フレグランスバグ
「お兄様! 大変なことですわ!」
リリはうどんを叩く棒を片手に、僕の部屋に入ってくる。
「リリ。ドアは叩けと言っただろう」
「今はそれどころじゃありませんの!」
彼女は、体型がしっかりした土木作業のおっさんではない。
彼女の言葉遣いは、僕が過去に書いていたハーレム小説に登場するお嬢様に酷似している。つまり、リリは僕に向かってしかその言葉遣いをしないのだった。
「じゃあ、どれどころだと言うんだ。リリ」
「ゴキブリを、この棒で殺してしまいましてよ!」
リリは棒に指をさす。
「その棒で?」
「ええ、この棒ですわ!」
「証拠はどこにあるんだ。あまり僕を怒らせない方がいい。そう、あまり僕を困らせるべきではない」
「これ!」
リリはずかずかと部屋の中に入り、僕の目の前にスマホをかざす。
僕はそのスマホから流れ出る電磁波をキャッチし、その惨憺たる光景を共有した。
潰れたゴキブリ。
変な汁が出ている。体液か、もしくは体液以外の何かだろう。
僕は椅子から立ち上がり、妹の顎に盛大に頭をぶつけてしまった。
「何をするんですの!」
「もうしたんだよ。お前は言葉遣いを治さないといけない」
ゴキブリを潰した棒を背中に擦り付けてくる妹を無視しながら、僕は現場に向かう。
あの地面には、一つしか見覚ゑがなかった。
僕は廊下の窓から飛び降りて、足の骨を折る。僕が飛び降りた窓は三階にあった。
『お兄様!』
リリはテレパシーで僕に話かけてくる。距離が離れているからだ。
「飛び降りろ。お前なら出来るはずだ」
僕は生来からの肺活量をもってして、屋敷の外から内部にまで響き渡る、辛うじて声と認識出来るようなそれを発音した。
『分かりましたわ! すぐ向かいます!』
リリはそう言うと、廊下を走り、階段を下りて、正麺玄関から出てきた。その手に棒は握られていない。
リリは倒れた僕の横まで駆け寄ると、勢いそのままにうどんを叩く棒で僕を半殺しにした。棒は後ろ手に隠し持っているだけだった。
「なぜ急に飛び降りるのですわ!? 死にましてよ!?」
僕は「死にましてよ」と「引田てんこう」で韻が踏めることに気付いて微笑みつつ、「僕の足元を見たまえよ」と爆音で叫ぶ。
リリは鼓膜が破れたらしく両耳を抑えながら(片方は手、片方は棒で)、僕の上に土足で乗り上げて、足元まで歩いていく。
「ゴキブリの死骸が転がっていましてよ! まさかあの写真だけで、この死骸がどこにあるのか分かったのですわ!?」
『いいや、そのゴキブリは僕が着地の衝撃で潰した哀れな被害者だ。お前が殺したゴキブリとはなんの関係もない』
彼女は苛立ちに任せて僕のスネをヒールで踏みつけようとするが、そのままリリは体勢を崩して転けてしまう。それもそのはず、ヒールが直撃した先にあるはずの骨は、さっき僕が折ってしまったからだ。想像よりも柔らかい衝撃に、気が動転してしまったのだ。
「お兄様! 居ましたわ! 私が潰したゴキブリが!」
リリは地面に這いつくばりながら、僕の方に振り向く。
「まあそうだろうな。お前が僕が潰したゴキブリを自分が潰したゴキブリと見間違えるということは、お前はここの近くでゴキブリを殺したということだからな」
「何を言っているのか聞こえませんわ! 腹話術ですの!? 腹から声をお出しになって!」
肉声で話してみた反応をみるに、リリは本当に鼓膜が破れているようだった。
僕も足が折れている事だし、そろそろ回復しておこう。
「雨、ぅ降るぅ!」
僕が空に向かって叫ぶと、雲がドーナツの形になって、その穴から水の粒が降ってくる。
口をuの形にした、一点集中の爆音。
その破壊力は雲を貫き、雲は元の形に戻ろうとする力で雨を降らせる。これが桜庭家代々に伝わる、世界一滑稽な雨乞いとしてギネスに登録されている儀式だ。
雨は、僕達の体をたちまち癒してくれる。
雨は、恵みの雨だからだ。
僕は立ち上がって、髪を後ろに流す
「さて、一段落済んだところだしゴキブリを片付けるとするか。証拠隠滅しないと、警察に処刑されてしまうからな」
「お兄様!」
リリは這いつくばったまま、泥だらけになって僕のことを見上げる。
その姿から砂風呂を連想した僕は彼女の頭を掴み上げ、力任せに首から下を地面に埋めると「どうした妹よ」と呼びかける。
「ゴキブリが、いなくなったのわね!」
驚き、辺りを見渡すと、ゴキブリの姿はどこにもなかった。
なるほど。
恵みの雨によってゴキブリは死の淵から蘇り、どこかへ逃げてしまったのだろう。
恵み(eui)。
施し(oooi)。
突拍子(ooui)もない別離(eui)。つまりは、そういうことだったんだ。
「泣いているのですか? お兄様」
彼女は低い位置から、僕に語りかける。
「雨だよ、雨」
僕は降り注ぐ雨を真っ向から受け止めながら、その場を立ち去った。
今日の天気は、雨時々涙