ちょっとした企み
夏休みの前日、終業式が済んで遊びに行くクラスメイトを尻目に俺はさっさと帰宅した。
病み上がりで暑くて疲れたと言うのもあるし、やはり奥村先生とニアミスしたくなかったのだ。
が、さすがにあのままでは良心が痛い。
熱に浮かされて寝ぼけていた、などと理由を並べて、詫びる手紙を保健室に置いて学校を出た。
情けないが、衝動的にあんなことをしてしまい、やはり後ろめたい気持ちが強い。
あんな犯罪のような事をしておいて虫がいい話だが、一刻も早く忘れてしまいたかった。
どこにもよらずに帰宅し、取り敢えずクーラーを入れて冷蔵庫を物色すると、焼きそばの残りを見つける事ができた。
少しでも横着をする為、左手に焼きそばの皿とマヨネーズを持ち、右手でグラスと水を持ってテーブルに向かう。
箸を忘れた、とハッと立ち止まったらマヨネーズが手から滑り落ちた。
マヨネーズはあろう事か、真っ直ぐに傍にあったゴミ箱の中に。
「げ、最悪…」
思わず独り言を呟き拾い出すと、結露し始めたマヨネーズの側面に紙切れが張り付いてきた。
その紙切れを見て、俺は心臓が止まるかと思った。
消え入るような細い字で書かれた言葉は「息子に会わせて」と書かれていた。
他は破られたのか文章が途切れている。
なんだこれ…
グラスと焼きそばを叩くように机に置くと、すぐさまゴミ箱をひっくり返し、震える指先でジグソーパズルさながら、細切れの紙切れを並べてゆく。
『ハルトは大きくなったのでしょうか。もう長いこと会っていませんが、元気でしょうか。返事だけでも良いから貰えませんか。私が悪かったことは重々承知していますが、どうか息子に会わせて貰えませんか。』
たったこれだけの文章だったが、震える文字が切実さを表しているようだった。
空腹は消し飛び、俺は何度もそれを読み返した。
封筒には『広島県府中市』の住所が記してある。
この家に「息子」と手紙を送る人…もしかして、母なのか?
思考が周り、しばらく立ち上がることができなかった。
ノロノロと立ち上がり、水を飲んだ。
少し落ち着きを取り戻し口に運んだ焼きそばには味が感じられなかった。
自身の部屋にいた俺は、父が仕事から帰ってきた気配を感じて、弾けるように飛び上がった。
「ただいま…」
疲れた声で小さくつぶやく父にテープで貼り合わせた手紙を見せた。
「父さん、これはどうゆう事だよ」
片手でネクタイを緩めながらちらりとそれに目をやり、一瞬動きを止めたのち、それが何だとでも言いたげにジロリと俺を見た。
その態度が癇に障る。
「お母さんは死んだって言ってたんじゃねーのかよっ!」
俺は手紙をテーブルに叩きつけた。
手がビリビリと痺れ、大声に窓が震えた。
声を荒らげる俺とは正反対に、父は落ち着き払って鞄を置くと椅子に腰掛けた。
「死んだも同然だ。あんな女は。」
あまりの言い草に言葉を失っていると、空を睨みつけたまま父は言葉を続けた。
「お前は小さかったから覚えてないだろうが、それでも自分のされたひどい仕打ちくらいは…」
「覚えてるよ。橋から突き落とされたことも、裸足で外に出されたことも!それでも母親なんだろ?!まだ生きてるんだろ?!」
「落ち着け!ハルト。」
父が厳しい声で俺を制した。
「あいつは今更になってしつこく手紙をよこすようになった。今まで俺がどんなに苦労して過ごしてきたか知りもしない。虫のいい話だ。」
吐き捨てるように言うと継ぎ接ぎだらけの手紙を手の中で丸めてごみ箱に投げつけた。
「俺が…会いたいって言ったら…?」
言うと父は嘲笑のような笑みを浮かべた。
「あんな母親にか?忘れろハルト。あいつは疫病神だ。お祖母さんの葬式の日のことを覚えてるか?あいつがお前を橋から突き落としたせいで、お前は怪我と低体温症で丸2日、生死の境を彷徨ったんだぞ。小さかったお前には母親は死んだ事にして離婚した。あのまま暮らしていればお前はいずれ殺されたはずだ。初めからいなかったと思うことだ。」
衝撃的な単語に言葉が出てこない。
それを納得と捉えたのか、父は椅子から立ち上がり「風呂にする」と出ていった。
頑固な父の事だ、言葉を撤回することはないだろう。
誰もいなくなった居間でため息をついた。
知ってしまった今、俺はこのまま母が死んだ事にして忘れて生きることが出来るのか?
心の中は千々に乱れていた。
学校もなくボンヤリと過ごして数日。
寺澤からの連絡があり、近所のファミレスで昼食を摂ることになった。
「鈴木さんとはどう?」
カルボナーラスパゲッティを口に運びながら聞いたが、寺澤は何か言い淀んでいる。
「フラレた?って言うか、そこまでの進展がなかったって言うか…。」
歯切れが悪く、ハンバーグをナイフで切りながら寺澤が困ったように話す。
「広瀬さ、高木って知ってるだろ?お前同じクラスだよなあ。」
高木の青白い顔が思い浮かぶ。
「うん、いつだったか保健室に運んだぜ?しょっちゅう保健室に行く奴だよ。」
「由里子ちゃんと高木は従兄妹らしいんだけどさ、…高木、病気らしいんだよ。」
「え…、重い病気なのか?」
「…勝手に言っていいかどうか判らないけどさ、一生その病気と付き合っていかなきゃいけないって。なかなか診断が出なくて辛い上に病院ジプシーで、かなり参ってたんだと。由里子ちゃんが言ってた。」
「そっか…」
仮病じゃないかみたいなこと言って悪かったな…。
「由里子ちゃんは違うって言いはるけど、高木のことかなり好きだな。献身的に支えて…そうだ、俺、高木の検査入院のお見舞いに行くからって、誘い断られたんだぜ?一緒にお見舞いにって話もしたのに。高木に誤解させたり心配させたくなかったんだな、って今は思う。入る余地なしだろ。」
「…マジだな。」
「うん、マジだよな…。」
ひとしきり沈黙が流れ、パスタを口に運んだ。
と、思い出したように寺澤が聞いてきた。
「里佳子ちゃんはどうなんだよ。」
「どーもなにも、別に…。性格が合うとも思わないしな。」
「ふーん…。お前ってさあ…」
「うん?」
「考え方が、モロに童貞だよなあ。」
「グッ!」
吹き出すかと思った。
公共の場で、日が高いうちから何を言うんだこいつは。
「格好いいしモテるのにもったいねー。相性語るのは寝てからでいんじゃね?里佳子ちゃんかわいいし。」
なにを生意気な…口を拭きながら軽蔑の眼差しを投げつけてやった。
「お前みたいに食い散らかす気はないっ。」
「あー!何言ってんだよ、こう見えて俺2人しかしてねーし。」
「あそ。」
中学3年生でそれは少ないのか?
「こう言っちゃあ何だけど、里佳子ちゃん後腐れなくさせてくれそーだけどな。」
寺澤はサイテーだな…が、塩見には悪いがその意見に反論する気はなかった。
「あぁ、そうかもな。俺があいつ初めて見た時も男と逢い引き中だったし。」
「マジか!里佳子ちゃんやるなあ。リードしてもらえよ〜。別に女のほうが初めてじゃなきゃ駄目って決まりはないぜ?興味ないわけじゃないんだろ?」
「ないわけ無いだろ…。」
大アリだ…。
不覚にも奥村先生を思い出して項垂れてしまった。
「なんだよ…。そんなに落ち込むなよ。里佳子ちゃんに振られたのか?」
「だから!告ってもねーし、振られねーよ!」
何だこの、なんか損した気分になる構図は…。
「そうだ、塩見が花火大会行こうって言ってたぜ?」
話を変えたくて言った。
「おお、いいな。由里子ちゃんは高木にご執心だし、誰かイイ子いないかなー。」
などと言いながら、珍しく自分にすぐ転ばない鈴木さんの事が気になって仕方ないのは、長年の付き合いからわかっている。
「天文部に誰かいないのか?」
寺澤は天文部に所属している。
俺と違ってちゃんとクラブ活動にも参加しているから偉い。
「いねーなー。かわいい子は全部男付きだし、ブスは性格悪いしなー。せっかくの合宿も盛り上がらねー。」
寺澤が容赦ない言葉で切り込む。
「合宿…それが目的か。」
思わず苦笑いをした。
と、ある事を思い出して俺は身を乗り出した。
「なあ、その合宿って何泊?いつ?」
「2泊3日。すぐだよ?親睦旅行も兼ねてるから楽しいけど、交通費を安く上げるとかで、超近場なんだよな…。」
「その合宿の申込書と許可証、コピーさせてもらっても良いか?」
「何で?」
「ちょっと別件で外泊したい用事があるんだ…。」
俺は思わずにやりと悪い顔で笑ってしてしまった。