素敵な日曜日
とある男がいた。
彼の生活は順風満帆と言って差し支えないものだった。中学生までは地元の公立学校に通っていた。幼いころから所属していたスイミングスクールのおかげで身体も立派なものだった。ずっと健康で大きな病や怪我の経験もなかった。高校は彼が現実的に通学できる距離にある範囲で最も学力の高いところに合格した。そこに通い始める。第二学年が始まると同時に彼はアメリカのカリフォルニアにあるハイスクールに留学する。そこで彼は日本人が現在、世界でどのような目で見られているのかを認識する。英語が堪能になる。韓国人の女の子と恋人になる。別れる。本物の拳銃を握る。試し撃ちをして、ピストルというものの破壊力を知る。同性愛者のクラスメイトに告白される。断る。そのクラスメイトの殺されそうになるが間一髪で助かる。クラスメイトはどこかへ行って二度と彼の前には現れなくなる。知見を広げて、彼は日本に戻って来る。学年は三年生になる。留学をしていたという事実が周囲の人間に彼を尊敬させた。彼に頼れば、事がうまく運ぶと思われた。実際そうだった。彼は周囲の期待以上の業績の残してゆく。学校の知名度を大きく上げた。弁論大会で彼がとても優秀な成績を残したことが所属する学校に恩恵を与えたのだ。高校を卒業してから再びアメリカに向かって有名な大学の法学部に入る。そこでもうまくやっていって今度は黒人の女の子と付き合い始める。その女の子との関係を続けながら大学を卒業してロースクールに入る。弁護士の資格を手に入れてロースクール出てから、大手の法律事務所に就職する。就職を機会に黒人の女の子と結婚する。アメリカ国籍を取る(アメリカ人となることを事務所に要求されたのである。彼は国籍に執着はなかった)。
彼は自分が世界中のどんな人間に比べてもかなりうまくやれている自信があった。そしてその自覚が慢心や油断に繋がることはなかった。あらゆる類の事故を回避してきた。仕事でヘマをすることもなかった。付き合う人間はちゃんと選んだし、敵を作らないように努めていた。仕方なく対立が生まれても、彼はいつも通りにうまくやって、やり過ごした。彼に関わって損をしたのは、民事裁判で彼の担当する側の者と争っていた相手方の顧客だけだった。
五年間、同じ事務所に所属して、そして彼は六年目の初めにそこを去った。独立することを選んだのだ。彼は彼の妻を秘書として二人で活動を始めた。これまでの彼の弁護士としての業績は、独立してからも彼の役に立った。彼の評判を聞きつけた人間が彼の事務所に駆け込んだ。元いた事務所から、手が回らない仕事を回してもらったりして、仕事がなくて困ることはなかった。すぐに彼の事務所は大きくなった。妻の代わりに、彼と同じ大学を卒業した白人の女の子を事務員として雇った。また、ロースクールを出たばかりの、こちらも白人の青年を部下として迎え入れた。気が利かない男だったが、一年間、彼が上司として指導しつづけ、法実務に関して、歳にしてはかなりの実力があるといえるレベルにまで青年は成長した。
彼の事務所が地元紙に広告をうてるくらいに大きくなったとき、とある男がやってきた。
南アフリカ共和国からやってきたと男は言った。背の高い、面長の黒人だった。身に纏うスーツは値の張るブランドものだったから、受付をした事務の女の子は黒人はおそらく、会社経営者の類だと推理した。実際、彼はそう言った。南アフリカを中心に、魚の輸出をしている小さな会社を経営していると。
その黒人の相手をしたのは、部下の青年だった。既に彼は大抵の案件を自分一人で処理できるほどの実力を持っていて、実際に彼一人で裁判を受け持つことは少なくなかった。
黒人の男が言った。
「こちらの代表は日本人の方だと伺ったのですが」
青年は答えた。
「ええ。正確には彼はアメリカ国民ですが、学校を卒業するまでは日本国籍だったと聞いています。彼は今日、外出しています。帰って来るのは、かなり遅い時間になりますよ」
黒人は特に表情を変えずに言った。
「そちらの方に、ご相談したいのですが」
青年は少しだけ、黒人に聞こえないくらい小さく、のどの奥で唸った。
「ですから、今は居りません。なので、まずは私がお話を伺います。もし彼の直接の担当をご希望なら、彼にそうお伝えしますよ」
仕事中は誰に何を言われても感情的になるな、というのが青年が上司によく言われていた言葉だった。彼は、それを遂行していた。
黒人は言った。
「日本人の方に会えないなら、いい。また来る」
そして黒人は去って行った。事務所が入っているビルの二階の窓から、青年は黒人が出ていくの見張った。黒人がビルから出て、タクシーの乗ったのを確認したあと、よその人間が周囲にいないことも確認して、「糞!」と怒鳴った。それを聞いていた事務の女の子が「怒鳴らないでよ!」と怒鳴った。
青年は黒人の男との一件をメールで上司に報告した。元日本人の彼が帰ってきたら、改めて詳細に、どんな男が何をして帰って行ったかを説明するつもりだった。
青年の予想よりも早くに上司は帰ってきた。彼は青年の顔を見ると同時に「メールを見たよ」と話を切り出した。
青年の説明を聞いて、上司は言った。
「それで、帰って行った?」
青年は答えた。
「そうです。失礼な男ですよ。あれが南ア流なんですかね」
上司は言った。
「よくわからないが、とにかく、次は私が相手をするよ。それと、君、少し熱くなりすぎだ。政治家の演説みたいだった」
青年は言った。
「よほど心に響いたらしい」
上司は笑って言った。
「ひどく恣意的な弁だったよ」
翌日、面長の黒人はまたやってきた。今度は上司がいたので、彼が事務の女の子からそのまま引き継いだ。応接間に入ってゆく上司と黒人の背を見届けてから、青年は事務員に話しかけた。
「君はどう思う」
事務員は尋ねた。
「ボスのタイの柄のこと?」
「おい、そんな気分じゃないだよ」
「………あの黒人の方のことよね?別に、ただお金持ってそうだなとしか、思わないけど」
「君はなにか、言われなかったのか」
「なにかって、特に何も」
「そうか、いや、やっぱり僕は、なんだかいけ好かないね」
「黒人だから?」
「そんなんじゃない。僕だって州の中なら上から十番目に入るくらいやり手の弁護士なんだ。それをあんな扱いにするなんて、よほどの田舎モンだよ」
「同じ事をボスに言ってみなさいよ。きっと素敵な冗談が返ってくるわ」
「え?どういう意味?」
事務員は答えなかった。
しばらくして、応接間から二人が出てきた。黒人の方は意気揚々とした足取りで事務所から出てゆく。 黄色人種の方は青ざめていて虚ろに二人の部下を見ていた。
青年が言った。
「どうされました。すごく疲れた感じですけど」
事務員は普段見ることのない雇い主の弱気な表情に、驚いて何も言えない。
黄色人種の男は言った。
「今日で、看板を下ろす。君たちには迷惑をかけるが、ちゃんと、次の働き口を紹介する。突然で、すまない」
二人はただ、彼らの上司を見つめていた。いつも冷静な彼から、詳細な説明があると、信じていたからだ。だが上司はふらりと事務所から出ていって、その日は戻って来なかった。
青年は何度も連絡をとろうとしたが、彼に繋がることはなかった。
後日、青年の下に電話が入った。州で一番有名な法律事務所からの、採用が認められたとの連絡だった。青年はそもそも申し込んですらいなかったが、既に元の事務所は事実上、廃業状態にあったからそれを受け入れた。待遇もかなりよかった。電話の終りに、あの上司について尋ねたが、電話をよこした人間はただの事務員に過ぎず、彼のことを知らなかった。
元事務員の女の子に尋ねてみたところ、やはり同じようなことが起きたらしい。彼女もあの上司とは連絡が取れないままのようだった。
青年は新たな職場で元上司について尋ねてまわったが、誰も彼のことを知らなかった。
彼のことを知らないなら、どうして僕がここにやってきたというんですか、と青年が言うと、不思議な顔をされた。まともな返事は返って来なかった。
青年は、もう、あの優秀な上司のことを忘れることにした。どこを訪ねても、彼にはたどり着けなかったからだ。何度か食事に招かれた彼の家には、別の人間が住んでいた。
そんな出来事から、数十年が経った。青年はベテラン弁護士として、事務所の中で活躍していた。事務員の女の子は彼とは別の法律事務所に就職して、そこの弁護士のうちの一人と結婚して、そのあとカナダに移住した。それ以来、彼は彼女に会っていない。
彼は独立して、小さな事務所を構えた。あの、元日本人の男が経営していた事務所と同じ住所に。不気味な因縁を感じたが、条件がとてもよかったので、彼はそこに決めた。大学を卒業したての白人の青年を一人と、自分より少し年下の(といっても四十を過ぎている)弁護士資格を持つアジア系の女性を雇った。かつての上司ほどうまくはやれなかったが、それでも、毎月二人分の給料を出して、事務所のための金を残して、更に自分には雇われ時代の二〇〇%分の収入を確保できた。十分な成功だと彼は思った。
あるとき、彼が休業日に犬の散歩をしていると、突然、犬が倒れた。彼は愛犬のそばに屈んで、その頬を叩いた。反応はない。犬は赤い泡を口から噴き出していた。彼は犬を抱えて、動物病院に駆け込んだ。 彼がやってきた動物病院は既に患者でいっぱいだった。しかし受付で急患であること告げ、犬の様子を見せると優先して彼の犬を診てくれた。
獣医は若い白人の女だった。彼女は犬の様子を見て、眉をひそめた。そしてすぐさま犬の顎を掴んで口の中を覗き込んだ後、素手でその中に手を突っ込んだ。彼は唖然として獣医の治療を見ていた。手を突っ込んで、数秒というところで彼女は手を引き抜いた。犬の血と唾液でべとべとの手には、握りこぶしより少し小さいくらいの石ころが握られていた。
彼女は汚れた石を診察台の上において、犬に直接、人工呼吸を始めた。数回呼吸を吹き込むと、今度は寝ころんだ犬の肩の下あたりに両手を合わせ心臓マッサージを始める。そういう作業が二回、繰り返されたところで、愛犬は息を吹き返した。犬の口からはまだ、血と唾液が混ざった汁がぽたぽたと垂れ落ちていた。
獣医曰く、この石の誤飲が直接の原因だということだった。石はまさしく、ただの石だった。彼が後日、 改めて散歩のルートを一人で歩いてみると、同じ様なものがいくつも転がっていた。ただなぜ、彼の犬がそんなものを飲み込んだのか、誰にも分らなかった。彼の犬はかなり賢い犬種だったし、それに見合うよう、彼自身も、然るべき調教を犬に与えていたから、拾い食いを、ましてや、石ころを飲み込むなんてとても信じきれなかった。
ただ事実として、石が犬の体内から出てくるところを見た以上、犬が石を飲み込んだという現実を受け入れることしか、彼にはできなかった。
犬が倒れた日から半年後に、犬は死んだ。飼い主が朝起きると犬はもう床にひっくり返っていて冷たくなっていた。飼い主の男は独り身だったからとても悲しんだ。もう既に彼は天涯孤独の身であった。親も死んでいた。兄弟姉妹はいなかった。他の親戚も、大学を出て以来、会っていない。どこにいるのかさえ分からない。最後の家族を失った彼は、もはや弁護士として、法律を矛にしのぎを削りあう精神力を持ち合わせていなかった。起き抜けに犬の死体を確認した彼は、部下のアジア系の女に電話を入れて、出社を拒んだ。適当な言い訳をした。女は彼が、わざと休もうとしていることに気付いていたが、その日は特に事務所の代表としての彼が必要になる予定はなかったので、彼の申し出を受け入れた。
それから彼は、犬の死体をボストンバッグに詰め、それを駐車場に止めてある彼のフォード・マスタングの後部座席に放り込んだ。パジャマのまま、財布だけを持ってマスタングを走らせた。涙を流しながら、運転を続けた。
半日車を走らせて、彼はカナダとの国境線のあたりまで来た。国境のゲートが近づくことを示す看板が見えた。彼はアクセルを踏んだ。すぐさまエンジンが悲鳴を上げ始める。ギアを上げた。ゲートが完全に見えたあたりからマスタングはトップギアでタイヤを回転させ始めた。
何台かの車が、マスタングより先にゲートで並んでいる。ゲートの受付窓口はアメリカ側には三つあった。そのうちの二つに車が並んでいて、残りの一つは「休止中」と書かれ看板とオレンジ色のコーンで塞がれていた。彼はその窓口に狙いをつける。
コーンと看板をふっ飛ばしてマスタングはカナダに入国した。ゲートを過ぎ去るとすぐに背後から警報が聞こえた。彼はお構いなしにカナダを北上し始めた。
彼は思った。そうだ、愛犬の亡骸はナイアガラの滝に投げ捨てよう。彼のマスタングをカナダのパトカーが追っている。彼らに捕まるのはその後がいい。彼は向かった。
当然、彼はナイアガラには行けなかった。彼のマスタングが向かう先には既にカナダ警察が、パトカーでバリケードを組んでいたのだ。マスタングは時速二〇〇㎞近い速度でパトカーの横っ腹に突っ込んで、停止した。ショックの瞬間、彼は胸をハンドルに強くぶつけたが、意識を失うことはなかった。すぐさまカナダの警官隊が彼の車を取り囲んで、そこから彼を引きずり出した。
彼は自分に手錠をかけようとした警官に尋ねた。
「私は、刑務所にいくのでしょうか」
警官は答えた。
「さあな、それを決めるのは裁判所だ」
弁護士の男はその警官に言った。
「私の車の後部座席に、ボストンバッグがあります。なかには、犬の死体が入っています。私の愛犬です。ゴールデンレトリバーです。名前はジョージ。彼を、ナイアガラの滝に投げ捨てようとしたのです。私はなんとしてでも、それを成し遂げたい。だから、見逃してください」
警官は仲間に後部座席を確認するよう指示した。そのあと、弁護士の男に言った。
「見逃すわけにはいかない。あんたのせいで、アメリカ人が二十四人、入国管理ゲートでストップさせられてるんだ。それに俺は、あんたがテロリストの類なんじゃないかと疑っている」
警官は、四十過ぎの中年白人がテロリストだと本気で思っているわけではなかった。テロリストがみなこうも愚かだったらなぁ、とは本気で思っていた。
「では、私の代わりにジョージをナイアガラへ」弁護士が言った。
警官は何も答えなかった。
弁護士が逮捕された週の日曜日、彼を取り押さえた警官はボストンバックを抱えて、ナイアガラの滝のほとりに立っていた。早朝である。転落防止の柵を乗り越えて、滝つぼをぎりぎりの位置で覗き込めるところで彼は立っていた。
彼に声がかけられた。
「君はなぜ、あの男の頼みを聞くんだ」
彼が振り向くとそこには、面長の黒人が立っていた。いいスーツを着ていた。非番の警官は、その黒人は弁護士だろうと、勝手に思った。
警官ははじめ、自分がこんなところに立つ言い訳しようと思った。適当な嘘をついて。だが、警官の自分が謎のアメリカ人の頼みを聞いて、犬の死体をナイアガラの滝つぼへ投げ捨てようとしていることが既に、荒唐無稽で無意味な冗談に思えたので、嘘をつくのを止めた。それに、なぜかこの黒人の男はすべての事情を知っているような気がしたから、そのまま、思ったことを言った。
「あの男は、アメリカで弁護士をしていた。とても優秀な弁護士だったらしい。大学もかなりのところだ。あの年まで、ああやって、いわばエリートな人生を歩んできた人間が、愛犬の死体の処理一つであそこまで暴走したんだ。たぶん彼はもう、弁護士として裁判のために法律書を開くことはないだろう。これからは司法試験の塾講師にでもなるんじゃないかな。収入は十分の一以下になるだろうな。人生の、一つの成功の道から、彼は自分で飛び降りたんだ。そこまでして、彼は、犬をナイアガラに捨てたかったんだよ。いくら話を聞いても、それしか言わない。医者に見せても、別段精神に異常をきたしているわけではないらしい。薬の反応もない。ただ、犬をナイアガラに捨てたがっているだけだった。だから、俺は彼の願いをかなえてやろうと思ったんだ。あの男が若いヤク中だったり、自分に酔った高校生だったりしたら、絶対に俺はこんなことはしないよ。エリートで、金持ちの弁護士がそれを捨てて、やろうとしたことだから、俺は手伝うんだ」
警官の言葉を受けて、黒人は頷いた。
それきり、黒人は何も言わずただ警官を見ていただけだったので、警官がボストンバッグを両手で抱えた。そして、掛け声も、予備動作もなく、滝つぼに落とした。
犬の死体は滝つぼに吸い込まれていった。