零戦七十五型 誕生
第一話は、零戦七十五型誕生秘話です。
零式艦上戦闘機は瑞星発動機装備の試作機に始まり、中島製栄十一型装備の十一型二十一型、栄二十一型装備の三十二型二十二型五十二型と遍歴をたどった。
二十二型で既に馬力不足が指摘されていたが、五十二型になって翼幅減少と翼端形状の変更に推力式単排気管を採用することで各型最高の三百五ノットを発揮し期待されたが、既に三百ノットでは低速機の範疇でありその卓抜した左旋回と上昇力を生かして立ち回るしか生き残る道は無かった。
上昇力にしても同高度・同速度・水平飛行からの上昇なら有利と言うだけであり優速の敵機に速度差のある状態で後ろに着かれた場合上昇して逃げるのは不可能に近かった。
機銃は二十二型甲から長銃身二号銃になっているが、一〇〇発ドラム弾倉だった。
五十二型甲になって二十ミリ機銃はベルト給弾の二号二型銃になった。まだ防弾は無い。相変わらず能力の低い自動消火装置だけである。
防弾は五十二型になっても能力の低い自動消火装置以外は無いのであり、五十二形乙になって初めて前面防弾ガラスと防弾鋼板に強力な自動消火装置がカタログ上は装備された。生産時期によっては甲仕様のままであり前面防弾ガラス以外は実装された機体は少ない。
五十二型乙から胴体銃の片側がホ-103になった。漸く陸海と生産設備の共用で資源の有効利用を始めたところだった。陸軍は二十ミリ機関砲であるホ-5の開発はしたがまだ量産設備設置開始前の段階で計画を中止。九九式二号二型二〇ミリ機銃を自前の工廠で生産開始した。
この時期中島で作っていたのは二十二型乙であり、二十一型から生産設備の大きな更新をしないまま移行できるのは二十二型乙しか無かった。三十二型で胴体や尾翼を強化した機体に二十一型の主翼を付けた三菱製の二十二型とは違い発動機だけ栄二十一型にしたのが中島製二十二型乙であった。途中からであるが胴体銃の片側がホ-103になった。
本来はこの型が二十二型でいいはずだが、三十二型の後は四十二型であり、四二は「死に」に繋がるとして避けられた可能性が高い。
何故中島が設備の更新をしなかったのかは噂の範疇でしか無い。
海軍から頼まれて生産しているのに、
新型にする設備更新費用は持ってくれないからだとか、
海軍が機体の供給が一時的にしろ止まるのを恐れたせいだとか、
色々言われるが関係者がみな語ること無く理由は不明のままだ。
ただ、防弾は無く機体の重量バランスが良く軽いため急降下以外の運動性能は各型最高と言われた。
この機体を好む搭乗員もいたという。
五十二型丙になって、前面防弾ガラスにプラスしてようやく防弾燃料タンクと防弾鋼板が実装されたが武装強化による重量増と相まって自重が増加し速力と運動能力が著しく落ちてしまった。主翼にホ-103を二丁装備したからだ。これで十三ミリ機銃三丁と二十ミリ機銃二丁という重武装になった。残る一丁の7.7ミリ機銃は役に立たないのと軽量化のため外す事が多かったという。
同世代の同クラスであるグラマンF4Fは順次改修され実力を確実に向上させている。五十二型丙では遂に運動性で大差ないくらいになってしまった。旋回性能なら勝てるが、横転性能では負ける。速度と上昇力ではちょぼちょぼである。グラマン1300馬力と零戦1100馬力であり、このクラスの200馬力差は性能への影響が大きかった。
イギリス向けの機体はM2を六丁装備だったが、太平洋向けの機体はひ弱な防弾しか無いが運動性の良い日本機相手をするため一時期六丁だった機銃を四丁に戻して機動性を確保している。
52型丙登場時にはグラマンF4Fから2000馬力エンジンのグラマンF6Fへと世代交代が進んでおり、零戦ではF6Fに対抗するのは事実上不可能であった。
これに対する海軍の対応は後手に回り、制式化したものの振動問題でさっぱり戦力化の兆しが見えない雷電と誉の不調と出力不足さらに主脚の不調でやはり戦力化には遠い紫電に注力し、主力である零戦の強化はおざなりにされた。
設計元である三菱と協力する空技廠に文句を言うばかりで金も人も出さなかったのである。
それでも昭和十八年の人事異動による配置換えは(海軍省はこの期に及んでも全軍単位での司令官級まで含めた定期的配置換えを行っていたのである)危機感を募らせた人達による影響力行使で、航空関係には明らかに向いていない人材、さらには害としか思えない人材が配置されるのを防いだ。
それでも全員に影響を与えるのは無理であり主だった人間に限られた。
そんな中、秋田県に在る日本海機械工業では新しい発動機の試作が行われていた。
この会社は航空機発動機の外部委託生産を主目的に東北殖産のために設立されていた。設立は十五年春である。
三菱航空機の生産能力の不足を危惧した一部の人間が立ち回り設立にこぎ着けた。東北殖産という言葉は当時の頑迷にして自己の考えに固執する官僚や政治家の壁を打ち破る事に成功。
軍部は軍事生産能力の向上は歓迎するものであり、やったことは許されることでは無いが、未だ二・二五事件の東北冷遇に怒りをと言う主張に賛同する者も多かった。軍部は反対しなかった。
操業開始後、発動機のみの委託生産では三菱の都合に振り回される事が多々あり自主生産への道を探ることになった。機体製作へも参入するのは軍の後押しを得られた。
自身には一から開発する能力が無いのは分かっている。
三菱からライセンスを取得すると言う手段を選んだ。
三菱航空機も自社の製造能力の限界と設備増強に対して親会社である三菱重工の無理解を感じ、軍も交えた説得に折れてライセンス生産を許可した。
ライセンスは日本海機械工業が三菱航空機製品の改造をする行為の承認をする事も条件に含まれた。
代わりに有益な改造範囲は全て報告することになった。
零戦は結局、三菱航空機、中島飛行機、日本海機械工業の三者で生産されることに成った。
この会社で生産される機体は三菱の生産過程と同じ物で五十二型丙も生産されている。
一八年春からの日本海機械工業と零戦本家の生産力強化に伴い、中島は零戦の製造から段階的に撤退。二十二型甲が最後の中島ゼロであった。中島は同社製隼の生産も陸軍命で絞っており、鍾馗の生産と次世代主力機であるキ-84疾風の開発・生産に全力を挙げるのだった。
生産設備では、海外製の機械が多数導入され三菱や中島に引けを取るものでは無かった。
多くの工場が生産設備の追加や建屋増築で非効率になっているのを横目に新規開設という強みを生かし動線を研究、現在から見れば穴が多いが当時としては最高効率の工場を作り上げた。
開発技術者も東大遍重では日本海機械工業のような新興零細企業には来てくれない。出身は問わず広く募集した。
結果として、有益な人材多数を獲得することが出来た。
日本海機械工業では将来、航空機の高性能化はイコール発動機の高性能化であると考えているが自身の能力には余りある事態であった。
そこで、金星や栄を搭載する機体の延命策として瑞星の十八基筒化に目を付けた。金星や栄よりも直径が小さいから換装にも手間が掛からないはず。
開発開始は一七年年初。開戦直後だった。
社内コード「風星」
風星発動機
瑞星のシリンダー寸法を使った空冷星形十八気筒発動機
瑞星では一気筒辺り七十馬力である。十八気筒にしても一千二百六十馬力にしかならない。瑞製を高回転化と圧縮比を上げ気筒辺り出力を八十馬力から九十馬力を目指した。
高回転化で問題になったのは異常振動だった。圧縮比は上げていない。過給器を通さず自然吸気の状態で出た。
様々な要因が検討されたが分解するとだいたい後列に痛みが出ている。吸排気管の不等長が問題にされたので試験的に等長としてみたが改善されなかった。
次に疑われたのが前列と後列の温度差であった。計測の結果、多少違っていた。ただ問題は無い範囲である。
次は、バルブ関係である。複列であるがカムは前方の一枚だけだった。前列と後列でバルブステムの長さが違う。タペット形状の違いも問題になった。カムの加工精度が本当に出ているのかも問題にされた。
次にクランク形状のコの字クランクが問題にされた。前列と後列の同じ気筒位置で爆発を行い効率化を図る設計であったが、角度のズレが高回転で影響を及ぼしているのでは無いかと言う疑いも持たれた。前列と後列でカウンターマスも同じ位置にある。カウンターマスの運動慣性が思ったよりも大きいのかも知れない。高回転化でバランスが狂って暴れているのかも知れない。同じ位置での爆発だと片側に力が掛かりすぎるのでは無いかと言う疑問も有った。
技術陣は一つずつ潰していった。
まずクランクに取りかかった。組み立て式でありジャーナル部の加工を変えればすぐに反対に出来た。
ヘッドを着けない状態で、従来のコの字クランクとの対比を図った。モーターを使って廻してみると予定回転数ではコの字クランクよりも振動は少ない。
この結果を三菱航空機に伝えたところエンジン技術者達は苦虫を噛み潰したような顔をしたという。
これを聞いた雷電関係者は強引にクランク形状の変更を求めた。雷電が制式化された後で戦力化に苦しんでいるのは振動問題が大きく影響していた。
カムは前列用は発動機前方、後列用は発動機後方とされた。これにより後列用ヘッドは形状を変更している。これなら同じカム、同じバルブステム、同じバルブステムガイド、同じタペットの作成ですむので効率的とされた。後列カム配置による副次的効果として後列の冷却が良くなると思われた。
最初の運転試験では自社製新設計滑油ポンプの能力不足により焼き付いた。新規開発も考えたが取り敢えず金星の滑油ポンプを流用した。金星ではやや足りないが問題は無くなった。余裕を持たせるとして火星の滑油ポンプを使うことになった。
次の運転では、回転は上がるのだが過給圧が足りなかった。独自開発の過給器だったが良くなかったようだ。金星の過給器を使おうとしたが容量が足りない。また火星のお世話になった。
燃焼室形状の変更など試作を繰り返すうちに漸く満足のいくもの出来上がった。
空冷星形十八気筒で一千六百馬力を発生した。
みんなできりたんぽ鍋を囲んだ。
きりたんぽ鍋を囲んだ翌日、冷静になった男がいた。
「なあ、この補機で瑞星、金星、はっきり言えないが中島のアレ、の補機スペースに収まるのか」
それがあったかという顔をする者達。ダメだこれは。
火星の滑油ポンプと過給器は大きいのだった。
工場の隅にあった少しミスった零戦を持ってきてはめてみるが、合わない。とてもでは無いが発動機架に収まらない。
滑油ポンプは寸法を瑞星から金星相当として大容量化を図る。
過給器は、金星のギヤ比を変え高回転として過給圧を上げ空気供給量を増やすとした。が、これは空気圧縮による空気温度の上昇で問題が出た。重量や設置場所の問題で中間冷却器の使用は考えていない。過給器に入る空気量を最初から多くする事にした。多すぎる場合は過過給防止のための制御弁を作って必要以上の空気が気化器に入らないようにした。
苦労が実ったのは十八年春も終わりの頃だった。
離床出力一千七百馬力
一速公称出力 一千六百五十馬力/三千メートル
二速公称出力 一千五百六十馬力/六千二百メートル
直ちに海軍は審査に入った。
この発動機は零戦に収まった。収まるよう作ったから。ただし若干の改造は必要だった。
補機類の奥行きが増えたために、発動機防火壁を後退させた。この影響で胴体銃と胴体内燃料タンクが装備できなくなった。
発動機単体重量の増加により機体後方の重量を増しバランスを取った。防弾鋼板の大型化と厚みの増加が採用された。
主脚の強化、胴体の強化なども行われた。胴体は桁材の強化や配置の変更、外板の厚板化等で工数を減らすことに尽力した。
主翼内の燃料タンク容量増加は見送られた。
燃費消費量増大と燃料タンク容量減少で航続距離は五百海里まで低下した。
さすがに見過ごせないとして海軍から横やりが入り、主翼外翼部燃料タンク増量と防弾鋼板の位置変更と形状変更をしてまで胴体後方に燃料タンクを設置した。勿論防弾と消火装置は付いている。
これにより八百海里まで伸びた。統一型三百リットル増倉を装備すれば更に四百海里増えた。
ただこの大容量胴体タンクは三個に分かれており重心から離れている二個は残量の多い少ないで操縦性に影響が出た。
後の運用では、迎撃戦闘時は使用しないことになった。主翼外翼部燃料タンクも迎撃時は使用しないとされた。これは消火装置しか無いからである。
機体重量の増加により、離発着速度が上がっている。離着陸距離も伸びた。これには二段スロッテッドフラップや主翼前縁スラットの装備も考えられたが見送られた。前縁スラットは構造も簡単なので付けたかったが主翼外翼部燃料タンクを減らすことになるので付けられなかった。
試験機は飛行試験を順調に消化している。
発動機の審査が終わり制式化されたのは十八年初秋だった。審査期間が異常に短いが戦時の特例だった。
同時に零戦七十五型として制式化された。
零式艦上戦闘機七十五型 A6M9
最高速度 三百三十ノット(610km/h)高度六千メートル
航続距離 八百海里 (1480km)
+四百海里 (740km)300リットル増槽装備時
ただし、迎撃戦闘時六百海里 (1100km)
上昇力 高度六千メートルまで六分二〇秒
発動機
風星 統一名称ハ-47 (日本海機械工業)
離床出力一千七百馬力
一速公称出力 一千六百五十馬力/三千メートル
二速公称出力 一千五百二十馬力/六千二百メートル
武装
ホ-103 主翼二丁 装弾数 200発
九九式二号二型 主翼二丁 装弾数 125発
爆弾等
六番二発または三番二発、主翼
二五番 胴体
機体外寸はプロペラの大容量化に伴うガバナーの大型化に従いスピナーも大型化して8センチ伸びた。
スピナー不要論も有ったが、有った方が空気抵抗が少ないし第一見栄えが良いというしょうもない理由で廃止はされなかった。
他は変わらない。
エンジンカウリングは空気取り入れ量を増やすため開口部が大きくなった。
自重は発動機重量の増加、胴体内燃料タンクの重量化、機体各部の構造強化と防弾強化に伴う重量増などで遂に2350kgまで増えた。
この重量増加は発動機出力の向上で吸収された。
アクリル成形技術の向上で窓枠が減り視界が更に良くなった。
油圧ポンプが強力になっており、主脚の収容時間が短縮された。
胴体銃廃止に伴う整備性の簡易化は、気筒数の増加による煩雑化で取り消された。
燃料タンク切り替えコックが増え、不評であった。
光像式照準器にジャイロからの信号を取り入れGが掛かっている状態でも照準環が動き狙いを付けやすいようになった。大雑把な目安であったが、これにより無駄弾を撃つことが減ったらしい。
この七十五型の採用で紫電には航続距離以外全ての性能で上回り、紫電不要論が出て川西は独自に進めていた低翼化を加速するのであった。
既に機体側の治具類の製作は終わっている。住友金属もいつでも新部材の量産供給を開始できるという。
三菱側にも同意を得られた。三菱でも生産する事態になった。中島での零戦生産は終了する事になる。
これにより栄の生産は大幅に絞られ誉の生産に更に余裕が出来る。
海軍から生産開始の指示が出た。型番は七十五型だ。三菱で五十三型・六十三型・六十四型の試作があったために型番は飛んでいる。
本格的な製造開始は十八年秋だった。制式化以前から少量の試験生産は始まっている。これは海軍がF6Fに対抗出来る戦闘機の生産を急いだためだった。
これにより制式化以前の機体が七十五型、制式化以降の機体を七十五型甲として区別している。
紫電不要になりました。と言う事はN1K2-Jの登場が早くなります。出るとは言っていない。
雷電も振動問題はかなり小さくなりますし、次話では強力装備を付けた機体が活躍します。雰囲気だけ。