Cafe Shelly 今、そのとき
やばっ、また連絡をするのを忘れてた。まぁいっか。締め切りまでまだ間があるんだし。
外出先でふとしたことで思い出した原稿の締め切り。私はフリーライターという仕事をしており、毎日のようにあちらこちらに取材に行く。そしていろいろな雑誌やインターネットニュースの記事を書いて生計を立てている。
今回思い出したのは、文字数も少ないしギャラも少ないという仕事。付き合いで書いているよな記事である。その内容について先方の担当と打ち合わせをしなければということが頭にありつつ、つい別のことが忙しくて忘れていたものである。
今はとにかくやることが多い。車で移動しつつ、お店や商品の記事を書くことが多いのだが、頭の中は常に次のことを考えている。今も他に三本ほどかかえている記事の構成のことで頭がいっぱいだ。
おやっ、電話が鳴っている。
「はい、新垣です」
無線でつながっているイヤホンのスイッチを押して電話に出る。移動中の電話は日常茶飯事なので、常にすぐに出られるようにしている。
「あのー、わたくし、新朝日報の飯田ともうしますがー」
やたらとスローな口調のやつだな。例の連絡をするのを忘れてた会社からの電話だ。
「あーはいはい、例の記事のことですね」
「えぇ、そろそろ内容を詰めていただきたいと思いまして。一度、だいたいでいいので原稿を送っていただけませんかぁ?」
なんだか間の抜けた用な口調だな。こういうヤツはオレの性に合わない。
「まだ締め切りまで一週間はあるでしょ。大丈夫、まかせといてくださいよ。大した文量じゃないし」
「あ、はぁ、そうですかぁ。でも、こちらも中身を確認しておかないと…」
「わかったわかった、わかりましたよ。近日中にメールしますので。こちらも次の取材が会って忙しいので。では」
ったく、大したギャラでもないのに、つべこべぬかしやがって。それよりも今追っかけている記事のほうが大事だ。こいつがうまくいけば、かなりのスクープ記事になりそうだからな。
オレはアクセルを吹かして、次の現場へと急いだ。
今メインで追いかけているのは、日野商事から政治家の黒田議員への裏金疑惑。見返りに輸入とうもろこしの一部規制緩和が噂されている。
しかし真実はそこじゃない。別の疑惑をつかんでいる。この証拠さえつかめば、オレは一躍有名ジャーナリストの仲間入りができるってわけだ。これでちんけなフリーライターはおさらばだ。
到着したのは黒田議員の自宅。ここからは突撃取材だ。今の時間、黒田議員の奥さんしかいないことはわかっている。それでいいのだ。
ピンポーン
呼び鈴を鳴らす。インターフォン越しに声が聞こえる。
「どちらさまでしょうか?」
「宅配便です。お届け物にうかがいました」
ここのインターフォンにはカメラがついていないことも確認済み。カメラがあると一発でごまかしているのがバレてしまうからな。
「はーい、すぐにうかがいます」
黒田議員の奥さんは専業主婦。といっても国会議員の奥さんなので裏方として事務所の世話をしたり、黒田議員に代わって地域の人の話を聞いたりと忙しい毎日を送っている、はずなのだが。
ドアが開く。すかさず奥さんに近寄る。今、このときを逃すとオレのスクープは証拠が取れない。それどころか、この事実が他社に先を越されるかもしれない。
「奥さん、騙してすいませんね。私、ライターをしておりまして。黒田議員の不倫疑惑について一言お願いしたいと思いまして」
そう、別の疑惑とは黒田議員の不倫。芸能界ではこういったことが賑わっているし、先日も大臣の一人が不倫疑惑で更迭されたばかりだ。そして黒田議員もその一人である。
「話すことは何もありません」
伏し目がちに暗い顔でそう言いながら扉を閉めようとする奥さん。だがオレは靴で扉が閉まるのを防ぎ、さらに体をドアの隙間にねじ込んで強引に奥さんに詰め寄った。
「奥さん、残念ながらもう黒田議員の不倫については裏がとれているんですよ。世の中にこのことが出るのは時間の問題です。その前に奥さん、あなたから何らかの言葉が出れば、世の中の同情はあなたに向けられる。それに、中学生の娘さんのためにも早めに手を打ったほうがいいと思うんですけどねぇ」
子どものことを言われて躊躇する奥さん。今オレが言ったこと、これは実はまったく意味のないこと。奥さんが釈明しても、奥さんや子どもが救われるなんてことはない。とにかく奥さんの口から旦那の不倫についてコメントを貰えさえすれば、こちらがつかんだネタの裏がとれたことになる。
「奥さん、このことについてお父さんはなんとおっしゃっているんですか?」
黒田議員、実は婿養子である。奥さんの父親は大臣まで努めた黒田太蔵でああるが、すでに政界からは引退している。その地盤があったからこそ、黒田議員は政治家をやっていられるのだ。さて、奥さんはどうでるかな?
「何もお話することはありません。お帰り下さい」
なんとかその場を逃れようとする奥さん。
「一言、なにか一言でいいんですよ。放っておいても明日にはマスコミが押し寄せてくるんですから。今のうちにスッキリしたほうがいいですよ」
「お帰り下さい」
この攻防を五分ほど続けたところで、黒田議員の家の電話が鳴り響いた。奥さんは私の方をキッとにらんで、そのまま家の奥に姿を消した。オレは電話の声が聞こえないか、玄関先で聞き耳を立てる。が、残念ながら声は聞こえない。
まぁいい、あのあわてぶりからおおよそのことはつかめた。けれど、確証には至らない。ここは一度引いてみるか。といってもあきらめるわけではない。しばらく張り込みを続けてみよう。
すると、今度はオレの電話が鳴り出した。
「はい、新垣です」
「あのー、新潮日報の飯田ですがー」
さっきの編集者だな。ったく、間の悪いやつだ。オレは車に乗り込みながら電話の対応をした。
「はいはい、原稿のことでしょ。わかってますって」
「いえ、それもあるのですがー。うちのデスクが一度新垣さんにお会いしたいと申しておりましてー」
ったく、こっちはそれどころじゃねぇのに。ホント、間が悪い。
「わかった、わかったよ。こっちも今別の仕事にとりかかってそれどころじゃねぇから。こっちの仕事が終わったら連絡するから待ってろ」
そう言ってオレは強引に電話を切った。こちらはこれから張り込みなんだから。そう思ってふと黒田議員の家の方を見ると、さっきまであった車が一台なくなっている。ちくしょう、ほんのちょっと目を話した隙に奥さんに逃げられちまった。追いかけようにも、どの方向に行ったんだかわからねぇや。
おそらく実家の方ではないかと推測。そっちに行ってみるか。
慌てて車を出すが、内心はイライラ。あの新潮日報の飯田って野郎のせいで、こちとらスクープ記事を逃しちまうところなんだが。
運転しながら、今オレが抱えている記事のことを考えた。黒田議員のスクープ、新潮日報の安い記事、それと毎週書いているネットの連載が2本。あともう一つ何かあったはずだが。まぁいい、手帳にメモはしてあるはずだからあとから見るか。
だが、このときの判断が大きな間違いであった。
黒田議員の奥さんの実家に到着。だが、残念ながら車が出払っている。おそらくオレの襲撃を避けてどこか別のところで会っているに違いない。けれど見当がつかない。
ちくしょう、なんだか今日は無駄足ばかりだ。時間だけが過ぎていく。一旦引き上げるとするか。
事務所兼自宅に到着する。すると、そこには一人の男性が立っていた。
「あなた、新垣さんですか?」
「えぇ、そうですけど。どちらさまですか?」
「どちらさまじゃないですよ。今日の2時にここに来いとおっしゃったのはあなたでしょう」
今日の2時に何か約束してたっけ?あわてて手帳を取り出す。そして思い出した。そして青ざめた。
「あー、すいません。吉原出版の佐藤さんですね」
こいつはミスった。仕事仲間から紹介をもらっていた雑誌社の編集さんだ。新しいコラムを書かないかということで打ち合わせをするんだった。今日がその日だったことをうっかり忘れていた。
時計を見ると2時30分。30分も待たせてしまったのか。でも、電話くらいくれりゃいいのに。
あ、そうだった。前にアポを取った時はこっちから電話をしたんだった。そして打ち合わせの日時を決めて、住所だけしか伝えていなかった。だから佐藤さんはオレの連絡先は知らない。
「ささっ、どうぞ中へ」
「いえ、お断りします。あなたにはどうしても言わなければいけないと思いまして待っていたんです」
「えっ、ど、どういうことですか?」
「あなたは私から30分という時間を奪いました。私はその間にどれだけの仕事ができたと思いますか?そんな人の時間を奪うような方は信頼できません。ということで、今回の話はなかったことにさせていただきます」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。たかが30分じゃないですか」
「そのたかが30分はもう戻ってこないのですよ。私たちの持っている時間には限りがあるのです。ほんのちょっとの差で大事なものを失ってしまった。それはもう取り戻せない。だからこそ、今を大事にする。私はそんな人としか仕事をすることはできません。では失礼します」
そう言って佐藤さんは足早に去っていった。残されたオレは呆然としてしまった。
佐藤さんの言うことはもっともだ。けれど、たかが30分遅れただけでそこまで言われなきゃいけないのかよ。そっちのほうに腹が立ってきた。
それにしてもつくづく今日はついていない。厄日なのかな?まぁいい、気を取り直して黒田議員の記事でもまとめるか。
これもまた大きな間違いにつながってしまった。
翌朝、まだ日が昇らない時間に電話が鳴った。だれだよ、こんな時間に。
「はい、もしもしぃ」
「もしもしぃ、じゃねぇよ!てめぇ、何してやがった!」
いきなりの怒鳴り声。一体なんだよ。
「はぁ、おたくなんなんっすか?」
「なんなんっすかじゃねぇっ!黒田議員の不倫スクープ、週刊三秋にすっぱぬけれてるじゃねぇかっ!」
声の主は、オレのスクープ記事を待ち構えていた週刊誌スクランブルの編集長。
「ど、どういうことっすか?」
「おまえんとこに今ファックスを送った。ったく、こいつはウチがスクープできるはずだったんだぞ。お前が任せておけなんて言うから信頼してたのに」
あわててファックスを取りに行く。するとそこには黒田議員の不倫の記事が掲載されていた。それだけではない。日野商事からの裏金疑惑についても追求されている。ここまでやられたらオレもお手上げだ。
「おめぇはもう使えねぇ。悪いけど今後ウチには出入りするんじゃねぇ!」
そう言って電話は切られた。おいおい、どうなってるんだよ。あらためて記事を読んでみる。すると、この情報は愛人側から漏れたことが読み取れた。ちくしょう、まさか愛人側に穴があったとは。こっちの読みだと、かなり手堅い相手だと思って、黒田議員の奥さんを狙ったのに。書きかけの記事もすべてパーだ。
「ったく、ついてねぇ」
タバコに火をつけ、呆然とする。やる気がなくなった。
タバコを吸い終えると、オレはふて寝をした。そして次に起きたのは、ふたたび電話の音だった。
「あのー、新垣さんですかー」
今度はその声で誰だか一発でわかった。あののろまな新潮日報の飯田ってやつだ。
「はい、なんっすか?」
「まだ忙しいですかね?デスクがお会いしたいという話、時間があれば今日いかがかと思いましてー」
一瞬断ろうかとも思ったが、やることが急になくなったので時間を持て余している。仕方ねぇなぁ。
「はいはい、今日ならいいっすよ。で、おたくに向かえばいいんですか?」
「あ、いえ、外でお会いできれば。場所は…」
飯田は喫茶店の名前と住所を告げた。オレはまだ半分眠っている頭でそれを覚える。住所から街中だということはわかった。喫茶店の名前はカフェ・シェリーだったな。
「時間は午後の二時におねがいできれば」
「はいはい、わかりました。午後二時っすね」
「よろしくおねがいしまーす」
ふぅ、午後二時か。まだ時間はあるな。まだ起きる気がしなくて、ふたたびベッドに潜り込んだ。やる気がでねぇな。
そして次に目が覚めたときに、オレは青ざめた。
「うそっ、もうこんな時間かよっ!」
目覚ましは1時32分。急いで着替えて車を飛ばして、ギリギリ間に合うかどうかだ。考えている暇はない。
また、間の悪いことにこういうときに限ってよく信号に引っかかる。さらに、街中の駐車場が空いていない。
結局、少し離れたところに停めて駆け足で指定された喫茶店へ向かう。この時点ですでに2時5分。さらに悪い事に、喫茶店のおおよその位置はつかんでいたが、そこがどこだかわからない。あわててスマホで検索をしようと思ったが、住所が思い出せない。
せめて喫茶店の名前だけでも…カフェなんとかって言ってたよな。なんだったっけ?
さらに迷うこと10分。時計は2時15分を指していた。そのとき電話が鳴り響いた。
「あのー新垣さん。まだですかー」
急いでいるときに、この間の抜けたような声はさらに焦りを助長させる。
「すいません、今指定の喫茶店の近くにいるとは思うんですけど。場所がわからなくて」
「そうなんですかー。今どのへんですか?」
「えっとですね、百貨店の裏側の通りにいるんですけど」
「道が一本ちがいますよー。もう一つ先のパステル色の道のところです。カフェ・シェリーでおまちしてまーす」
あわてて教えられた通りへと移動する。えっと、カフェ・シェリーって言ってたよな。
キョロキョロしながら喫茶店を探していると、それらしき黒板の看板を見つけた。そこにはカフェメニューが掲載されている。ふと看板の下の方を見ると、こんな言葉が書いてあった。
「今、この瞬間を大切にしていますか?」
なにげに目に入ったこの言葉。けれど、これについて何かを考えている暇はない。この看板にある矢印の方を見ると、ビルの階段がある。どうやらここの二階にあるようだ。
階段を駆け上がり、勢い良くドアを開く。
カラン・コロン・カラン
カウベルの音とともに聞こえてくる女性の「いらっしゃいませ」の声。この空間に入った瞬間、オレは今までにない感覚に包まれた。焦っていた自分から、急に落ち着いた感覚になる。なんだか妙な感じではあるが、嫌なものではない。むしろ気持ちよさを感じる。
「あー、新垣さんですね」
店の真ん中にいたスーツ姿の若い男性が立ち上がって、オレを迎えてくれた。
「すいません、道に迷っちゃいまして。新潮日報の飯田さんですね。大変遅れて申し訳ないです」
「よかったー。事故にでも遭ったんじゃないかと思って心配してましたよー」
今までこの飯田って男をバカにしていたが。確かにノロマで馬鹿面をしはいるが、本気でオレのことを心配してくれていたのはありがたい。ちょっと見直したな。
「新垣、あいかわらず行き当たりばったりで生きているやつだな」
飯田の背中越しにこの言葉が聞こえてきた。誰だ?
「あ、デスク、お願いします」
デスク?なんて無礼なやつだ。そう思いつつ相手の顔を見ると…
「あーっ!小早川じゃねぇかっ!」
「よぉ、新垣。久しぶりだな」
小早川猛。大学時代に同期だった男。昔はよくつるんで遊んだものだ。
「ってことは、オレってわかっていて今回の仕事を振ったのか?」
「いや、たまたまだよ。今回のシリーズ、どのライターに任せようかということで飯田に人選させたらお前の名前があがったんだ。オレもびっくりしたけどな。だからお前に会いたいと思って今日呼んだんだ」
いやぁ、懐かしい。大学を出てから二十年は経っている。卒業してから小早川に会うのは初めてだ。
「それよりも、まだ行き当たりばったりの人生を送っているのか?相変わらず遅刻はするし、連絡しろと言っても連絡は来ねぇし。学生時代も計画性はまったくなくて、いつもオレや周りに迷惑をかけていたが」
「おいおい、そんなこと言うなよ。オレだって今じゃそれなりにきちんと社会人してんだぜ」
「本当にそうなのか?お前、黒田議員のスキャンダルを逃したろう?」
「おい、どうしてそれを知っているんだ!?」
「やっぱり、図星だな。お前が黒田議員を追っているのは、その道のやつなら知っていたことだ。奥さんの線から追っていたこともな。だが、週刊三秋が愛人側からアプローチしていたことも知っていた。業界じゃ、スクランブルと三秋、どっちが先に記事にするのかが話題になっていたくらいだぞ」
小早川の言葉に唖然とした。知らなかったのは当の本人だけってことかよ。
「新垣、オレはお前が負けるとわかっていた。だから早く会いたかったんだが」
「どうしてオレが負けるってわかっていたんだよ?」
「お前の性格は、いつも目の前のチャンスを逃してしまう。それはジャーナリストとして大きな損をすることになる」
「だから、オレの性格のどこが悪いっていうんだ?」
オレは興奮して立ち上がってそう叫んだ。だが小早川は落ち着いてこう言い出した。
「その話をする前に、まずはここのコーヒーを飲んでみないか?ちょっとおもしろい味がするから。そうすりゃその答えもわかる」
どうしてコーヒーを飲んだら答えがわかるんだよ。その時はそう思ったが、小早川の性格からして、必ず意味があると思った。
学生時代の小早川の印象、それは頭が良くて切れ者。さらに、相手を納得させる達人でもあった。最後は小早川の言うとおりにしていれば、ものごとがうまくいく。だから周りからも頼りにされていた。
それについて、小早川は鼻にかけるわけでもなく嫌味なところが全くない。いつも笑顔で、周りの要求になんでも答えてくれる。まるで聖人君子のようなヤツだ。だからオレも、こいつのいうことなら間違いないと思っている。
その小早川がコーヒーを飲めばオレの性格のどこが悪いのかがわかるというのだから。ここは素直にあいつの言葉に従ってみるか。
小早川はコーヒーを三つ注文。そして仕事の話をしだした。
「新垣、お前の文才は素晴らしいものがある。今回お前にお願いをする記事、これがうまくいけば、間違いなくお前はさらに上にいける。確かに今回のものは安いし、文量も大したことはない。けれど、絶対に手抜きはして欲しくない」
うっ、ちょっと痛いところを突かれた。大した金額でもないので適当に手抜きをしようと思っていたところだった。
「そして新垣、お前には致命的な欠点がある」
「致命的な欠点?」
「あぁ、そこさえ直せば、お前は一流のライターに、いやジャーナリストになれるんだがな」
「ど、どこなんだよ、もったいぶらないで教えてくれよ」
「まぁ、慌てるな。おっ、きたきた」
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
運んできたのは、このお店の女性店員。よく見るととてもきれいな人だ。
「飲んだらぜひ、どんな味がしたか教えて下さいね」
どんな味がしたかって、このお店ではいちいちコーヒーの味の感想を聞くのか?不思議に思いながらもカップを手にする。
オレも書物をやっている端くれなだけに、さまざまなところでコーヒーはいただいている。コーヒー通ではないが、多少は味がわかる自信がある。さて、このコーヒーはどんな味がするんだろう。
まずは香りを楽しむ。うん、こいつはなかなかいい感じだ。そして、熱いうちにコーヒーを口にする。
最初に感じたのはコーヒー独特の苦味、そして酸味。と思ったのだが…
「えっ、なんだよ、これ?」
オレの思い違いか?それともコーヒーとは違うものを口にしたのか?いや、最初に口にして感じたのは、確かにコーヒーそのものだった。
だが、その味がすぐに消えてしまう。後味がない、いやそれどころか別の何かで打ち消されてしまう。どういうことだ?
「どうした、素っ頓狂な顔して。どんな味がしたんだよ?」
小早川はニヤリと笑ってオレに尋ねる。
「あ、いや、このコーヒーって味がすぐに消えるんだなって。にしても妙な味だなぁ」
「えぇっ、そんなことないですよー。すごく美味しいし、なんだか綿菓子食べてるみたいに甘い感じがしますよー」
飯田って男は、相変わらず間の抜けた喋り方をするなぁ。だが、甘い感じなんてしねぇぞ。
「これって、あっちとは別のコーヒーなの?」
そばに立っていた女性店員に聞いてみた。
「いえ、みなさん同じコーヒーですよ。このシェリー・ブレンドは飲んだ人が今望んでいる味がする、魔法のコーヒーなんです」
「飲んだ人が望んでいる味?」
「あ、なるほどー。だから甘いんだー。私、このあとスイーツの取材があって、それを楽しみにしているんですよー」
「ははは、飯田らしいな。で、新垣、お前が感じた味をもう一度考えてみようか。珈琲の味がすぐに消えるって言ってたよな」
「あ、あぁ。でも、それをオレが望んでいるってどういうことなんだ?意味がわからん」
「では聞くが、新垣、今お前が欲しいと思っていたものは何だった?」
今オレが欲しいと思っていたもの、それは小早川が言っていたオレの致命的な欠点。ということは…
「つまり、コーヒーの味がすぐに消えてしまうというのが、オレの致命的な欠点の答えってことか?」
「そう、その通り。オレはすぐにその意味がわかったけどな」
「おい、小早川、もったいぶらないで教えてくれよ。オレの致命的な欠点ってなんなんだよ?コーヒーの味がすぐに消えるってのが、どうしてオレの欠点になるんだ?」
そう尋ねても、小早川はニヤリと笑っているだけ。つまり自分で考えろってことか?
しばらく小早川とにらみ合いが続く。小早川はオレが困っている顔を見て楽しんでいるようにも思える。
「おい、せめてヒントくらいくれよ」
そう言っても、小早川は知らん顔。どうしても自分で考えさせようって魂胆だな。
だが、その答えは意外なところから出てきた。
ピピッ、ピピッ
どこからかアラーム音が聞こえてきた。
「あー、ごめんなさい。デスク、もう時間なので先に行きますね」
飯田がスマホを取り出してそう言う。どうやら飯田のスマホのスケジュール用のアラームが鳴ったらしい。
「もうそんな時間か。わかった、次の取材よろしく頼む」
「はーい」
飯田はそう言うと、駆け足で店を出ていった。飯田という男はのろまなやつだと思っていたが、意外にもシャキシャキ動く。
「意外だったろう?」
「えっ!?」
小早川の言葉は意表を突いた。
「飯田は見た目はのろまでゆっくりとした性格に見えるが、その場その場の行動はシャキシャキしているんだよ。思いついたらすぐに動く。だから今回も、取材の時間を忘れないように、自らアラームを仕掛けていたんだ」
オレはそういうことはしない。アラームを仕掛けるというのは頭の悪いやつがやるものだ、そう思っていた。だがそのせいで今回は寝坊をしてしまった。さらに、吉原出版の佐藤さんとのアポを忘れていた。いや、もっと言えば黒田議員の奥さんの尾行も失敗した。
ここでわかった、小早川の言いたいことが。
「つまり、オレの致命的な欠点、それは飯田のように思いついたらすぐに動くということが足りない。ついついものごとを後回しにしてしまい、大事なチャンスを逃してしまう。そういうことか?」
「新垣、わかってるじゃないか。せっかくいい文才があるのに、お前はいつもチャンスの女神を逃してしまう。」
チャンスの女神、聞いたことがある。チャンスの女神には前髪しかない。だから通り過ぎても後ろ髪をつかむことはできない。つまり、今その時にチャンスをつかまなければ、二度とそれは訪れないということ。
「じゃぁ、今そのときのチャンスをつかむようにすれば、オレは成功するってことか?」
「成功するかどうかはわからないけれど、チャンスを逃しているのは間違いないだろう。学生時代からそう思っていたからな」
「そう言う小早川、お前はどうだったんだよ?」
「オレか?まぁ全てがうまくいったわけではないけれど、それなりに今そのものを大切にしてきたつもりだ。だからこそ、デスクという地位をいただくことができている」
今そのものを大切に、か。面倒なことはいつも後回しにしてきたオレにとっては、ちょっと痛い言葉だな。
「もう一つ教えてくれ。今がチャンスだって、どうやったらわかるんだ?」
「残念ながら、今がチャンスってのはわからない」
「わからないって、じゃぁチャンスを逃してしまうじゃないか」
「本当にそう思うか?お前、取材の張り込みってのをやるだろう?」
スクープを追うようになると、張り込みは必須になる。今回はそれに失敗したが。
「張り込みって、いつチャンスがくるのかわからないじゃないか。そんなとき、どうしている?」
小早川の言葉には、考えることもなくこう答える。
「そりゃ、じっと待つさ。そしてその時が来たら、そのチャンスを逃さないように行動する…」
言いながら気づいた。チャンスというのはそのときがわかったからチャンスなのではない。そのときを見逃さないからこそチャンスが訪れるのだ。
「小早川、お前の言いたいことはわかった。オレは今までチャンスというのはむこうからやってくるものだと思っていた。しかしこれは大きな間違いなんだな。チャンスは自分が逃さないようにしようとする。その気持ちと、それを瞬時に判断して行動を起こす、これがあってこそチャンスなんだな」
「その通り。オレもそう思う。これは最近の脳科学でわかったことなんだが、人というのは考えてから行動するのではないらしい。行動が先で、その後にその行動にどのような意味があったのかを後づけで理由をつけるそうだ」
「つまり、考えるよりも先に動け、ということか?」
「うぅん、正確に言えば、考えなくてもいい。とにかく動け、ということかな。オレはそう理解している。動くのに理由はいらない」
動くのに理由はいらないって、理由がなきゃ動けないだろう。思わずそう反論しそうになった。だが、オレの今までの生活を考えたら反論できない。オレは動こうと思ったときに
「めんどくせぇ、後からでもいいや」
と、自分勝手な理由をつけて動こうとしなかった。それが今回のスクープを逃すことにもなり、アポを確認しなかったことにもつながり、オレの前から仕事を奪っていくことにつながっていた。
「じゃぁ、オレはとにかく動けばいいのか?」
小早川にあらためてそれを尋ねた。
「その答えはもうわかっていると思うが、具体的にどうすればいいのかはこのコーヒーに聞いてみるといい」
コーヒーに聞けって、どういうことだ?あ、そうか。このコーヒーは望んでいる人の味がするんだったな。
すると、このお店のマスターがすっとオレたちの横にやってきた。
「よかったらこちらのクッキーもご一緒にどうぞ。シェリー・ブレンドの効果がより高まりますよ」
マスターが持ってきたのは黒いクッキー。こいつがどんな効果を見せてくれるのだろう。
とりあえずクッキーを口に入れる。黒ごまの風味が口の中に広がる。なかなかいい味出しているな。そしてコーヒーを口に入れる。
コーヒーとクッキーの甘みがうまくブレンドして、さらに黒ごまの香りが鼻の奥をいい感じで刺激する。こいつはうまい!
そう思った瞬間、オレの頭にはある光景が浮かんでいた。
朝早く起きて、身支度が済んだら原稿に向かう。そしてやるべきことを確認したらすぐに動く。さらに、思いついたことはすぐにメモを取り、それをもとに新しいネタをつくりだす。
あれ、どうしてオレはこんなにテキパキと動いているんだ。そのとき、まだ見知らぬ若い男がオレに近寄りこう言う。
「先生、今度の原稿はこれでいきましょう」
先生ってオレのことか?
ここで思い出した、若い頃の夢を。今はしがないライターをやっているが、オレは本来ノンフィクション作家を目指していた。世の中の理不尽なこと、少数派の思いを拾ってそれを世に出す。そうすることで、少数ではあるが困っている人がいるんだぞ、ということを多くの人に知ってもらい、制度改革を求めていく。
これがオレの目指している姿だった。いつの間にそのことを忘れていたのだろう。
そうなるためには、まずは自分の態度を見直さなければいけない。いつまでも今のようにぐうたらしていても、決してそんな姿にはなれない。
「いかがでしたか?」
マスターの言葉でハッと我に返った。オレは今、幻覚を見ていたのか?
「あ、いや、なんだか不思議な味でしたね。クッキーはとてもおいしかったですが、忘れていたものを思い出しました」
「忘れていたものとは?」
マスターの言葉に誘導されるように、オレは今見た光景を語り始めた。その上で、オレが昔、そうだ学生時代に語っていた自分の夢を再度確認した。
「そうですか、ノンフィクション作家を目指していたんですね」
「はい。けれど今はしがない週刊誌のフリーライターです。人が大騒ぎするようなスクープ記事を狙って、右往左往するような仕事をしています。オレ、いつの間にこんなに落ちぶれていたんだろう」
「新垣、ようやく自分の夢を思い出したようだな。オレはお前が学生時代に語っていた夢はずっと忘れていなかったぞ。だから今回、お前にチャンスを持ってきたんだ」
「チャンス?」
「そう、オレから依頼したお前に書いてほしい記事、もう一度思い出してみろ」
オレが小早川の会社、新潮日報から依頼された記事。それは投資詐欺に関するものであった。投資セミナーで行われている詐欺の現状と、被害者についてのリポートである。
投資詐欺なんてちまたにあふれている。だから、ネットで拾ったニュースを元にちょちょいのちょいと原稿を書けばいい。オレはそう思っていた。被害者も、適当に作り話ででっち上げればいい。誰かが困るわけではないのだから。
「新垣、お前のことだから、どうせネットで適当に探したニュースをアレンジして書けばいいと思っていただろう」
小早川はオレの性格を見抜いていた。
「だからチャンスが逃げていくんだよ。確かに依頼した記事は原稿料も安いし、文字数も大したことはない。こんな記事は自分じゃなくても誰かが書いてくれるだろう。そう思えるくらい地味な記事でもある。だが、これがうまくいくと社会を動かすことになるかもしれない。言いたくても言い出せなかった被害者を動かす力になるかもしれない。新垣、どうする?」
ここまで言われたら、動かないわけにはいかない。オレだってジャーナリストの一人なのだから。いつまでも芸能や政治家のスキャンダル記事を追うような生活ではなく、社会派のノンフィクション作家として活躍をしてみたい。
「小早川、この記事、お前のところでちゃんと扱ってくれるんだよな?」
「もちろん、そのつもりでお前に依頼するんだ」
これはオレにとってチャンス。この仕事をしっかりと行うことで、オレはノンフィクション作家への道を歩むことができるかもしれない。これを逃す訳にはいかない。今動かずにいつ動くのだ。
「小早川、わかった。今までの自分をしっかりと反省して、心を入れ替えて取り組んでみるよ。こんなチャンスをくれてありがとう」
「うん、それでいいんだよ、それで。オレにとっても実はこれがチャンスだと思っているから」
「小早川にとってのチャンス?どういうことだ?」
「これはまだ、オフレコにしといてくれよ。オレは今は週刊誌のデスク、編集長という地位にいるが。ここで何らかの社会現象を起こすことができれば、今度は社内でもうワンランク上に上がることができる」
「ワンランク上って、どんな地位なんだよ?」
「今狙っているのは、新設される書籍部門の編集長だ。うちは雑誌の出版が主な事業だが、今度は本の出版を手がける予定になっている。本が売れない今だからこそ、あえてこの部門に挑戦しようというんだ。世の中にインパクトのある本を出していく。これがオレの狙いであり野望だ」
「そこにお前がチャレンジしようというのか?」
小早川は黙って大きくうなずいた。
「お前がそのチャンスを手にできるのは確実なのか?」
「新垣、チャンスには確実ということはない。これはオレの願望で終わるかもしれない。けれど、行動しなければそれは手にすることはできない。これは百パーセントそうだと言える。何もせずに、なにも動かずに欲しいものは手に入れることはできないからな。宝くじだって、それを買いに行かなければ当たることはないだろう?」
「そりゃまぁ、そうだが」
たしかにそうだ。オレは今まで、宝くじそのものが天から振ってきて、さらにそれが一等賞であることを願っていたのかもしれない。けれど、宝くじは買いに行かなければ当たるはずがない。しかも当たるのはかなり低い確率である。その低い確率の当たりくじを今すぐ手にしなければ、そのチャンスは永遠に来ない。
「新垣、お前もオレも願望を叶えるのはかなり難しいと思う。けれど、動かなきゃダメなんだよ。今すぐに。そうなる確立は、宝くじの一等賞を当てるよりは確率は高いと思うぞ。さて、どうする、新垣?」
小早川にそこまで言われたらやるしかない。あこがれのノンフィクション作家に近づけるのであれば、まずは動いてみることから始めなければ。よし、決めた。
「小早川、わかった、オレやってみるよ。そこまでお前に言われて、このチャンスを逃すわけにはいかない」
「だったらまず何から手を付ける?」
まず何から手を付けるのか、そこまで考えていなかった。確かに、具体的に何から手を付ければいいのだろう?
しばらく考えたが、すぐにはその答えが出てこない。すると、今度は女性店員がこんなことを言ってくれた。
「迷ったときには、シェリーブレンドに答えを聞いてみるといいですよ」
そうだ、この魔法のコーヒーは望んだ味がするのだった。今オレはまず何から動けばいいのか迷っている。その答えを望んでいる。だったら、コーヒーに頼ってみるといい。
オレは早速アドバイス通りに、残っているコーヒーを一気に口に入れた。そして目をつぶってどんな味がするのかを確認する。
一瞬、鉛筆の味がした。といっても、鉛筆を本当に口にしたことはない。なんとなくそんな感じがしたのだ。この鉛筆から頭に浮かんだのは、すぐにメモをとること。思いついたことや見聞きしたもの、それを手書きで書いていく。
オレの悪い癖は、頭の中だけで覚えようというところ。だからスケジュールを忘れたり、ネタを忘れたりすることがよくある。
「まずはメモを取る、か」
口からついそんな言葉が飛び出した。
「なるほど、新垣、それがお前がまずやるべきことなんだな」
小早川のその言葉で我に返った。そうだった、今はオレがまず取り組むべきこと、手を付けることを探っていたんだった。
「いやいや、このコーヒーは本当に魔法のコーヒーだな。今、一瞬鉛筆の味がしたんだよ。そこからメモをとるということが頭に思い浮かんで。アタリマエのことなんだが、そこから取り組まないといけねぇな」
「はい、まずは小さなことから。いきなり大きなことをやろうとしても、習慣は身につきませんからね」
そう言ったのはここの女性店員。なるほど、納得の言葉だ。
「よし、早速小早川のところから依頼された原稿、取材に行くとするか。おっと、その前にメモ帳とペンを買ってこなきゃなぁ」
「そんなことだろうと思って、ほら、お前にプレゼントだ。まぁ、そこらの百均でも売っているものだが、今のお前にはこれが必ず役に立つ」
小早川から手渡されたもの。それは小さなメモ帳と消しゴム付きの鉛筆。いつの時代のグッズだよ、というものではあるが、やはりオレはここからスタートするべきだな。
「小早川、サンキューな」
「新垣、お前の成功はオレの成功につながっているんだからな。しっかり頼むぞ」
「ったく、小早川は打算的なんだからなぁ」
この言葉は嫌味ではない。むしろ感謝の言葉として出したものだ。小早川は計算高いが、それは自分の利益だけでなく周りの利益も考えてくれてのことだ。
「よし、じゃぁあらためて行動開始だ!」
オレは勢い良く喫茶店を飛び出した。まずはどこから行こうか。歩きながらひらめいたところを早速メモする。メモをすれば優先順位が見えてくる。よし、いい感じだ。
こうして新たにスタートしたオレの生き方。思いついたらまずは行動。そしてひらめいたらすぐにメモ。いつしかこれがオレの中で身についてきた。
おかげで新潮日報の記事も、自分が思った以上の出来になった。それだけではない、他の仕事も自分で言うのも何だが質が上がった気がする。
そしてあらためて、ノンフィクション作家への道を歩んでみたいと本気で思い始めた。思ったらすぐ行動、といってもどこから手を付けてよいのかがわからない。
しかし、オレには秘密兵器がある。
カラン・コロン・カラン
「いらっしゃいませ」
「マスター、いつものお願いします」
「かしこまりました」
小早川と再開したこの店、カフェ・シェリー。オレは行動に困ったら必ずここに足を運ぶようになった。そして、シェリー・ブレンドを飲んでこの先の行動を決めている。
「お味はいかがでしたか?」
マスターが尋ねてくる。そしてオレは舌の上で感じたことを口にする。
「うん、この前取材に行ったときに出されたケーキの味が横切ったよ。ということは、あのお店にもう一度足を運べば、何かヒントがつかめるかもしれない」
まずはやるべきことをメモして、マスターにお礼を言って店を飛び出した。
オレは間違いなく、自分が望んでいる方向に向かっている。それを実感している。あの日、小早川と再会しなければ、オレはいつまで経ってもうだつのあがらないフリーのライターで終わっていただろう。だが、今は違う。もうじき本の原稿ができあがる。この本、小早川の野望である書籍部門から出される一冊目の本になる予定だ。
小早川もその地位にもうすぐなれる見込みができてきた。オレとしても心強い。だからこそ、オレが今できることをとにかくやる。これしかない。
できるかできないか、ではない。やるかやらないか、だ。だったらやるしかない。よし、今日も走ってみるか。
<今、そのとき 完>