妹のために俺とBLしてほしい
咳が聞こえる。
「葉月、大丈夫か?」
十四歳になる妹の葉月は、持病のために入院している。
今もその小さな顔を発熱で真っ赤にしながら俺を見ている。
「お兄ちゃん、葉月ね、夢があるの……」
「どんな夢だ?」
身を乗り出した。
葉月の夢ならば、どんなものでも叶えてやりたい。
額に汗をかき、瞳を潤ませた葉月が、儚げに笑いながら口を開いた。
「葉月ね……生でBLが見たいの……」
「おはよう」
翌日、登校した俺は一人の男子生徒に声をかけた。
──山城優琉。
昨夜さまざまなリサーチをしたすえ、彼に決めた。
高身長に短髪、健康的な白い歯。そして三年生になって引退したようだが、元野球部のキャプテン。文句なしのスポーツマンだ。
明るい性格でクラスの人気者である山城は、同級生数人に囲まれながらキョトンとした。
「……おはよう」
他の同級生はあんぐりしていたが、山城だけは目を丸くしたまま微笑んだ。
「どうしたの、早乙女。話しかけてくるなんてめずらしいな」
「つきあってくれ」
「ん?」
「俺と交際してほしい」
言った瞬間、教室は水を打ったように静まり返った。
……もうちょっと場所を選ぶべきだったかもしれない。俺は誰にどう思われようとあまり気にならない質だけど、山城は違うだろう。
断るにせよいいにせよ、クラス中が注目するなかでは返事がしにくい。
山城とその同級生は固まったままだ。山城の目が、なにかを考えるように宙を泳ぐ。
……脈なしか。
「返事は急がない」
俺は微笑むと山城に背を向けた。
気を取り直して隣のクラスの第二希望のところに行こうと教室のドアに手をかけたとき、声がかかった。
「……いい、よ……?」
振り返ると椅子から立ち上がった山城が、まだ状況を理解しきれていない顔で笑っていた。
しかし、その口で言う。
「いいよ……早乙女。……付き合おう」
教室は驚きとなぜか少しの歓喜の混じった、よくわからない絶叫で沸いた。
その日は一緒に帰ることになった。俺たちは約束していなかったが、女子生徒たちのバックアップがすごくてそうなった。おそらく葉月の同志なのだろう。
「……あのさ、早乙女。なんで俺なの?」
横を歩く山城が、おずおずと聞く。
(やはりそうきたか)
予想通りの質問に、俺はほくそ笑む。
当然のことだが、俺は山城が好きで交際を申し込んだわけではない。
すべては葉月のためだ。葉月に……生のBLを見せてやるためだ。
とはいえ、BLならばなんでもいいというわけではない。
葉月の現在の推し……某週刊少年誌に掲載され、アニメ化もされている、今腐界で最も人気のある漫画……その漫画のカップリングに、少しでも近づけたい。BLにおいて、好みは最も重要だからだ。萌えないのでは、意味がない。
幸い、葉月の推しは爽やかスポーツマン×クール系だ。山城はそのまんま爽やかスポーツマンだし、俺も女子たちの間では、キリッとした眼鏡のクールキャラで通っているようだ。ルックスも、漫画のキャラクターに近い。
一応何気なく聞いてみたところ「お兄ちゃんは右固定だよ!」と可愛らしく答えてくれたので、おそらく受けは俺で大丈夫だ。
己の身を犠牲することになるが、たいした問題ではない。
攻めには何人か候補がいたが、第一希望の山城優琉を確保できてよかった。
俺は山城をちらりと見る。
(……うん、山城とならギリでセックスできそうだ。勃つかはわからないが)
「あ、あの……早乙女?」
品定めするような視線に怯えた山城が戸惑うように言う。
俺は山城の質問を思い出して、用意していた言葉を口にした。
「人を好きになるのに理由が必要なのか?」
山城には本気でカップリングを演じてもらう必要があるので、俺の気持ちを疑ってもらっては困る。
無論、俺も真面目にやる。
あの純粋無垢な葉月に嘘をつくなんて、断固あってはならない。葉月が見ていないからといって手を抜いた瞬間、それは嘘になるのだ。
もし兄に欺かれたとわかれば……心の傷は生涯残るかもしれない。そんなことはあってはならない。
俺は山城と完璧に交際する。必要ならばこいつとセックスだってする。
俺は葉月のお兄ちゃんとして、絶対にBLしてみせるのだ。
なんの返事もないので山城を見た。
山城はぽかんとしてこっちを見たまま、真っ赤になっていた。
「どうした」
「え?! いや……どうしたって、それはおまえ、……うーん……」
山城は赤い顔のまま、困ったように頭を掻く。
「……よし、デートするか」
なんとなく顔面に力をいれて言う山城を見る。
「なぜだ? なんの意味がある?」
「なっ、えっ……」
「セックスならいいぞ」
「セッ…………えっ?! はぁ?! 待て待て待て!!」
さっきよりも真っ赤になった顔で、山城はブンブンと手と首を振る。
「俺たち……付き合うんだよな?」
「そうだよ」
「じゃあ……普通デート……しない?」
「なるほど」
危ない。俺たちは付き合っているんだったな。
それに葉月に会わせるまでに山城との新密度を上げておくのも悪くない。
その日はデートの約束をして別れ、俺はその足で病院へ向かった。
いとこのゆいねさんが葉月の病室に来ていた。
葉月とふたり、アニメのキャラクターグッズを窓辺に並べてキャッキャとはしゃいでいる。
葉月の腐界を開拓したその人である。
俺は今回のことをかいつまんで彼女に説明した。
ファッション関係の仕事をしているゆいねさんに、デートでの服装を考えてもらおうと思ったのだが、話し始めて数秒でそれどころではなくなった。
「ひえええ!! 妹のためにそこまでするのは正直ちょっとひくけど……でも!! あんたは天使か! いや、神か!! 尊き神か!!」
普段は美人の部類であるゆいねさんは見苦しいほどに興奮した。
「どっちでもない。とにかく失敗したくないんだ」
「そうだよねぇ、そうだよねぇ」
ゆいねさんはデレデレと笑いながら頷く。
そのあと、ゆいねさんと数件セレクトショップを回ることになった。山のように試着させられたが、自分の趣味だからと言って、ゆいねさんはデート服一式を買ってくれた。
デートは映画館だ。
当たり障りのないアクション映画を見たあと、ファミレスに入った。
「早乙女って、服のセンスいいんだな。似合ってる」
山城に誉められて、俺はわずかにほっとした。
「よかった。服にはあまり興味がないから」
「そっか、俺もだよ」
ファッションに興味がないと言いつつも、山城のセンスはよかった。自分に似合うものがわかるのは、一種の才能だと思う。そもそものルックスのよさも影響してるのかもしれないけれど。
「いとこのお姉さんに選んでもらったんだ」
メニューを見ていた山城は、ふと顔を上げた。
「デートで失敗したくなかったからね」
俺は頬杖をついて微笑んだ。
そう、失敗は許されない。BLのために。
山城が持っていたメニューが、パタリと机に倒れた。
どこか呆気にとられた山城を、俺は不思議に思った。
「そっか……うん。……実は俺も、いろんなやつに聞いたんだよな。デートの服装、どうすればいいかって」
まばたきをすると、山城は照れたように笑った。
なぜだろうと思った。
どうやら山城も、失敗したくなかったようだ。
「そうか。同じだな」
「うん……同じ」
山城が目を細めて温かい笑みを見せたので、俺は不意を突かれたようになった。
「楽しい? 早乙女」
「…………ああ、いや、べつに」
答えた瞬間、山城が目をぱちくりさせた。
俺は慌てた。精神的に無防備な状態になっていて、つい本音がでてしまった。
でも、山城は気を悪くした様子もなく笑いはじめた。
「マジかよ早乙女! 正直すぎない? いつもそんな感じ?」
「……緊張してるんだ」
……いいわけとしてどうだろう。苦しかったか?
山城が黙っているので、恐る恐る伏せていた顔をあげた。
山城はまだ笑っていた。
「早乙女も緊張するんだな。俺だけかと思った」
照れたように笑う山城を見ながら、なぜ山城が緊張するのかがわからなかった。失敗したところで、山城にデメリットがあるとは思えない。
山城はテーブルに少し身を乗り出して、目を伏せて言う。
「でも、付き合ってよかった」
今度は上目遣いで俺を見た山城は、なんらかの意思疏通を図るように、少し頬を赤くして微笑んだ。
俺は返事に困って水を飲んだ。山城はずっと、優しげな目で俺を見ていた。
よくわからないが……BL作戦としては順調なのではないだろうか。この調子でいこう。
なにより、山城といて楽しいとは思わなかったが、居心地は悪くなかったのだ。
山城はいつもまっすぐで、裏表がなく、誰にでも公平で優しかった。
交際を始めて一週間でわかったのは、自分が女だったならば確実に惚れていただろうと思えるほど、山城がいいやつだということだ。
俺は山城に好意を持つようになった。もちろん、友人的な意味でだ。
「どうしてもここがわからない」
頭が悪いわけではなかったが、山城は勉強が得意ではないらしい。ちなみに俺は全科目で、学力テストのトップ五位に入っている。必然的に教えることになる。
「よかったらうちに来ないか? 家には誰もいない」
勉強しに来い、という意味だったが、山城は急にそわそわしはじめた。
「……っ、いいの?」
「もちろん」
俺は微笑むと、荷物をまとめて立ち上がった。
「すげえ、高っ……」
山城は窓から外を眺めながら言った。
俺の家はコンシェルジュつきの高層マンションだ。
「……なんとなくそうだろうなって思ってたけど、やっぱり金持ちなんだな」
辺りを見回す山城が言う。インテリアは白と黒が基調で、父親も俺もあまり物は置かない主義だ。
「早乙女ってなんでうちの高校通ってるんだ? 頭もいいし、有名私立にも入れそうだけど」
「妹の病院が近いからね」
山城は神妙な顔をした。葉月のことを同級生に話したのは初めてだ。
「そうだったのか。病気で?」
「うん。持病があって、定期的に入院するんだ。母親は四年前に亡くなって父親はたいてい海外だから、俺が会いに行ってあげないと、かわいそうだろう」
山城はじっと俺の顔を見ていた。
「なにか?」
「いや……優しいんだな」
俺はキョトンとした。
「妹はかわいい。当たり前のことだ」
「早乙女って、なんかいろいろ意外だよな。もっとクールな印象だったけど、付き合ってみると全然違った」
「どう違った?」
「かわいい」
「──…………」
俺は驚いて言葉がでなかった。そんな俺を見て、山城は慌てたようだった。
「ごめん、失礼だった」
「……いや……」
失礼ではないけれど、驚いたのだ。
身の置き所がないような、そわそわした気分になった。
(……なんだ、これ)
いままでにない感覚だった。
耳が熱くなっていくのを感じた。そして、熱がじわりと広がるように、頬も熱くなった。
いつもの山城のように、自分の顔が真っ赤になっていることが、容易に想像できた。
「……飲み物を用意するから」
これ以上耐えられなくて、台所に立った。
それから勉強をして、夕飯を食べた。
「今日はここまで。あとはこことここを、家でやって来るように」
付箋を貼って指定して、今日は終わりにしようと思った。
でも、参考書を閉じて手元に進めたが、山城は思い詰めた様子で受け取らなかった。
「どうした?」
「ん、いや……さっきの、かわいいって言ったの、嫌だった?」
またあの時のことを思い出して、動揺してうつむいた。
山城は俺の顔をのぞきこんだ。
「かわいいとか綺麗とかは、いや?」
「……べつに、いやではないけど……」
恥ずかしい、と思った。
「じゃあ、かわいい」
山城は俺の頬を手で包んで、顔をあげさせた。
まっすぐに山城と目があった。
「かわいくて綺麗だ。早乙女」
「…………あ」
抱き締められて言葉がでなくなった。
硬直した俺の体を、山城が掻き抱く。
「……ほんとのこと言うとさ、最初はネタみたいな気持ちだったんだ。男に告白されるなんて滅多にないだろうし……おもしろそうだなって」
好奇心旺盛だな、という突っ込みが頭に浮かんだがすぐに消えた。考えている余裕がない。山城の引き締まった体を制服越しに感じる。
「でも付き合ってみると早乙女は思ってのと違ってた。俺のために着る服迷ったり、緊張したりしてるって知ったとき……すごくかわいいと思った。早乙女といると、ドキドキしたんだ」
俺の心臓は変な感じに跳ねた。
(…………おまえのためじゃない)
あれは全部うそなんだ。すべては葉月の……BLのためであって、俺はそのために失敗したくないだけだったんだ。
説明しなければいけないと俺は思った。でも、どう説明する? 「妹のためにBLしようと思って、おまえと付き合いました」というのか? ……いや、ダメだ。絶対に嫌われる!!
というか俺は、山城に嫌われたくないのか……?
「……早乙女」
低い声で囁かれてはっとした。
背骨を確かめるようにゆっくり背中を撫でられて、体が強ばる。
「…………セックス、いいんだったよな?」
「…………っ」
腰にくるような声で言われてぞくりとした。
気がつけば俺は、山城を突き飛ばしていた。
「……ごめん」
謝ったのは山城だった。驚いた顔をしている山城を見て、俺は初めてその事に気がついた。
「ごめん、早乙女。俺……」
「いや、違う。俺が悪いんだ。その……」
言葉が続かなかった。ほんとうのことを隠したまま、山城とそういう関係になるわけにはいかないと思った。でも、どう説明すれば──。
「……まだ早いよな。ごめん。俺、怖かった?」
わざと茶化して言う山城に、もうしわけなさが募る。
「早乙女がいいって言うまで待つよ。でも俺……本気だから。それだけはわかってくれ」
なにも返さない俺に少し笑ってから、山城は帰り支度をはじめた。
エントランスまで送ったところで、山城は振り返った。
「今度妹さんのお見舞い、一緒に行っていい?」
それは……願ってもないことだ。そのためにしてきたことなのだ。だけど、不意に良心が痛んだ。
「うん……わかった」
「よかった。じゃあ、また明日」
山城はいつもの爽やかな笑みを見せてから、街灯の灯った並木通を歩いていった。
それから俺は、山城とうまく話せなくなった。
まっすぐな好意を寄せてくれている山城を、俺は騙していたことになるのだから。
「早乙女、一緒に帰ろう」
山城に言われて、俺は手荷物を持った。
「……今日は用事があるんだ」
「病院?」
はっとして見ると、山城は俺の手荷物のなかを指していた。タオルと、女性ものの着替えが入っているのが見えたようだった。
「……そうだ」
「じゃあ、そこまで一緒にいこう。話がしたいし」
その言葉に俺はドキリとしたが、黙ってうなずくしかなかった。
「嫌いにならないでほしい」
別れを切り出されるのかと思ったけれど、山城の口から出たのはそんな言葉だった。
「この前のこと、ほんとうに反省してるんだ」
真剣に悔やんでいるような顔をしている山城に、俺は秘密を話す決意をした。
……全部話そう。妹が腐女子で、生のBLを見たいと言っていて、俺は受けで、その相手役として山城を選んだということを。
しかし、頭のなかで状況を整理したとたん、なんだこれ、と思った。たぶん山城も思うだろう。
俺は誰にどう思われるかをあまり気にしない質ではあるが……こればかりは少しハードルが高かった。
そしてなにより、俺は山城に嫌われるのがいやだった。
そう思いながら歩いているうちに、病院の前まで来てしまった。……言うなら今しかない。
「俺はきみに隠し事があるんだ」
「隠し事?」
俺はうなずいた。
「それは──」
「おーい、礼くーん!」
言いかけたとたん、後ろから声をかけられた。
礼くん。俺の名前だ。聞き覚えのある声に振り向くと、笑顔でこちらに手を振るゆいねさんだった。
そして山城を見て、カッと目を見開いた。
…………なんだかヤバい気がする。
「ちょっ、えっ、これが例の子?! ヤバいじゃん!! 超イケメンじゃん!!」
「例の子……?」
「あー……それは」
ヤバい、まずい。
混乱状態においては、普段は優秀なはずの俺の頭脳はなんの役にも立たなかった。
動揺しているうちに、大興奮に陥ったゆいねさんに問題の核を破壊された。
「この子とBLすんのね?! ヤバい!! 尊みがスゴいいい!!」
「…………は? BL……?」
……最悪のタイミングでばれた。
「え、なに? どういうこと?」
山城は大喜びのゆいねさんを見て、笑らいながら俺を見た。
俺は拳を握りしめた。……説明するしかない。
「……妹の葉月は、BLが大好きなんだ。それで、生で見たいって」
「え、うん。…………ごめん、BLってなに?」
ああ、そうか。……そうだよな。
「ボーイズラブ……つまり、男同士の恋愛のことだ」
「……うん……」
「それを、妹が見たいと言ったんだ。生で。俺は妹のために、男と付き合おうと思った」
「お……おお……」
俺の体当たり感に戦くあまり、事態を飲み込めていないらしい。
俺はわかってくれ、という願いをこめて、山城を見る。
「それで、その相手に……」
「え……?」
少し目を見開いた山城の顔から笑みが消えた。
「俺……?」
俺はうなずかなかった。
「早乙女、妹のために俺と付き合ってたのか……?」
俺はうつむいて、拳を握りしめることしかできない。
最初はそうだった。でも、いまは違う。それをそのまま言葉にして、信じてもらえるだろうか。
さっきまで半狂乱だったゆいねさんはやっと正気に戻り「えっ、修羅場……?」と言った。
「えー……マジか。やられたな」
俺の沈黙を肯定ととった山城は、苦笑いで頭を掻いたあと、うつむいた。
少しの沈黙のあと、山城は小さく言った。
「俺、最初のとき聞いたよな。なんで俺なのって」
「……うん」
「なんであのとき、ほんとのこと言わなかった?」
「それは……」
言われてみれば、あのとき打ち明けていればよかったかもしれない。山城の性格ならきっと、協力してくれただろう。
なにか言いかけたが、悔しそうなしかめ面を見ると、言葉にならなかった。
「俺さ、あれすごく嬉しかったんだ」
人を好きになるのに理由がいるのか。
あのときの言葉だ。
あのとき俺は、山城と本気で付き合おうと思いながらも、山城が俺を好きになったときのことを、考えていなかった。
俺は葉月の──自分のことしか考えていなかったからだ。
胸が痛んだ。
「デートも、一緒に帰るのも嬉しかった。あれ、全部うそなのか?」
そんなことない。嘘じゃない。俺も……楽しかった。
「……違うんだ」
「違わないよ。突き飛ばしたもんな?」
弱々しい否定を、山城は優しい声ではねつけた。
「……俺は好きだった」
その言葉にはっとした。
「好きになったよ、早乙女」
山城はもう笑っていない。
誠実そうなその目の、縁が赤くなっている。
瞳が潤んでいる。
山城は突如俺に背を向けて、足早に遠ざかって行った。
小さくなっていく背中を見ながら、俺は全身の力が抜けていくのを感じた。
ゆいねさんが、忍び足でこちらに近づいて来た。
「えっと、あのー……もしかして、BLの件、言ってなかった……感じ?」
「うん」
「私……やっちゃった感じ?」
「…………」
「……追いかけなくていいのー……?」
「黙ってて」
「あ、スミマセン」
ぴしっと背筋を伸ばしたゆいねさんが、俺を見てぎょっとした。
「れ、礼くん落ち着こ! ね!」
「……え?」
なぜかゆいねさんが滲んで見えた。ぼやけたゆいねさんがジェスチャーする。
「涙!」
俺は言われて初めて、自分が泣いていることに気がついた。
認識すると止まらなくなった。
眼鏡を押し上げて、子供みたいに両手で涙を拭った。
「き……嫌われた……っ!!」
人前でこんなに泣いたのは初めてだった。
ゆいねさんはボロボロ泣き出した俺を見てびっくりしたようだったけれど、表情を引き締めると、グッと俺の肩を掴んだ。
「追いかけて、礼くん!! 探すよ!!」
俺はうなずいて、よろよろと歩き出した。
山城に会って謝りたい。山城に許してほしかった。
山城はそんなに遠くには行っていなかった。
公園のベンチに座っていた。
「……山城」
俺に気がつくと、微笑んで立ち上がった。
「大丈夫だよ」
「……え?」
「妹のためなんだろ? 今度会うから」
包み込むような笑顔に、俺は立ち尽くした。
あまり遠くに行っていなかったのはきっと、気持ちの整理をしたら、戻ってきてくれるつもりだったからだ。そして、すべてを理解した今でも、葉月に会ってくれると言う。
山城は優しすぎる。
その優しさに、また涙が出てきた。
「山城ごめん、好きだっ……」
腕にすがり付くと、山城は驚きながらも支えてくれた。
「最初はほんとうにただの……BL目的だった。でも、山城といると安心できて……楽しかった。突き飛ばしてごめん。こんな中途半端な状態では、できないと思ったんだ」
BL目的ってなんだ、と頭のなかでよぎったが、それも忘れてしまうくらい必死だった。
「好きだ、山城」
「わかったよ。わかったから泣くなって」
山城はいつもの優しげな笑みを浮かべて俺を見ていた。
「ほんとうに意外だよ、早乙女は」
そう言ってポンポンと頭を撫でられて、ようやく落ち着いてきた。幸せを噛み締める俺の視界の端には、身悶えるゆいねさんの姿があった。
日を改めて、山城は葉月の病室に一緒に来てくれた。
「葉月ちゃん、こんにちは。お兄ちゃんの彼氏です」
ひと悶着あったあとでは、なんとなく気が引けたが、山城は「実際に彼氏なんだから」と言って葉月に会ってくれた。
俺は葉月がさぞ喜ぶだろうと思っていた。
葉月は一瞬驚いた顔をした。そして、確認するように聞いた。
「お兄ちゃんの、彼氏さん?」
「はい」
「ほんとうに?」
「ほんとうです」
山城が紳士的に微笑むと、葉月は声を震わせて言った。
「……よかった」
葉月は目にうっすらと涙を浮かべた。
「お兄ちゃんはいつも葉月の心配ばかりして、お友だちがいないんじゃないかと思ってたの。だけど、お付き合いしてる人がいるんだ。ほんとうに……ほんとうによかった」
葉月は山城に向き直って、頭を下げた。
「これからもずっとずっと、お兄ちゃんをよろしくお願いします」
頭を下げる葉月を見ながら、山城は俺の肩を小突いた。俺もその意味を理解して微笑んだ。
やはり葉月はかわいい。優秀な天使だ。
葉月は生のBLよりも、俺に親しいひとが──交際している相手がいることを、喜んでくれたのだ。
ゆいねさんから聞いた話では、後々ことの重大さに気がついた葉月は、なんやかんやで俺と山城の関係を喜んでいたらしい。なによりだ。
そしてゆいねさんからは、定期的にプレゼントがあった。
「えっ、スニーカー?」
「ゆいねさんが、神々に貢ぎ物だって。俺も同じのをもらった」
「おそろいってことか……? まあ、スニーカーくらいなら、恥ずかしくないか……」
「履くの?」
「えっ?! いや、別に、履かなくてもいいけど……」
「……俺も別に…………履かなくてもいいよ」
「…………」
「…………」
「………………履く?」
結局お揃いのスニーカーで出掛けることになった。
そんな感じで交際は順調だ。
読んでいただきありがとうございました!