のプロフィールからすると、上記のエピソードは、1984年から1985年ごろの出来事であるらしい。現代的なコンピュータによるデータの管理方式が普及していなかったと想像できるとはいえ、そのような方式を使っていたのは、おそらくは大学図書館の書庫という、利用者が限定される場所であったためでもあるだろう(紙のカードを使う形でも、利用記録を運営者以外が容易に見られない方式は、ブラウン方式などが存在する)。
つまり、若島正のエピソードの時期においても、誰がその本を借りたかという情報は秘密にする(別の利用者が容易に見られるようにするべきではない)という考えはすでに膾炙しており、かつ、それを実行する手段もあった(普及していた)わけである。
3.
この、「図書の貸出記録を他人に見られる」ということについては、様々な事例が存在する。
上記の「宣言」が1979年に改訂されるきっかけとなった事件(練馬図書館テレビドラマ事件)の他、「図書館の自由に関する宣言」のWikipediaの記事には、多数の関連する事例が記載されている。有名なところでは、映画「耳をすませば」で、上記の若島正のエピソードによく似た場面がストーリー上重要な役割を果たす(ただし、筆者は当該映画そのものを鑑賞したことはない)が、この点を問題視されて抗議を受けている。
また、映画「秒速5センチメートル」においても、同様の描写が存在する。こちらは場面設定が1991年と推定される(筆者作成の注釈も参照。https://ncode.syosetu.com/n2573hi/6/)。
もっとも、ここまで挙げた事例のうち、明確に問題視された練馬図書館と「耳をすませば」は公共図書館の(と描写されている)場合であり、他は大学図書館と学校図書館であるから、必ずしも同列に考えることはできないのかもしれない。
4.
現実性に対して、ロマンのための寛容性の線をどこに引くべきかは筆者には分からないし、そのような態度は、一方では無粋の誹りを免れ得ず、一方では無責任という指弾の対象となるのであろう。そんなものといつぶつかるか分からない藪の中を歩いていると、自覚しなければならないのであろうか。
・参考
西洋文学この百冊(若島正のエッセイを収録)
https://irdb.nii.ac.jp/01221/0000166539
図書館の自由に関する宣言
https://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/232/Default.aspx