ある感想
※特に構成など考えずに書いた文章です。また、見返して修正などもしておりません。お目汚しすみません。
終盤、東北道へ向かったり、また、過去の日記を見返してその日に近づいていき、いよいよその日に到達した場面は、見るのが三度目であってもぞくぞくとするものがある。しかし結局のところそんな感覚に至ったのは、ほとんどそれらの場面だけだったのである。
この映画を最初見た時に抱いた感想というか、言いたいことの中で一番大きかったのは、「つまり主人公(男の方)たちがしくじったから、主人公(女の子の方)が見舞われて家族を失った災害が起こったということか?」という疑問だった。劇中、「百年前に関東で大きな被害をもたらした」(厳密な言葉は曖昧)というようなことが語られているが、それは関東大震災のことだろう(十二年前に主人公が東北の地震に遭ったということから、劇中は2023年が舞台らしい。それはちょうど関東大震災から百年に当たる)。関東大震災については、はっきりと劇中の怪物が原因で起きたことだと明確に語られているが、十二年前の東北での地震については原因について何も語られない。これが、あまりにも奇妙に思われた。劇中では、主人公たちが封じる怪物について「日本列島の地下」にいる、と語られているから、海洋を震源とする地震とは別であるとも考えられる。しかし、もしこの解釈が正しく、「だから東北の地震は主人公たちが劇中で必死で防ごうとしている地震とは別物で、同じ『地震』に区分されるものが劇中に現れるのは単なる偶然である」などと本気で作り手が考えていたのであれば、その態度は理解しがたい。
そもそも、おそらく今では教科書にも載っていて誰もが知っているような地震発生のメカニズムについて、現実の、現代の世界を舞台にしておいて、あのような設定を持ち出すこと自体に無理がある。その無理の一つが先述の解釈である。ああしたアクロバティックで不自然なほど好意的に(甘く、と言ってもいい)見なければならないとすれば、それはつまり出来が悪い、無理があるということであろう。
この映画で一番の問題は、どういうものとして見てほしいと想定しているのかが分からないということである。つまり、現実的な話として見てほしいのか、ファンタジーの物語として見てほしいのかが分からない、というような疑問がつきまとった。あるいは、個別の人間の物語なのか、社会全体に関する(多くの人間に共通する)教訓の物語なのか、といった疑問でもある。
言うまでもなく、現実的な要素とそうでない要素が一つの作品の中にどちらも存在するということはあり得る、というか、むしろそうなっていない作品など無いだろう。それは良い。問題なのは、その扱い方なのである。
この映画においては、そういった現実的要素と非現実的要素が、何の工夫もなくただ並べられている。ほとんど笑ってしまうほどあきれたのは、主人公が日本全国を巡る地震を防ぐための旅を続けると言う一方、教師になろうとしているということだった。ここでの「教師」は、劇中で教員採用試験などについて言及されているように、ごく普通の、現実に存在する学校の「教師」であって、何か特殊なことを教える特殊な存在、立場ではない。教師などという時間的にも空間的にも拘束される職業に就いてあんな旅ができるなどということを、なぜ信じられようか(試験に出席できなかったために、主人公がまだ教師にはなれなさそうだということは問題ではない)。つまりここでは、現実的なことと非現実的なことの対立が放置されている。この対立は必然的なものであり、解消しなければならないものだろう。作り手は、そのような疑問など持たれないことを想定していたのであろうか。
このように、作中で何か理屈が述べられると、対立する点について「え? じゃあこれは?」という疑問がすぐに出現する。それは、現実に接してしまっているからである。そしてそれは基本的に、いやむしろ必ず、と言ってしまっていいと思うが、放置される。それは到底、「解釈(想像)の余地がある」などという持って回った言い方で弁護できるものではない。先述の教職に就くということについて、どうすればあの疑問を解決できるのか、筆者の悪い頭では全く分からなかった。
一応述べておくべきだろうが、別に非現実的要素を持ち出すななどと言っているわけではない。あの地震の原因に関する設定そのものは、先述の致命的な疑問が放置されている点を除けば、別にこの作品の中ではそうである、ということで受け入れられる。その他、例えば主人公が宮崎からのフェリーに無断で乗ったことについて、「フェリーだったら乗るときに検札があるのでは? どうやって乗った?」などというツッコミを、真剣にする気はない(ついでに言えば、あのフェリーは現実に存在するものではないと思うが、それもどうでもいいことである)。あんなふうに着の身着のまま飛び出しておいてずいぶん金を持ってたな、などということも気にしないようにできる(そもそも、「閉じ師だけでは食っていけない」などという台詞が、到底収入など期待できそうもない「閉じ師」から発されている時点で、この作品の中では金銭の扱いに関して現実的な視点は持ってはいけないのだろう)。
例えば、怪獣映画に登場する怪獣が力学的にあり得ない構造をしているとか火を吹ける生物などいないとか、そんな考証というかツッコミはただ無粋なだけで、どうでもいいのである。それは、この映画の中ではそういうものだ、という判断ができる。しかしそういった要素が現実(つまり、作品の外)に接近し、現実性が意味を持つように作中で扱われ始め、しかも筋書きに重みを持つのであれば、それが現実的であるかどうかは、決して小さな問題ではなくなってしまう。先述の教職に就いて云々というのは、そうやって問題になってしまう最たる例だと思う。
この監督は、葛藤を作品の終盤に意味ありげに持ち出しておいて、唖然とするほどあっさりと解決してしまうことが多い。というか、葛藤はいつもそんなふうにしか処理されない。「星を追う子ども」において、終盤、死んだ恋人を復活させるためには生きた人間を犠牲にする必要がある、という条件を突きつけられた男が、ちょうどそこに現れたヒロインを見て、一切躊躇せずに犠牲にすることを選んだ場面など、その決断の早さに笑ってしまうほどだった。本作においても、終盤で葛藤らしきものが持ち出されるが、結局当人たちは何の犠牲を払うことなく解決している。この作品では、異様に他人任せというか他力本願というか、最初から最後まで主人公が他人に頼っている場面が続いているように思い、これは何か甘えた態度として見るべきなのかと思ってしまった。葛藤(正確には、らしきもの)もまた、結局他人の力で(自分たちは何も問題が残らずに)解決しているが、それでいいのか?という疑問が消えなかった。
そもそもあの終盤、最後の扉に入った後の展開には詐術のようなものが含まれている。主人公(男の方)を救うため、というのがそこに行く理由だったはずが、怪物が扉から出ていくのを防ぐ、という目的が突然持ち出され、最終的にはそちらにすり替えられてしまっている。
あのあたりは疑問があまりにも多く浮かんだ。以下列挙する。
・要石は、東と西にあるのでは? あんなに近いところに二つとも置いていいのか?
・常世だから空間的位置は問題にならない、という解釈は、「東と西にある」という設定がある以上不可能だろう。そもそも、要石は現実世界に置くのでは?(主人公が序盤で引っこ抜いたのは現実世界にあった)
・次に要石を取り替える(刺し直す?)時、常世にあったら誰も入れないのでは?
※このあたりについては、「置いた時は常世にあり、力がなくなると現実世界に現れる」とか、そういう設定を想定することはできるが、そんなアドホックで無根拠な理屈には付き合いきれない。
・要石はミミズに刺すのか地面に刺すのか。
・主人公が要石に「なっていく」ということは、要石のあの猫も元は人間だったということか? いずれにしても、その役目から解放されたがっている意思を、主人公を要石にしたくないから、という理由で却下するのは、冷酷というものでは?
・なぜあの常世は扉の外(の、十二年前)の光景と同じだったのか?
述べた通り、いちいち現実的な説明をする必要などはない。しかし、例えば怪獣映画において、「この怪獣にはこういう弱点がある」という設定を出し、それが通用しなかったとしたら、その理由を説明しなければならないだろう。もちろん、「そんな性質は現実的にあり得ないから」などという説明ではない。必要なのは、あくまで、作品の中での理屈の整合性や一貫性である(薬品の量が足りなかったとか、何でもいい)。本作では、わざわざ設定を明確に説明しておきながら、そこで発生する明らかな疑問を放置している。
こういう疑問について、筆者には、作品の内容から直接読み取れないことまで持ち出して整合的な解釈を作る気は全くない。そんなに好意的には、とてもなれないのである(別にこの映画に限らないことだが)。また、主人公の名字が「岩戸」であることなどから、例えばあの椅子の足が三本というのは八咫烏との連想を誘うが、そういう解釈をする気もない。
これらの些末な疑問点を全て無視して、重要そうな結論(例えば主人公と叔母の関係とか)だけを見ても、あまり事情が変わらないように思う。要石の猫の行動の目的は「主人公たちに本音を言わせて前に進ませる」とかいうようなものである、と何かで見たのだが、その必要性が全く分からなかった。主人公は序盤に「死ぬのは怖くない」というようなことをはっきりと口にしており、最終的には命の価値を認識する(生きたい、と思う)とか、そういうことが結論というかテーマなのだろうとは思うが、この平和な現代の日本でそんなことを言っても、それを真剣なものと考えられるだろうか。そもそも主人公は友人もいるし、性格も普通だし、生活に何か問題がある(命を粗末している?)ように全く思えなかった。問題があるとすれば叔母の方だろうが、「婚活もうまくいかない」などと言いつつ、明らかに好意を持っている男が近くにいるのだから(その男がどうしても嫌なのかもしれないが)、要するに認識の問題であって、「二人で生活している」という状況の問題ではない(ついでに言えば、経済的な問題は全くないらしい)。別に叔母が異常なほど過保護だとか、そんなふうにも考えられはするが(終盤「それが私には重いの」という台詞もある)、それが問題だというほどには全く思えないのである。本作の展開においても、その状況に対する常識的な反応としか思えない。主人公が旅をしている間に出会う人たちは不思議なほど親切で、叔母とは対照的に、「帰れ」とか、「保護者に心配をかけるな」とかいう態度は全く見せない。物語の登場人物としては素晴らしい人たちのように見えるが、本来はそちらの方が異常だろう。
邪推の域に入るが、序盤の宮崎県では地震を起こさせ、東京では起きる前に防ぐ、というような態度は、結局は東京を中心に考える人間が作っているからなのではないかと、地方にしか住んだことのない人間だからなのか、思ってしまった。劇場では、入り口に(筆者は見終わってから気づいたのだが)地震のアラートが作中に現れる、という注意書きがあったが、これを東北の映画館に置くということは、ある種グロテスクな光景ではなかろうかと思う。あのアラートの描写についても言いたいことは山ほどあるが(怪物の動きを検知してるのか?など)、わざわざあんな注意書きが必要だと認識しているなら、もっと他に意識しなければならないことが、いくらでもあったのではないかと思う。
三回目を見たときポストカードが配布されていたが、そこに書かれていた「この映画の目的」なるものは、全く理解できなかった。あれを読まずにその「目的」なるものに到達できた人がいたら、とてつもない知性の持ち主だと思う。筆者には全くそんなものはない。
この映画で一番良かったのは、付随して「秒速5センチメートル」がIMAXで上映され、初めて映画館で見ることができたという点だった(二回見た)。その他、キーホルダー程度だがグッズも製作されているのも嬉しかった。しかしこの作品そのものは、ひたすら疑問ばかり浮かび、何も納得できないまま終わったという印象だけが残った。それは三回目の鑑賞後も何も変わらなかった。最初見た時、序盤で「また『田舎に住む女子高生の朝の日常』から始まる映画かよ」などと苦笑したい気持ちで思ったが、それはむしろ一番わくわくしていた時の印象だった。