トンボと彼女5
第五筆者:吾は藤
「んんっ! あー、静かに。今日はみんなに話がある。有川のことだ」
白髪混じりの初老男性が教壇に立つ。実験用の薬品に眠りを誘発させる成分でも含まれているのかと思うほど、いつも気だるげな理科担当教諭であった。こいつは簡単に「5」をくれるが、逆に言えば誰にでもくれるので、俺の中の競争欲を刺激してくれない。よって嫌いだ。
「既に話を聞いていたやつもいるかもしれんが」
窓の外を眺める。木枯らしが吹いていた。もうすぐ受験シーズン到来だ。インフルエンザ、嘔吐下痢、今年だけは避けてくれ。
「有川は亡くなった(転校した)」
風が窓をガタガタ揺らす。うるさい。遠くに飛行機雲が見えた。こんな田舎まで飛行機も飛んでくるのか。
「本当に残念に思う(家庭の事情だ)」
塾の課題やってなかったな、そういえば。まあいい、次の国語でどうせ時間が余る。その時にササっと終わらせよう。基礎的な問題だから、手を動かす作業にすぎない。正直、する価値もない。
「手紙や色紙を送りたい者がいれば、それは俺に預けてくれ。連絡先を知らせることは出来ない。すまない。では、今日の朝会は以上」
今週末は模試だったはず。伊織は来るのかな。あいつ、塾には入ってないけど、模試には来るからなあ。まあ、あのレベルになれば教えてもらうこともないし、自習する方が有意義か。
暇さえあれば勉強する受験生にとって、体育の時間とは唯一の安らぎである。運動が得意、不得意関係なく。
「伊織、卓球しようぜ」
ラケットを二つ手に持ち、ボールを取りながらそう声をかけた。返事はない。
「稲葉、独り言? やばくなーい……? マジ怖いから」
「ちょっと、やめなよ。伊織のこと知ってるでしょ? 」
俺の周りだけ、やけに閑散とした卓球場を見渡して、伊織を探す。どこにもいない。
「でもさー、正直さ、伊織が××してから、あいつらも大人しくなったし! なんかちょっと落ち着いてるんだよねー、アタシ」
「そういうのやめなよぉ、それにー、次のターゲットとか選んでるだけかもよ」
「そうだよー。それにあいつらも学校来てないじゃん、また来たらこんな平和もうないって! 」
「いやあ、人×しといてまだ続けるとか、正気の沙汰じゃないでしょ」
「正気の沙汰じゃないからできるんだって! 」
猿山の絶叫がこだまする。教師がホイッスルを吹いて、注意した。指導する体でしかないことは、そこにいる誰もが分かっていた。
「稲葉くん、伊織ちゃんのこと、残念だったわね」
天井と見つめあう。ここの枕は固くて苦手だ。病院の匂いも。俺は早く帰って勉強しないといけないんだ。伊織と一緒に合格したいんだ。こんなところにいる暇はない。
「少しあなたの話を聞かせてもらえない? 伊織ちゃんに関係ないことでもいいの」
女医は足を組みなおすと、シャープペンシルを二回ノックして、紙に何か書いていた。
「今日は学校で何をしたの? 」
「……塾の、課題をして。体育で……卓球をしました」
「誰と? 」
「有川伊織です」
「そう」
表情を崩すことなく、また紙に何か書きつけている。帰りたい。今日は数学のやり直しと、英語の過去問を解く日と決めている。
「有川伊織ちゃんは、どんな様子だった? 」
「別に、いつもと変わりません……」
「いつもとは? 」
「天真爛漫で、頭が良くて、明朗闊達な……俺によくなついている女の子です。今日もずっと、んなはははっ、なんて、変な声で笑っていました」
「あなたは、稲葉秋人くんは、どういう人なの? 改めて自己紹介するつもりで頼むわ」
「俺は……伊織の幼馴染です。友達も伊織くらいしかいないけど……まあまあ、生活には充実していて。趣味は読書で……。伊織と同じ高校に通うつもりです。合格したいなあ」
色々質問に答えたせいか喉が渇いた。普段口を開く機会なんて、家族か伊織といるときくらいしかない。
「稲葉くんは伊織ちゃんが好き? 」
「…………」
無神経な質問だ。気分を害した。答えたくない。第一、俺のことばかり聞きたがりやがって。もう少し自分の話もしたらどうなんだ。お前は何者で、なぜ俺のことを知りたがる。うざい。うざいうざい。うざい!
「稲葉くん、よく聞いて」
女医はベッドから垂れ下がった俺の手を握り、耳元で囁くように、脳髄に直接響かせるように、言葉を紡いだ。
「稲葉秋人くんは、有川伊織ちゃんが唯一の心の拠り所でした。信頼がおけるパートナー。自分の半身。そう思っていました。きっと伊織ちゃんも稲葉くんをそう思っていたと私は信じる」
こいつは一体何を話しているんだ? 宇宙語か?
「伊織ちゃんは中学校で一番頭が良くて、器用で、運動神経が良くて、美人だった」
何故伊織のことをこんなに詳細に知っている。気味が悪い。なんだこいつは。何が目的なんだ。
「でも、そんな伊織ちゃんを妬む子もいたの。しょうがない……って言うのもどうかと思うけど、その感情は人として当たり前に持っているものだと思う」
「なんですか、やめてください! 」
「ただね、普通の子は、ちゃんと制御できるの。大人になるにつれて、その制御機能はますます完全な働きをするようになる。伊織ちゃんは、ちょっとその制御機能が他の子より弱い子に、目をつけられちゃったのね」
俺はどうにか女医の手から逃れようともがいた。ジタバタ暴れた。比例して女医の力も強くなって、最終的に押し倒されたように抑えつけられた。女医はまっすぐ俺を見ている。俺の眼球を通して、内臓を暴くように。こいつの視線はメスで、今から俺は解剖される。
「可哀想に。伊織ちゃんの教科書はボロボロ。参考書は引き裂かれ、一生懸命書いたノートにはひどい言葉が並べられていた」
なんで俺はこの女の創作を強制聴講しなければいけないんだ。帰りたい。帰せ。帰せ。伊織のところに。伊織を返せ!
「それだけじゃない。自分より何倍も大きな異性に囲まれて
殴られたり、してもいないことをでっちあげられたりもした。
伊織ちゃんは耐えられるはずもなく、あなたに、稲葉秋人くんに助けを求めたの。覚えてる? 」
覚えているはずないだろう。なんだこの妄想スペースファンタジー電波女は。早く退いてくれ。
「あなたは伊織ちゃんにこう言ったはずよ。『お前、誰? 知らない。話しかけるな』って」
電波ジャックは止まらない。俺の歯ぎしりも。耐えられないのはこっちのほうだ。
「思い切って話しかけたのに、勇気を出して声をかけたのに。伊織ちゃん、絶望したでしょうね。みんなの前でそんなこと言われたら、年頃の女の子は、本当に傷つくでしょうね」
もう冬が近づいているのに、汗が止まらない。暖房を今すぐ切ってほしい。シャツが体に張り付いて気持ちが悪い。
「これが、ご両親に先生たち、周りの生徒からの聞き取りと、伊織ちゃんが書いていた日記、遺書から類推・再構築した稲葉秋人くんと有川伊織ちゃんの本当」
知らない。何の話なのか分からない。伊織は生きている。遺書ってなんだ?そうだ、今朝担任が言っていたじゃないか。有川は転校したって。家庭の事情だって。伊織がもうこの世にいないわけがない。また会えるんだ。それをこいつは平気でホラを吹きやがって。俺の記憶を書き換えようとするんじゃない。偉そうにするなヤブ医者め。お前は地獄に落ちろ。
「稲葉秋人くん」
女医は、とどめを刺すつもりなのだ。ここで俺を殺すのだ。目は無感情なまま大きく見開かれ、獲物を見つめている。
「有川伊織ちゃんは転校してしまいました」