歩き出すしかないだろう
父はその日もいつも通りの時間に玄関に立ち腕時計をはめた。
「出る時間だ。今夜は遅くなるから…そうか、ハルトも今夜は天文部の体験合宿で居ないんだったな。」
「うん。沢山星を見てくるよ。」
おそらく関西辺りでね。
「気をつけてな。」
なんてったって目的地まで800キロ以上あるしね。
「うん、父さんも。行ってらっしゃい。」
ドアが閉まると同時に笑いをこらえ切れなかった。
俺は今から旅に出る。
目的地は広島県府中市某所。
詳しい住所は密かに確保してある。
寺澤には母が生きていた事も話した。
殴られた記憶こそないが、優しくされた記憶もなく、橋から落とされた時期の記憶は全てボンヤリとしている。
今にして思うとネグレクトだったのかも知れない。
あの日、ファミレスで黙って聞いていた寺澤だったが、神妙な顔つきで了承してくれた。
「…お母さんのこと、恨んだりしてないのか?」
「俺の場合は執拗に殴られるような記憶は残ってないからな。全然…と言いたいところだけど、正直、実際に母にあってどんな気持ちになるのか想像がつかないん。何しろ10年以上会ってないし、あの頃どんなふうに接していたのかも、もう判らない。あの頃のことをどう思っていたのか、それも会って確認してみたい。」
「お前…変な気起こすんじゃないだろうな…。」
過保護な親の様に言うと合宿書類のコピーを一式渡してくれた。
「サンキュー、寺澤!」
そう、俺は母にこっそり会いに行くことを決めた。
おそらく父は反対するだろう。
受け取ると少しばかり小細工をした。
父に天文部合宿の素晴らしさを説き、印鑑をもらってから、数日後に寺澤の許可証コピーの名前を消してコピーする。
自分の名前に書き換えて、ありがちな担任の印鑑は100円で購入して押印し直した。
今まで反抗するでも無く、悪い遊びをするでもない真面目な息子の申し出を父は微塵も疑わなかった。
予め調べた経路で行けば一日で着くのは解っていたが、あえて中間地点で一泊する予定だ。
旅行感覚で行ったほうが今回の行動趣旨が重たくならなくていい。
母に会う事に若干の恐怖感があるが、俺は会うことを決意した。
会いたくない気持ちと会いたい気持ちが同居して迷ったが、この15年間「もしも母親が生きていたら」などと想像したこともある。
ひどい母親だとは思うが、父親と何不自由なく暮らした事で、それほどの苦労を感じなかった事が酷い恨みへの変換に繋がらなかった原因かもしれない。
父は違うようだが…。
「新しいセカイを〜…見届ける勇気を〜…♪」
計画実行の日、何かのCMで流れていた曲を口ずさみ、今の自分にピッタリだと思いながら朝食を用意した。
今日も暑くなりそうだ!
背伸びをしてから焼きあがったトーストにバターを塗り、ハチミツを垂らす。
冷たいミルクが喉に心地良い。
手持ちは10万円。
バイト禁止の学校に通う身としてはこれだけ貯めるのは中々骨だったが、こんな時のために使うのなら本望だ。
往復の交通費と二日分の宿泊費、食費…。
一日目に関西で少し豪華な産地のものを食べて広島に向かってもいい。
財布に携帯、充電器、それらをバックパックに詰め込む。
腕時計をはめて靴紐を強めに結び、10時過ぎに家を出た。
最寄りのバス停からバスに乗って20分揺られ、JRで35分。
相変わらずの人混みだが、夏休みに入っているせいか学生が多い。
窓口で行き先を聞かれ、少し迷ったが新大阪に決めた。
大阪なら美味しい晩御飯が食べられそうで楽しみだったからだ。
東京から新大阪まで3時間ほどかかる。
お昼ごはんは新幹線の中で食べる事になりそうだし…。
駅の売店でお弁当とお茶、スナックを買い込んだ。
トンネルに邪魔をされるとは言え、あえて雑誌は購入せずに景色を楽しむとしよう。
改札を通り、席を確保すると深々と座席に腰を掛けた。
初めての一人旅。
全ての景色が新鮮で美しく見えるから不思議だ。
お弁当を開けると、鮮やかに飾り切りされた根菜や、彩りよく並べられたフライ類、それだけでワクワクしてしまう、これが一人旅の醍醐味だ。
寺澤みたいに律儀に手を合わせて食材を口に運んでみる。
そう言えば寺澤も今頃は本物の天文学部の合宿に参加している頃だろうか。
あいつにはお土産を買おう、世話になったし。
ふと塩見の事も思い出した。
…あいつにも買うか…。
初めは発情期のメス猫などと言ってしまったが、考え方は単純で適当なのに、いやな感じがしない。
俺と正反対の思考は中々面白いし、悪いやつじゃない。
あんな子が彼女だったら毎日楽しいのかな…。
と、そこまで考えたところで我に返った。
ヤバイ、塩見の毒が回ってる。
思考を振り払い、食べ終わった弁当の容器を袋に戻しお茶を飲んだ。
近況報告として寺澤と携帯メールでやり取りをし、景色を眺めていたら眠ってしまっていたようだった。
目が覚めると新大阪に着くところだった。
最近暑くて寝不足だったしな。
涼しい新幹線の中で睡眠不足も解消し、スッキリした頭で荷物を片付ける。
ゴミを捨ててバックパックを肩にかけると新幹線を降りた。
改札前で切符を探していると関西弁が耳に飛び込んでくる。
一気に景色が変わったようだ。
大阪だー!
切符を探し出し、意気揚々と改札を出ようとしたとき、不意に呼び止められた。
「ハルト君!!」
はあ?!
振り返るとそこにいたのは…なんと、塩見だった。
キュロットスカートにタンクトップとふんわりした上着を羽織っている。
肩にかけたショルダーバッグは、とても遠出をするような出で立ちではない。
「なっ…な、何で塩見がここにいるんだよ!」
「待って、行かないで…、私っ…。」
一瞬口ごもり、塩見は思いって残りの言葉を口にした。
「お金がないのよ〜っ!」
聞いて呆れた。
俺が今日出ていくことは寺澤に聞いていたらしい。
寺澤は心配した様子で「広瀬が思い余って何をするか不安だ」てな話をしたらしい。
家の前でチャイムを押すかどうするか迷っていたところ俺が出てきたもんだから、慌てて後をつけたというのだ。
新幹線に乗ることがわかり、自分も入場券を買って新幹線に乗り込んだあとは、俺をマークしつつトイレに隠れながら3時間しのいだ。
「なにをやってるんだ!思いつきで行動するなよ!犯罪だろ?!」
「だ、だって、こんなに遠くまで来るなんて想像もしてなくて…。新幹線に乗り込むハルトくん見てたら、つい一緒に乗っちゃって…」
ヤバイ、塩見が泣きそうだ。
「心配でついてきたはいいけど、心細くてお金もないし、改札を出られたら、私一人だし…。」
とうとう涙がこぼれ始めて、俺は仕方なく塩見をなだめながら近くのベンチに座らせた。
「わかったから泣くなって。…けど、連れていけない。聞いてるかもしれないけど、俺は死んだと思ってた母親に会いに行くんだ。」
ちょっと格好つけて言ってみたが塩見は全く意に介さず、引き下がらなかった。
「会うときには隠れてるから!お願い、途中まででいいから!」
「無理だってば…。」
「だって、お金もないの、帰れない…。」
さめざめと泣くし…。
何だこいつ、本当に同級か?犬…とかじゃないのか?
「参考までに聞くけど、今いくら持ってんの…。」
しゃくりあげながら塩見は言った。
「うっ…うっ…9500円…。」
すでに足りてねえしっ!!
新幹線だけですでに15000円以上はかかった。
呆れた…。
もはや、無碍に追い返すわけにも行かないのか…。
泣き続ける塩見を駅員室に連れてゆき、二人で平謝りの上で料金を払わせ、残りは俺が出した。
必死になって謝り、事情を話して何とか放免されたが…。
どーすんだ、コレ…。
塩見が朝から何も食べていないと言うので改札を出てすぐある店でたこ焼きを買ってやったら、それは嬉しそうに食べた。
今も目の前で目を腫らしたまま、ハフハフと夢中でたこ焼きにパクついている。
「良かったぁ、一時はどうなることかと…。」
「お前なあ!他人事みたいに…」
「あ、ハルト君も食べる?」
「あぁ、うん…」
塩見が串に刺して差し出したたこ焼きをそのまま頬張った。
たこ焼きが熱くて続きが喋れない。
ありえなく、調子が狂う…。
「ハルトくん大阪ではどうやって過ごすつもりだったの?」
大きな目で俺をみつめて塩見が聞く。
「大阪城に行って見ようかと思って。あと、くいだおれか、アメ村とかUSJは一人で行ってもなんだしなあ…。無駄遣いもできないし…。」
「じゃ、くいだおれと、アメ村行こうよ!二人だし。」
いうが早いか立ち上がり「いこ!」と俺の手を引いた。
「おい、場所判るのかよ。」
「まさか。私は思い切りがいい、ハルト君は頭がいいから場所も完璧。最高の組み合わせでしょう?」
ダメだ、こいつの言いなりになったら二人で露頭に迷う…。
意を決して俺は携帯を取り出すと、仕方なく言った。
「アメ村は調べる、こんなところではぐれるなよ。」
俺たちは人混みの中を突っ切って歩きだした。