過去話
病院はタクシーで20分ほど少し街に向かった所にあった。
なるほどここら辺りではかなり大きい病院のようである。
受付でせわしなく動く看護師の一人に声をかけた。
「すみません、浜見良子の親族のものですが、病室を教えて頂けますか?」
50歳くらいの細身の女性看護師は親切そうな笑顔を向け、ペンを胸元から取り出す。
「はい、お名前をおきかせいただけますか?」
「広瀬ハルトです。」
看護師は簡単にメモを取り、病室を教えてくれた。
「教えてくれないかと思ったわ。」
エレベーターのドアが閉まると塩見が言った。
「ゆるくて助かったな。てか、本当にここに入院してたなんて。」
こんな時いくつも病院が点在する大都市とは違う事に驚く。
教えられた病室の前に立つと入り口の前に「浜見良子」と名札が入っている。
この扉の向こうに母がいる。
緊張しながら扉に手をかけたところで、誰かがこちらを見ていることに気が付いた。
40代後半くらいか、まとめた髪に質素な出で立ちの女性だった。
手を止めて振り向くと会釈されたのでこちらも会釈を返した。
「この部屋は妹だけですけど、お知り合いですか?」
若い知り合いに驚いた様子で俺らを見たが、何かを感じ取ったのか息を飲んだ。
「…まさか…ハルちゃん?」
「…。」
俺が答えられないでいると女性は口元を覆って続けた。
「妹に会いにいてくれたの?まぁ…良子喜ぶわ。ずっと会いたがっとったからね…。よく来てくれたねえ…。」
目を潤ませて女性がそう言ったが、部屋に入ることは促してくれなかった。
代わりに病院の中にある休憩場所に連れて行かれた。
「良子は今寝たばっかりだからね。鎮静剤を打って。顔見てやるのはちょっと待ってね。元気してた?やっぱり面影があるねぇ。」
母の姉は親しげな笑顔を浮かべて言った。
「はい、ご挨拶が遅れてすみません。息子のハルトです。こちらは友達の塩見さんです。」
塩見が頭を下げる。
「良子の姉の咲子です。ハルちゃんのおばさんよ。小さかったから、おぼえてないよね。私は覚えてる。良子もハルちゃんの話をよくしてたしね。けど、よくここが判ったね。誰かに聞いて来たの?」
「一度家まで行ったんです。手紙の住所で書かれていたので。」
バックパックからシワの入った封筒を取り出す。
「良子、こんなもの書いてのねえ。知らなかったわ。」
「あの…母は何故入院してるんでしょうか。それに、鎮静剤って…。」
そう聞くと、咲子おばさんは少し困った顔をした。
ガラス張りになった中庭に面した椅子に座り咲子おばさんは話してくれた。
「ハルトくんにはちょっとショックかもしれないんだけど…。」
言葉を選びながら咲子おばさんが話してくれた内容はこうだった。
咲子おばさんの子供は大学でそばにいないし、母は一人暮らし。
両親もすでに他界しているとあって二人は毎日のように連絡を取り合っていたらしい。
おばさんの言葉を借りると「生存確認」だったと言う。
母は精神的に不安定な状態が長年続いており、目が離せなかったらしいのだ。
ここ数日は安定した毎日を送っていたのだが、その日は突然泣きながら電話をかけてきた。
聞けば電話口で泣きじゃくるばかりで要領を得ないが、薬を飲んでおり、意識が朦朧とし始めている状態らしかった。
慌てて自宅に駆けつけ救急車を呼び、胃洗浄を行い、事なきを得た。
入院してからは抜け殻のように座っているかと思うと突然錯乱するなどして鎮静剤を使うこともあるのだという。
あの手紙はそんな苦しみの中で書いた、母の心の叫びだったのかもしれない。
「良子は真面目だったからね…。ハルちゃんの育児にしても、そりゃあ必死よ。まあ、あんな事があったけど…。」
そう言ってチラリと塩見の方を見た。
「彼女には話してありますから、俺が虐待されたことも…。」
「虐待なんて、とんでもない!」
咲子おばさんは慌てたように言った。
「ハルちゃんの事が好きすぎただけ、咲子は必死にハルちゃんを…。どうか誤解しないであげて…。」
つらそうに話す咲子おばさんは嘘をついているようには見えなかった。
少し、自分の心が楽になるのがわかる。
「あの子ね、結婚してから流産してるの…3回も…。」
知らなかった。
「不育症…って言うのかな、先生にはそう言われて突き放された、って…。不妊とは違うらしいけど、苦しむことに変わりはない。その度にかなり精神的にも肉体的にも辛い思いをしてた…。」
塩見が辛そうな顔をして、話に聞き入る。
「泣いて暮らしたからね。ハルちゃんを授かって、無事に生まれたときには、宝物を扱うようにして育ててた。」
幸せに恍惚とするような表情で話す咲子おばさんの表情が突然曇った。
「それが、あんな事にまきこまれて…。」
父と結婚して都会に引っ越してしばらくして。
電車に乗っていた母は寝ていた俺を抱っこして座席に座っていたのだが、目の前の乗客が「痴漢だ」と言い合いを始めた。
会社員の男一人に対し、カップルと思しき男女二人が「痴漢行為を働いた」詰め寄る中、一部始終を目撃したと思われる母は会社員の男性に一緒に下車するように懇願された。
母自身が「行為を見ていない」と繰り返しても女性は納得せず、無理やり事務所に連れて行こうとした男性が会社員ともみ合いになったのだそうだ。
興奮した男性はナイフを取り出し、母の前で会社員を刺した。
会社員が倒れ、とめどなく血が流れてゆく様をただ茫然と眺め叫ぶことしかできなかった母は、それから起こるすべての事や周りの物を怖がるようになった。
幸いにも会社員は一命をとりとめたが、その後の新聞の報道で、この事件は女性が男性の気を引きたくて、手が触れたことを大袈裟に責め立てていたのだという事が判った。
事件が問題となり、長く報道されたことで母の心からこの出来事が消えることが無かったという。
結婚してから見知らぬ土地で父とマンションに暮らしていた母は引きこもりに近い状態だったのではないかと咲子おばさんは言った。
やがて俺が成長し、何もかもを必要以上に心配する母は幼稚園のママ友とも価値観がズレてゆくことになる。
世間の厳しい目と、外が恐ろしい母はその軋轢から俺を完璧に育て上げなければいけない、と強迫観念をいだき始めた。
もともと神経質だった母の精神状態は次々に起こる環境の変化と人間関係のストレスに限界だったのだ。
自分が甘えられる存在であった祖母が亡くなり、心が折れたに違いない。
広島の実家で、葬式のあと自分の息子を橋から突き落としたのだ。
「だからって…ヒドイ…。」
それまで黙っていた塩見がつぶやくように言った。
「私はまだ子供は産んだこともないしわからないけど、ハルトくんは、何も悪いことしてないのに…!」
顔を覆った塩見に、咲子おばさんは何も言わなかった。
「咲子おばさん、それでも俺は母さんに会いたい。いいかな。」
塩見が少し驚いたように俺を見る。
「もちろん。ハルちゃんのおかあさんだもんね。…ただ、今日はさっきも言ったように鎮静剤のせいで眠ってるからねえ。いったん戻ってまた来ようか。」
「はい。お願いします。」
俺たちはいったん咲子おばさんの車で一時間ほどかけておばさんの自宅に向かった。
咲子おばさんの旦那さんも快く迎え入れてくれる。
何故か笑顔が咲子おばさんに似ているが、夫婦が似るというのは本当なんだろうか。
「良う来たね。むさ苦しいところじゃけど、ゆっくりしてって。」
「ありがとうございます。突然すみません。」
広い一軒家。
開放的に開け放した縁側に、暑さを和らげてくれそうな大きな木がたくさん生えた広い庭が俺たちを驚かせた。
「荷物、出しなさい。洗っといてあげるから。」
正直助かった。
お金もないのに塩見に服を貢いでばかりいられない。
その間に晩御飯の食材を買い出しにゆく事になった。
「今晩はどこに泊まるの。」
車の運転をしながら咲子おばさんが聞いた。
「決まってません。なんとでもなると思って出てきたので…。」
そう、一人旅ならな。
「じゃあうちに泊まったらええよ。二階は誰もおらんからね。」
「いいんですか?」
塩見と声を揃えて聞いてしまう。
突然で、しかも女連れで…。
すると咲子おばさんは声を出して笑った。
「ハルちゃんらは雰囲気がいいねえ。やましい空気が全然ない、気持ちのいいカップルだわ。ホント。」
カップル…って…。
そもそもそんな関係じゃねーし…。
俺が面食らっていると塩見がしゃしゃり出た。
「やっぱり?!そう思いますか?そうですよね〜!」
おいおい、既成事実を作ろうとするんじゃない。
無理やり新幹線に乗り込んでいたことを暴露してやろうか。
俺の気持ちをよそに二人で盛り上がるから恐ろしい。
二人の会話を聞きながら俺は風景を眺めていた。