トンボと彼女6
第六筆者:茎麻呂
じんじんと残る痛みを頬に抱えながら、逃げるように屋上への階段を上った。途中で何度か躓いたせいで、靴が傷だらけだ。もともと俺は運動が苦手というのもあって、屋上にたどり着く頃には心身ぼろぼろになっていた。
「来たね」
倒れこんでしまった俺が目を開けると、空中で彼女――有川伊織が浮遊していた。
「伊織、こうなること、分かってたろ」
「さぁて、ね」
「悪いが、今はお前に付き合う余裕がないんだ」
「わぉ、つれないねぇ。じゃあ、勉強ならいいでしょ?」
こほん、と咳払い。
「テストしてあげる。有川伊織は誰なのか、説明せよ」
どこまでもふざけた態度の伊織。まぁ、おかげで落ち着きを取り戻せた。
「……俺は、ずっと幻覚を見ていた。事実を受け止めることができずに」
秋風が涼しい屋上で、冷や汗がたらりと流れた。
真実は時に残酷だ。口に出すのも勇気が要る。でも、今更引き返せない。恐怖に押しつぶされそうになるのを必死に耐える。
「伊織……お前は、死んでるんだろ?」
「……」
「だけど、罪の重さに耐えきれなくなって、潜在意識が俺の記憶を引っ張りだした」
できれば、目覚めたくなかった。
現実は俺にとって地獄でしかないというのに。
いや、これは罰なのだろう。伊織自身が俺の業を暴いたのだから。
これは、彼女の呪いだ。
一生、苦しみを抱え続けろ。
伊織の声が頭の中で響いた気がした。
「違うか?」
俺の答えを聞いた彼女は、花が咲くように次第に唇をほころばせた。
そして、桜色の唇がゆっくりと開き――
「零点だよ、秋人くん」
……え?
違う?
冗談だろうと伊織を見ると、伊織は笑顔を浮かべたまま、首を横に振った。
「零点、っていうのは厳しすぎたかな。実際、秋人くんの答えは百点だったんだよ。でも、君が私に提出したテスト用紙には、名前が書いてなかったんだ」
言っている意味が分からない。
俺の名前が、書いていない?
「ねぇ、秋人くん。教えてよ。私が知らない、君のこと」
伊織が知らない、俺のこと。
アイスは抹茶味が好きなこと。
五百円貯金をしていること。
誰にも見せられない本を本棚の裏に隠してあること。
言う程でもないことや内緒にしていることはたくさんあるけど、彼女が言っていることは、そうではないはずだ。
きっと、伊織が死んだ後のことを言っている。
七色に輝いていた世界が一気に灰色になってしまった、君がいない世界のことを言っている。
「追加問題だよ、秋人君」
彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「君は誰なのか、説明せよ」
その問いに。
順を追って思いだそうとするけれど。
「――っ」
頭痛がする。
思いだしたくない。
思いだしてはいけない。
「せっかく追試してあげてるんだから、満点とってよね」
伊織は空中でくるくると前転していた。気楽なものだ。
「何やってんだ」
「いや、せっかく空飛べるなら、やれるだけのことはやっておこうと思って」
今度は逆さまになっている。
目の前の光景が未だ信じられない。人間が空を飛ぶだなんて。初めて伊織が空を飛ぶところを見た時は本当に驚いた。幻覚を見てるんじゃないかと自分自身を疑ったくらいだ。
人間が、空を飛ぶ。
あれ?
俺が幻覚を見ていたのは、伊織が空を飛ぶ前からだ。
なんで伊織は、急に空を飛びだした?
何がきっかけで、俺の幻覚が姿を変えた?
……。
「まさか」
自分の記憶の本棚から手当たり次第に情報を探る。
絶望。
落胆。
拒絶。
逃避。
そして、その先に見た唯一の希望。
すべてのピースが、パタパタと音を立ててはまっていく。
そして、出来上がった絵は。
空を自由に飛び回る、大きなトンボの絵だった。
「まさか」
もう一度呟く。そうせずにはいられなかった。
俺は自分の体を触る。いつもと何も変わらない。
「……ナルシストキャラに目覚めたの?」
「分かったよ、伊織」
「え?」
「たぶん、及第点だと思う」
「ほう」
伊織は地面に降り立ち、続きを促した。
「俺はあの日、トンボになりたかったんだ」
ほう、と彼女はにやりと笑った。
その反応で、俺は自分の答えが正しいことを悟った。
「して、その心は?
「空を飛んだ……いや、落ちたというべきか」
俺は一度深呼吸して、彼女の目を見据えた。
「俺は、死んだんだな」
あの日。
――有川伊織ちゃんは転校してしまいました。
女医の言葉を聞いた瞬間、俺は文字通り、空っぽになった。
何を見ても、聞いても、自分にとっては意味のないものとなった。
一日中自室にこもり、何もしない。部屋から出ることといえば、外に置かれたご飯を取る時とトイレに行く時だけ。
親や先生は何度か俺に何か呼びかけていた気がするが、内容が上手く伝わらない。
伊織。
俺が君を苦しめたのか。
俺が、君を追い詰めたのか。
俺が……
――稲葉。
伊織を、殺したのか。
――しっかりしろ!
目の前にいたのは、信じられないことに、伊織だった。部屋の扉は壊されていた。
伊織、と手を伸ばし、呼びかける。
やっぱり生きてたんだな。
――やっぱこんな府抜けたこと言ってんのか。私は姉ちゃんじゃなくて、妹の……
伊織の声とは若干違う気がしたが、俺に取ってはそんなこと、もうどうでも良かった。
なぁ、伊織。俺が、お前を殺したのかな。
伊織は黙った。それが俺をさらに罪悪感が追い詰めていく。
いじめの対象が切り替わるのが怖くて、なにもできなかった。
ごめん。ごめん、伊織。
――ざっ……けんじゃねぇぞ。
胸倉をつかまれる。目を血走り、歯を食いしばっている。彼女は手を思い切り振り上げ、しばらく動かなくなった後、力なく降ろした。
――人殺し。
その一言から先の記憶は曖昧だ。
俺にとっては、ある意味、救いの一言だった。
水で一杯になったコップがある。水は今にも溢れそうだ。そこに一滴、わずか一滴水の粒を落とすと、たちまち溢れ出てしまう。
ほんのわずかな一撃でも、タイミング次第でとどめをさすのに十分だということを、学校の屋上で実感していた。
伊織にとっても、そうだったのだろう。
俺の言葉が、最後の一滴になったのだ。
無意識のうちにここに来てしまったのは、やっぱり彼女との時間が本当に楽しかったからだ。我ながら女々しいとは思うが、最後なんだから神様、これくらいは許して下さい。
伊織、ごめん。
今、謝りに行く。
できれば、君ともう一度、やりなおせるなら。
目を閉じ、ゆっくりと、前に体重をかけていった。
一瞬の出来事なのに、永遠のように感じた。
瞼の裏で、今まで俺が集めてきた思い出がフラッシュバックして、ばらばらになっていく。
あぁ。走馬灯って、本当に見るものなんだな。
でも、今はそんなもの、見る気になれない。
俺は目を開ける。
その時、俺は見たのだ。
花壇の周りをぐるぐる回っている、一匹のとんぼを。
あぁ、そうか。思いだした。
俺は、自分のペースで浮くトンボになりたかったんじゃなかった。
どこへでも飛んでいけるトンボのような、君になりたかったんだよ、伊織。
「いやぁ、照れるね。まさか私になりたかったなんてさ」
伊織は再び浮遊している。逆さまになって俺の目をしげしげと眺めている。
「じゃあ私が今、飛んでいるのって……」
「俺の考えを具現化したものだろうな。お前は俺に取っての『トンボ』だったから」
「なるほど」
「ここはおそらく死後の世界。だからお前も今、ここにいる。死ぬ前まで見ていたのは幻覚で、今見ているのは幽霊とでもいっておこうか」
「幽霊、か」
まさか自分がねぇ、と感慨深げに呟いている。
で、感想は?
俺は挑戦的に伊織に笑いかけた。
「……」
「……」
静寂の時間。
先に動いたのは、伊織だった。
「……くっ」
え?
「くくっ、くっ……」
伊織、何で……
「……ぶはっ」
なんで笑ってるんだ?
「ごめんごめん、あまりにも君が得意げにどや顔してるからさ。吹きだしちゃったよ。どうせ『勝った』とか思ってるんでしょ」
そして、今度は伊織が挑戦的に俺に笑った。
「足りないよ、秋人君。推理が甘い。そんなんだからいつまでたっても四位なんだよ」
足りない……?
「死後の世界なら、おかしな存在が一人いるでしょ? 秋人君の思い描く理想の世界に、ヒビを入れてくれた人が」
「……三葉」
「そう。私の妹だよ。秋人君が死んでるとして、今更君を追い詰めて過去を思い出させるっていう、無意味な行動をするはずがない。でも、妹のおかげでこの世界の真実に気づけた。こんなことになったのは、なんでだと思う?」
そんな馬鹿な。
だったら、自分は、この世界にいることに少なからず、抵抗があるということになる。
「ほら、耳を澄まして」
そう言われ、俺は耳を傾ける。
――秋人、また逃げるのかよ!
――姉ちゃんの死から眼をそらすのかよ。
――そんなの許さねぇぞ。
――だから戻ってこい。死ぬんじゃねぇ!
「これは……」
「今、病室で、秋人君に必死に呼びかけてるんだよ。屋上から飛び降りた日から三日間、ずっとね。秋人君のお母さん、お父さんと一緒に。帰ってもいいっていってるのに、聞かないんだよ。あの子、一度やると決めたら絶対に貫き通す子だから」
「つまり、俺は……」
「そう。これが答え。秋人君は、まだ生きているんだよ」
その後、伊織はすべてを教えてくれた。
屋上から飛び降りた俺を見つけたのは、三葉らしい。発見が早かった為にすぐに病院に運ばれ、かろうじて一命は取り留めたものの、未だに目を覚まさないという。
後は、彼の生きる思いにかかっています。
医者のその言葉で、三葉は絶対に俺を死なせたりしないと心に誓った。
それは俺に対しての怒りか。
自分のせいで自殺したかもしれないという焦燥か。
「そうじゃなくて」
伊織は首を振った。
「ねぇ、分からない? 私が教えてあげよっか」
うるせぇ。四位なめんな。
「……本当に救いたいと思っていた、とか?」
「その通り。三葉はね、これ以上、大切な人に死んでほしくなかったんだよ」
「……」
「ねぇ、秋人君。私が死んだあと、三葉が君に会いに来た時、何て言ってた?」
「……人殺し、って」
「本当に、それだけだった?」
「え?」
「私、秋人君の記憶をすべて知ってるんだ。秋人君はあの時、絶望のあまり、三葉の言葉が局所的にしか伝わってなかったんだよ。本当は、こう言ってたよ」
人殺し……って、自分のことを罵るのは簡単だ。でも、その事実から逃げるな。思い出にとらわれるな。私の気持ちも考えないでそんなことするなら、お前を一生許さない。
「そん、な……」
「よくできた妹だよね。私が死んでも、自分を曲げなかった。誰に似たんだろ」
ふふっ、と嬉しそうに笑う。そして、俺に向き直った。
「で、これからどうするの?」
「……え?」
「ここに留まって理想に生きるか、ここから去って現実を見るか。もっとも、現実をどう生きるかは秋人君次第だけど。私は別に止めないよ」
伊織との時間が頭の中を巡る。
図書館では、なぜかこいつはいつも絡んできた。ウザくて、騒がしいやつだったけど、不思議と嫌じゃなかった。それどころか、伊織がいない日は、どことなく寂しさを覚えた。気が付けば、彼女の存在が、自分の心の支えになっていた。
伊織がいない現実に帰ると、俺はどうなってしまうのだろう。支えが無くなった俺の心は、脆くも崩れ去ってしまうのだろうか。
……それは違う。
今の俺には、二つの武器がある。
伊織がくれた、絶望を希望に変える思い出。
三葉がくれた、いかなる辛さにも抗う力。
それだけで、俺が進むべき道を照らしてくれる。たとえ今、闇に覆われて何も見えなかったとしても大丈夫だ。確証はないけど、そう信じることができた。
「……良かった。もう答えは決まってるか」
「せっかくお前が助けてくれたからな」
「そうだよ。既に死んだ人に心配させないでよ」
「悪ぃ。俺が馬鹿だった」
「私も、ごめん」
言葉の真意をつかめず、彼女の顔を見る。伊織は笑っているが、少しだけ寂しさが翳っていた。
「私があのタイミングで死んじゃったから、ここまで追い詰められたんだよね」
だから、わざわざ現実へ戻る手伝いをしてくれたのか。
彼女も彼女なりに責任を感じて反省していたのだ。
まったくもって、アホらしい反省だが。
「被害者が加害者に罪悪感覚えるんじゃねぇ」
「……はは、確かにその通りだ」
安心したように彼女は表情を崩した。
「生きたい、って強く願えば、すぐに戻れると思うよ。この世界も消える。私も消える」
「……そっか」
「ありがとね。秋人君の理想の世界も、結構楽しかったよ」
手を振って、最後まで明るくふるまう彼女。
俺は、口を開かずにはいられなかった。
「なあ、伊織」
「んー? なーにー?」
「俺たち、親友だよな」
俺の真意に気づき、伊織は含み笑いをした。
「……そだね、私たち小学校からずっと一緒だったよね」
「じゃあ一つ、聞いてもいいか?」
「うんいいよ、秋人君にだったら何でも教えてあげる」
伊織が空を飛んでから初めて交わした会話。
幻想が本物に変わった、運命の瞬間。
もう二度とかわすことのできない、懐かしい思い出。
こんなやり取りができるのもこれが最後だと思うと、心が突き刺されるような痛みに襲われる。
でも、俺は決して後悔することはないだろう。
たとえ君の居ない人生がどれほど退屈だとしても、君の記憶が景色に色を付けてくれるはずだから。
「お前……」
口を開き、言葉を紡いでいく。
その時間は永遠の様で。
俺は最後の言葉を伝えるのに必死で。
周りの音も、自分の声すらも、耳に届かなくて。
紡ぎ終えた言葉は伊織には予想外だったらしく、目を少しだけ見開く。口をぽかん、と開けたその顔はこの俺でさえ初めて見る顔だ。
初めてペースを奪えたな。
にっと笑って見せると、彼女は照れたように、寂しそうに、そして心から幸せそうに口元を緩ませ、「んなははははっ」と笑った。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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また次の作品でお会いいたしましょう。それでは!