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風星発動機の活躍 脇役の航空機

その他の航空機です。

全部ではありません。

 風星発動機は零戦七十五型に採用された後、栄や金星搭載機の能力向上策として、また生産困難発動機の代替を努めることになった。

 発動機換装の最初の対象は海軍では彗星のアツタ発動機、陸軍では飛燕のハ-40だ。いずれも水冷である。

 元はDB-600であり、ダイムラー・ベンツ社からライセンス契約をすませ工作機械一式もドイツ政府からも輸出許可を得たのであるが、ドイツのポーランド侵攻と共に話は無い事にされた。

 契約違反の補償は紛糾したがDB-601の燃料噴射装置を含むライセンス生産の権利を格安で得、生産を始めたはいいが日本の技術力では生産困難であった。 

 更に冷却をエチレングリコールなどの熱媒体を使用せず、水だけで済まそうとしたことも問題だった。

 高圧冷却系を採用せざるを得ず、冷却系の故障か発動機の故障かでとにかく稼働率は悪かった。当然前線でのこれら二機種の評判は最悪だ。彗星はまともな稼働率が有るのは空母搭載機だけという状態で、飛燕も一部部隊がまともな稼働率を出しているだけだった。それも予備発動機や予備冷却系を多数揃えてだ。

 発動機の生産も遅れており工場の飛行場には首なし機体が列をなしていた。

 急ぎ換装指示が出され、なんと二ヶ月後の十八年十月には試験機が飛び始めた。オリジナルよりも性能が向上したのはあきれられた。

 彗星は最高速度三百三十ノット(610km/h)、飛燕は六百三十km/hを発揮し上昇力も上回った。

 この脅威的な成績により、風星発動機は愛知航空機と川崎航空機でも生産が開始されることとなった。アツタとハ-40は生産中止になった。

 飛燕の高空性能を惜しむ声も有ったが稼働率の問題はその声を封殺した。

  

 彗星と飛燕は風星発動機の乾燥重量がアツタやハ-40よりも重いことが問題になったが、液冷発動機の乾燥重量は発動機単体であり、ラジエターと配管の重量と冷却水の重量をたした重量が実重量であった。滑油を全量入れた実装時にはほぼ同重量となり発動機位置や主翼位置と重量バランスを取れば載せるのに問題は少なかった。

 飛燕はホ-103四丁の弱武装から20ミリを載せようという話になったが九九式二〇ミリ機銃はAPIブローバックであり、プロペラ同調が出来ず飛燕の胴体銃はホ-103のままであった。主翼は桁形状の問題で積めなかった。

 風星発動機を積んだ飛燕は二型の型番となった。首なし機体は全て風星発動機を積むべく改造された。大型フィレットの取り付け、ラジエター取り外し、発動機架周りの全面改造など多岐にわたった。


 飛燕が二〇ミリ機関砲である九九式二号二型銃を積めるよう主翼を改修した型が三型だ。この型から胴体後部がファストバック形状から涙滴型キャノピーを備える形状になった。

 発動機は風星だが二段二速過給器を積み高空性能は排気タービン並みとまでは行かないがかなり良くなった。元々持っていた高アスペクトレシオの主翼と相まって陸軍機中最高の高高度性能を持つ。

 更に主翼に二〇ミリ機銃四丁を装備した機体が三型甲だ。ただ二〇ミリ機銃四丁と弾薬八〇〇発は重く運動性能は落ちたという。


 風星発動機は屠龍にも積まれ機体各部の強化もあり、有力な対爆撃機用戦闘機として生まれ変わる。

 夜戦型と昼間型があり昼間型は前方投射火力として一三ミリ二丁、二〇ミリ二丁、二五ミリ一丁装備の二型と一三ミリ二丁、三〇ミリ三丁の二型乙がある。

 夜戦型は正面火力として一三ミリ二丁と二〇ミリ二丁、斜め銃を胴体上面に二〇ミリ二丁とした。これが二型甲である。斜め銃を三〇ミリにし機体が二型丙である。

 二型の二〇ミリ機銃は主翼付け根上面にバルジを設けて搭載。最初下面に装備する計画だったがプロペラとの干渉が懸念され上面になった。

 二五ミリ機銃は海軍の九六式二十五ミリ機銃を三十七ミリ砲を撤去した後に強引に積んだもの。弾倉は四〇発入りの特製弾倉で交換は大仕事であり、通常は機内で一発ずつ手動で弾倉に納める設計であった。

 試作が進んでいる新型三〇ミリ機銃までのつなぎとして搭載された。発射速度は遅かったものの弾道が良く伸び威力もあり評判は良かった。

 元の三十七ミリ砲は低初速短射程の榴弾砲であり対地目標を主眼に搭載されたものだった。一発当たれば撃墜も可能であったが、これでB-17やB-24を撃墜するには至近距離まで接近する必要があり返り討ちに遭う事も度々あった。

 単発であり、二発目を撃とうとしても目標を通り過ぎているのである。

 これでは対爆撃機には使いにくく新装備となったのである。

 二段二速過給器を装備した三型はB-29の迎撃に活躍した。

 二型丙から日本機として初めて機首に電探を内蔵した。ただ機首の電探覆いに使われた樹脂の質が悪く半年もすると割れてきたという。



 雷電は、発動機の振動は低下したが、長大なギヤボックスやプロペラシャフトの強度不足や精度の不足、さらにVDMプロペラにも問題が有ることが発覚。対策に時間が取られて戦力化は進まなかった。


 紫電は漸く誉の性能が安定してきたが相変わらず主脚の故障が多く、撃破される機体よりも主脚の故障で廃棄になる機体の方が多いと言われる。それ程故障が多かった。



 十八年春、この頃漸く産学軍の三者共同開発による航空機用百オクタンガソリンの試験操業が始まり、海軍徳山製油所で生産過程の安全性・安定性及び製品の均質性が確認され日本石油、正和石油でも十八年冬から生産が始まる。同時期に国産鉱油系航空発動機用潤滑油の生産も始まる。

 この百オクタンガソリンはアメリカ製百オクタンガソリンほどの性能は無かったが、これ以前の国産航空機用ガソリンとは一線を画す物だった。 

 潤滑油も基油性能が従来の物とはやはり一線を画す物が開発され、発動機の潤滑油系トラブルの減少に繋がった。基油性能は上がったが添加剤がガソリン同様良い物が開発できないため、アメリカ製には相当劣る。

 十八年春、イギリスとの技術交換で百オクタンガソリンの精製技術と引き換えに滑油技術や添加剤技術の導入を行い、性能は上がった。それでもアメリカ製との開きは大きい。

 この頃の石油製品はアメリカ製が世界最高である。何故かグリスはドイツ製が良いのだが。現在でもほとんどの石油製品で世界最高レベルである。

 この技術交換でイギリスから最新のレーダー、アズディック、IFF、レーダー逆探知機や無線探知技術がもたらされた。二段二速過給器の技術も含まれた。

 交換に世界で日本だけが実用化に成功したトランジスタの技術資料一式と現物が送られた。



 十八年初冬、雷電の振動問題がようやく解決し本格的な生産に入った。やはり各部の強度不足・精度不足が原因だったようだ。VDMプロペラも調速機の強度不足とモーターの出力不足であった。 

 機首の7.7ミリ機銃を途中から止めたために機内スペースは余裕があった。そこで二段二速過給器と中間冷却器を装備出来るかの検討があり、中間冷却器についてはスペースの不足で一部外部に出てしまうことになった。従来の水メタノール噴射とどちらが良いか議論になったが、重量は変わらないが整備性という面で水メタノール噴射は中止になり、中間冷却器が装備された。両方を装備するスペースは無かった。

 この二段二速過給器を装備した雷電が二十二型である。高度五千メートル以上なら日本機中最高の上昇性能を誇る。高度四千メートルから高度一万メートルまでの全高度で六百六十キロの高速を誇った。

 運動性も同じような高高度性能を持つアメリカ軍機よりも良好で高度七千メートル以上では日本最強の戦闘機として終戦まで活躍する。

 戦後の合同演習でF8Fと対等に渡り合いアメリカ海軍を驚かせた話は有名である。



 紫電は一時生産が取りやめとなり(これは零戦七十五型が思いのほか優秀だったためと故障多発のせいであった)川西はますます低翼型へ力が入ることになった。

 この頃、中島では栄発動機の生産がかなり減り、誉の生産に余裕が出ていた。百オクタンガソリンの国内量産開始と潤滑油の高性能化。また各部不具合の解消と相まって、性能が安定する。

 悔し紛れに川西が性能安定後の誉を取り付けた紫電でテストしたところ最高速度六百二十キロと言う高性能を発揮した。が、既に遅かった。

 川西は紫電の主翼平面形は優秀だとして、翼断面の見直しや20ミリ機銃をガンポットで吊り下げなければならなくなった主翼内スペースの見直し等を行った。

 胴体は完全新設計である。

 十九年二月に完成した低翼型試作機は最高速度六百四十キロを出し、軍に注目された。

 十九年五月には量産指示が出され、川西は喜びに溢れたという。

 名称は紫電改だった。



 隼の生産縮小で影が薄い中島であるが、十八年秋からキ-84疾風の生産開始をしていた。当初誉が安定せず苦労していたがガソリンと潤滑油が良質になったのと不具合の改修で本来の性能を発揮した。 

 彩雲も同様で素晴らしい性能を発揮した。『ワレ二オイツクグラマンナシ』の電文は有名である。

 疾風の成功に伴い隼と鍾馗は生産中止。零戦も中島での生産は中止であり、疾風の生産に全力を挙げ終戦までに六千機という大量生産をしてしまう。この疾風大量生産で日本は本土防衛を果たしたと言っても過言では無い。

 P-47の高空性能には勝てなかったが、他の米軍機には対等に戦えた。



 海軍では次世代艦上戦闘機の開発を進めていたが烈風は二十年四月になってようやく実用化した。

 進歩が著しいこの時代の軍用機にとって零戦制式化から五年後というのは遅すぎた。

 烈風は要求性能決定時の混乱があり、開発に手間が掛かった。水平旋回での格闘戦を重要視する派閥が勝ったため低翼面荷重を要求され、翼幅十五メートルという艦攻かと思うような巨大な主翼を装備した。機体のバランスを取るために胴体も長い。当然速度が出るわけはなく試験機で三百二十ノットしか出なかった。零戦七十五型より遅い。この速度ではどうやっても次世代機として採用は出来なかった。海軍当局は烈風を主導してきた部員を左遷。新たに高機動戦闘機として改設計を求めた。翼幅短縮、胴体小型化などの努力の末、性能的には紫電改と変わらないという機体が完成。結果出現時点で並の能力しか持たない陳腐な機体が出来上がってしまった。この機体でF4UはともかくF8Fに対抗出来たかどうか怪しい。事実、戦後の合同演習で勝てなかった。

 海軍は完全新設計の烈風と改造に改造を重ねた紫電改が機械的性能でも空戦性能でも変わらないという結果にどちらを主力にすれば良いのか悩んだらしい。

 もっとも烈風制式化時点での空母戦力は日本が大型正規空母二隻、中型正規空母二隻、軽空母三隻、改造空母四隻と開戦時とさして変わらない戦力だったのに対して、アメリカ海軍はエセックス級空母十隻、軽空母二隻、護衛空母数える気にもならないくらいたくさん。と大差を付けられていた。

 日本海軍は艦隊温存をするしか無かった。一応爪くらいはありますよと。



 終戦まで日本海軍の艦上戦闘機は零戦七五型が主力で、一部正規空母に紫電改艦載型と烈風が試験的に積まれたに過ぎない。

 零戦各型の生産数は大凡だが二十一型二千機、三十二型一千百機、二十二型二千機、五十二型二千二百機、七十五型四千機、各型合計一万一千三百機であった。


 終始海軍の主力であった零戦はゼロ戦とも言われ特に最終型である七十五型はラストゼロと呼ばれる昨今である。

作者の頭の中ではこうなりました。

後一話です。

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